実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 人生は,すなわち,私たちがこの世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。せっかくなら,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送りたいものです。そして,できることなら,幸せなだけでなく,真に人間らしく実り多い,自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な人生を送りたいものです。    私たちの土台を築いているのは,過去の経験,さらに言えば遺伝です。また,私たちが環境から受ける影響もけっして小さくはありません。しかし,それらによってすべてが決定されてしまうわけではありません。私たちは過去の経験や遺伝や環境の奴隷ではありません。私たちには自由意志というものがあるのであり,過去を変えることはできませんが,現在や未来は自分の意志によって変えることが可能です。また,環境を自分の思い通りに変えることはできませんが,自分を変えることは自分の意志次第です。どのような過去を持とうが,どのような環境に置かれようが,人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志さえあるなら,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であると私は信じています。皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!                                                   *なお,このブログの内容のほとんどは,電子書籍(Kindle版『実り多い幸せな人生を送るために』)の形で御覧になることもできます。

「幸せであるための方法」及び「(幸せであることを大前提として)人はいかに生きるべきか」

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 1 幸せであるための方法

 

《幸せとは》

 幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが人間の「デフォルト」なのに,そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,人間は誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要などないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などに執着すればするほど,幸せであることは困難になってしまうのではないでしょうか。)。幸せに定員などなく,幸せであるために他者を敵と見なして競争し,席を奪い合う必要などないのだと。

 きっと誰もが,死ぬ瞬間には,ほとんど無欲に近い状態になり,様々な執着や不平不満などから解放され,心の平安を取り戻すことで,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,と気づくのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その長短はあるにせよ,人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きしても,その人生が幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありません。私たちは,幸せであるべきであり,幸せに生きることにこそ最大限の関心を払い,幸せに生きることをこそ人生の最優先課題とすべきであると思います。

 不幸な人間は,やけを起こしては自制心を失い,衝動的に道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者の不幸を願い,喜び,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちです。多くの場合,銃弾で与えるよりも深刻な傷を相手に与える可能性さえ想像せずに,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を意地悪く不寛容に非難し,見下し,軽んじることによって,場合によっては,他者に直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面の不平不満や恨みつらみの感情を多少なりとも晴らし,自分の不幸を一時的にせよ紛らわせようとします。その結果,自分自身をますます不幸な状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまうわけですが,せっかくなら,そのような無益で有害な人生ではなく,自分を粗末に扱うことなく正しい道を歩みながら,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

《なぜ幸せであることに気づけないのか》

 では,私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 私たちは,この豊かで便利な生活を当たり前と思い(人間はどのような状況にも慣れる,と言うように,どれだけ恵まれた状況にもすぐに慣れてしまいます。),欲望を際限なく肥大化させることで,今ここでこうして生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れがちです。そして,足る(満足するということ)を知ることなく,普通の平凡な人生を意味のない不幸な人生であると見なすようなおごったものの見方をするようになり,また,財産や地位や権力や名声などに執着して他者と敵対し,自分の思い通りにならない人生に不平不満ばかりを募らせては(そもそも,人生はままならないものなのに),それを他者や運命のせいにして他者を恨み,他者を責め立て,運命を呪うようになることで,感謝する気持ちをますます失うという悪循環に陥ってしまいがちです。その結果として,私たちは,心の平安を失い,心の眼を曇らせ,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 あるいは,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,自分自身をないがしろにし,他者を信じることができずに他者に対して心を閉ざし,未来を悲観するようになってしまったために,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ち忘れるとともに,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 

《どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。

 私たちは,この豊かで便利な生活を当たり前と思うことなく,欲望の肥大化を最小限に抑えることで,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを思い出す必要があるのではないでしょうか。そして,足るを知り,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されて他者と仲良く助け合えるようになり,また,不平不満の感情を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,ままならない人生を泰然と受け入れられるようになることで,感謝する気持ちはますます強いものになっていくのではないでしょうか。その結果として,私たちは,心の平安や曇りのない眼を取り戻し,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,普通の平凡な人生に隠されている無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになるのだと思います。

 私たちは,何も特別なことがなくても,いつもと変わらない毎日を送っていても,あるいは,ままならない人生に苦しみや悲しみを感じていたとしても,ふとした瞬間に幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇に置かれても,不平不満をほとんど感じることなく,楽しそうに機嫌よく生きている人もいれば,不平不満に凝り固まり,つまらなそうに不機嫌に生きている人もいるように,すなわち,同じような人生を生きても,それを不幸な人生と感じる人もいれば,幸せな人生と感じる人もいるように,自分の受け止め方を変えることさえできれば,すなわち,強い意志と勇気を持って自分自身の心持ち(心構えや心がけ)を変えることによって幸せを感じ取る感度を上げることさえできれば(これは自分次第で可能です。),自分が置かれた境遇を変えることはできなくても(そもそも境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対に不可能です。),幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,ありきたりな日常生活,すなわち,生きていることそれ自体に(ただ水を飲んだり,息を吸ったりということにさえ)生きる喜びや幸せを見いだせるようになるのではないでしょうか。そのためには,過去や未来に心を奪われ,あるいは,他者との勝ち負けや他者からの評価に気を散らし,現在を上の空で生きるのではなく,人生の短さや命のはかなさを常に念頭に置き,今この瞬間をおろそかにすることなく,一日一日を,一瞬一瞬を掛け替えのないものとして大事にしながら,また,あるがままの自分を見失うことなく,今この瞬間に自分が体験していることに関心を払い,注意を集中しながら,心を込めて丁寧に今を生き,今を楽しみ,いま自分の目の前にある幸せを十分に味わえるようになることも大切であると思います。

 また,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人については,人生はままならないという事実は変えようがないにせよ,世の中の否定的な側面は否定的な側面としてしっかり認識し,対応しながら,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあります。),自分自身を大切にし,他者を信じて他者に対して心を開き,未来に明るい展望を持てるようになることが大切であると思いますが,これは「言うは易く行うは難し」であるかもしれません。しかし,人間は何歳になっても変わることができる,自分自身を根本的に変えることは難しくても,自分自身を正しく知るだけでも大きな変化が生じ得る,と私は信じています。けっして幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こさず,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになるための,自分がこの世の中に生まれてきたことを肯定できるようになるための前向きな努力を,「一念岩をも通す」という気持ちで忍耐強く続けていくことが何よりも大切であると思います。

 

 

2 (幸せであることを大前提として)人はいかに生きるべきか

 

《なぜ幸せであることを人生の大前提とするのか》

 人間は誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。そもそも,人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,不幸な人間は,やけを起こしては道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちですが,そのような無益で有害な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分を粗末に扱うことなく正しい道を歩むことができ,また,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,幸せであることは人間の義務とさえ言えるのではないでしょうか。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

《幸せであることを大前提として,人はいかに生きるべきか》

 では,私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言えば,自分を成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く(自分が幸せであることの負い目を感じつつ)他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても,自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を成長させ続け,思い残すことのない充実した,実り多い人生を送りたいと望むのは人間として自然なことだと思いますし,宇宙も生物も人類も,もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは宇宙全体の,生物全体の,人類全体の一部分であり,世界と私たちは一体なのであり,全体から切り離されて存在することはできず,すなわち,全体と無関係に独立(孤立)して生きていくことはできず(安全で豊かな社会で生活していると,ついこの事実を忘れてしまいがちですが),私たちの人生は,常に数知れぬ他者からの影響を受けており,数知れぬ他者の支援によってこそ成り立っているのである,ということを正しく認識しさえすれば,他者を恨むのではなく他者に感謝し,他者と敵対するのではなく他者と仲良く助け合い,他者の幸せを妬むのではなく他者の不幸を悲しみ,他者の不幸を願い,喜ぶのではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うような有益な人生を送りたいと願うのが人間として自然なことだと思うからです。

 

《どのようにすれば自分を成長させ続けることができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分を成長させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を成長させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,みずみずしい感受性や好奇心,自分の未熟さを自覚しての謙虚さや自省する態度(自分の体験を日々振り返り,体験,特に失敗から学び,それを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,そこで成長は止まってしまうと思うからです。人間は,何でも分かったつもりになってしまうと,それ以上分かろうとする努力をやめてしまいがちですし,自分が得意な分野でこそ失敗する,安心している時にこそ怪我(けが)をする,災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,とも言います。人間は自惚(うぬぼ)れやすく,とかく慢心しては謙虚さを失いがちな生き物ですが,せめてその自覚だけは常に持っていたいものです。

 また,私たちは,好きなことだからこそ苦労にも耐え,怠ることなく励み努めることができるのであり,怠ることなく励み努めればこそ成長できるわけですから,自分が本当にやりたい好きなことに出会い,そこに自分が正しいと信じることのできる理想を見いだし,その理想に一歩でも近づくための努力を心から楽しいと感じられるようになる,ということも重要であると思います。

 なお,成長するというのは,自足しつつも,自分自身との比較において,自分が正しいと信じる理想に向かって一歩ずつでも着実に成熟するということであり(もちろん,自分が正しいと信じる理想というものは,けっして硬直した固定的ものではなく,成長と共に柔軟に変化し得るものであり,自らがいったん掲げた理想に縛られすぎないということも大切です。),自分と他者を比較して無理な背伸びをしたり,他者からの評価を気にして右往左往したりする必要などまったくありません。人には人それぞれの生き方があるのであり,人生の目標は他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れることでも,他者から評価され,名声を得ることでもなく(それらは,あくまでも後からついてくる結果であるにすぎません。),自分の可能性に常に挑戦しながら自分自身に打ち克つこと,他者からの評価に振り回されて自分自身を見失うことなく,自分が正しいと信じる理想に一歩でも近づくことだからです。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎません。生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,他者から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません。他者との勝負や他者からの評価など,人生においては取るに足りないことだと思います。

 なお,困難に出合い,人生が行き詰まった際に,その責任を他者や運命に押し付けて恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても行き詰まりを打開することはできません。なぜならば,他者や運命を自分の思い通りにすることなど絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に責任がある場合も不運な場合もあるかもしれませんが,行き詰まりを打開したいと本気で望むのであれば,人生が行き詰まったことの責任は自分にある(自分にもある)と素直に受け止め,自分自身の力で困難を乗り越え,人生を切り開いていこうと模索し,努力することこそが,建設的な対応なのではないでしょうか。人生の主人公(責任の主体)はあくまでも自分なのであり,その主導権(責任)は絶対に手放すべきではないと思います。

 

《どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ,他者をも大切にできるのであり,自分を信じて自分に対して正直に心を開けるからこそ,他者をも信じて他者に対しても正直に心を開けるのであり,自分を理解できるからこそ他者をも理解できるのであり,自分が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,まずは自分を大切にし,自分を信じて自分に対して心を開き(自分の心の声にきちんと耳を傾け),自分を理解し,自分が幸せであるということが重要であると思います。なお,幸せには定員などないのですから,自分が幸せであるせいで誰かが不幸になるなどということはあり得ません。

 また,誰の心の中にも,もちろん私たちの心の中にも例外なく善人と悪人が同居しています。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,癒されもします。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのと全く同じです。完全な善人,完全な悪人などというものは,この世の中に存在せず,こちらの対応次第で相手は善人にも悪人にもなり得ます。言い換えれば,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいますし,どんな善人の心の中にも悪人は住んでいるということです。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人(否定的な側面)にしか目を向けなければ,その他者は私たちの目の前に悪人として立ち現れざるを得ませんし,私たちが他者の心の中に住む善人(肯定的な側面)に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれますし,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるというのが普通の人間関係です。私たちはみな同じ人間なのであり,他者と敵対して孤立して生きていくのではなく,互いに仲良く寛容になり,それぞれがより善人になれるように互いに助け合って生きていくべきであり,他者との関係においては,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けようとするのではなく,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,その善人を引き出すように,その善人が自分の前に立ち現れてくるように他者と対応することが重要であり,善人がなかなか見当たらない場合には,その成長の可能性(潜在的な肯定的側面)を信じるということが重要であると思います。

 さらに,他者に対する感謝の気持ちを忘れ,他者を敵と見なして自分と他者を比較しようとするからこそ,私たちは,他者を妬んだり,自分自身を哀れんで卑屈になったり(総じて人間は,隣の芝生を青いと思いがちであり,自分の荷物が一番重いと思いがちなものです。),自分の不幸を他者のせいにして他者を恨んだり,逆に,他者を見下したり,おごり高ぶって居丈高になったり,自分の幸せを自分の手柄として他者を軽んじたりするのであり,他者と敵対して自分と他者を比較することなく,むしろ,自分の幸せや自分の人生が数知れぬ他者の支援によってこそ成り立っていることを正しく認識し,他者に対する感謝の気持ちを忘れない,ということが重要であると思います。そもそも人間は,自分自身に満足できないからこそ自分と他者を比較しようとするのであって,自足した人間は自分と他者を比較しようとはしないのではないでしょうか。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育ち,あるいは,現在もそのような境遇に生き,世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,自分自身をないがしろにし,他者を信じることができずに他者に対して心を閉ざし,未来を悲観するようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないという人が少なくありません。特にそのような人たちに対しては,そのような人たちが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,自分を大切にし,他者を信じて他者に対して心を開き,未来に明るい展望を持てるようになることを通じて感謝の気持ちを思い出すとともに,いま目の前にある幸せに気づけるように,そして,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合えるように,慎み深く自分にできる限りの支援をしたいものです。いまだ幸せになり得ていない人が幸せになるための支援をすることは,数しれぬ他者の支援によってすでに幸せを手に入れている人間の,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間の,人間としての最低限の務めであると思うからです。

 なお,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分自身の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。また,大人たちが,感謝して足るを知ることよりも,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが他者と仲良く助け合いながら,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であり続ける可能性がありますので,まずは私も含めた大人たちが,そのような価値観をより健全なものに修正する必要があるのではないかと思います。

 

 

 「幸せであるための方法(どのようにすれば人は幸せであることができるのか)」及び「(幸せであることを大前提として)人はいかに生きるべきか」という,すべての人間にとっての最重要テーマについて,様々な書物などからヒントを得ながら,私なりに真剣に,筋道立てて考え,確信を得たところの要点は,現時点における私の理解度・成熟度においてはおおむね以上のとおりです。このように考え,確信を得るに至った根拠を示してもらいたい,もう少し具体的に説明してもらいたい,と思われる方は,「幸せに関する名言」,「人生に関する名言」及び「幸せに関する覚え書き」を御参照ください。

 あなたの人生が,実り多い,生きる喜びに満ちた幸せなものでありますように。

 

 

2020年2月2日更新