実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

「幸せであるための方法」及び「(幸せであることを大前提として)人はいかに生きるべきか」

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1 幸せであるための方法

 

《幸せとは》

 幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに(幸せであることが人間の「デフォルト」なのに),そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,人間は誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位(権力)や名声を手に入れる必要などないのだと。幸せに定員などなく,幸せであるために他者と競い合い,席を奪い合う必要などないのだと。きっと誰もが,死ぬ瞬間には,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,と気づくのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。私たちは,幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,最大限のエネルギーを注ぐべきであると思います。また,不幸な人間は,やけを起こしやすく,道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,他者の幸せを妬み,他者の不幸を喜びがちであり,多くの場合,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を非難し,見下し,軽んじることによって,内面の不満や恨みを多少なりとも晴らし,自らの不幸を一時的にせよ紛らわせようとしがちですが(要するに,不幸な人間は,他者をも不幸な状況に巻き込み,追い込もうとしがちですが),せっかくなら,そのような無益な人生ではなく,正しい道を歩みながら,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

《なぜ幸せであることに気づけないのか》

 では,私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。一言で言えば,この豊かで便利な生活を当たり前と思い,欲望を肥大化させた末に今ここでこうして普通に生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れ去り,むしろ,平凡な人生を意味のない不幸な人生であると見なすようなおごったものの見方をするようになるとともに,財産や地位(権力)や名声に執着して他者と敵対し,物事が自分の思い通りにならないことでの不平不満ばかりを募らせては,それを他者や運命のせいにして他者を恨み,運命を呪うようになってしまったために(そのことを通じて感謝する気持ちをますます失うという悪循環に陥ってしまったために),心の平安を失い(心の眼を曇らせ),いま目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのだと思います。あるいは,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,自分自身をないがしろにし,他者を信じることができずに他者に対して心を閉ざし,未来を悲観するようになってしまったために,すなわち,世の中の肯定的な側面に目を向けられなくなってしまったために,今ここでこうして普通に生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れ去るとともに,いま目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのだと思います。

 

《どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。まずは,この豊かで便利な生活を当たり前と思うことなく,今ここでこうして普通に生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを思い出すことで足るを知り(感謝する気持ちを忘れ去ることがないよう,欲望の肥大化を最小限に抑え),財産や地位(権力)や名声に対する執着を捨てて他者と融和し,心の平安(曇りのない眼)を取り戻すとともに平凡な人生に生きる喜びや幸せを見いだせるようになる必要があると思います。私たちは,何も特別なことがなくても,いつもと変わらない毎日を送っていても,あるいは,たとえ悩みや不満を抱えていたとしても,ふとした瞬間に幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇に置かれていても,楽しそうに機嫌よく生きている人もいれば,つまらなそうに不機嫌に生きている人もいるように,自分自身の心持ち(心構えや心がけ)によって幸せを感じ取る感度を上げることさえできれば,自分が置かれた境遇とは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがてはありきたりの日常生活,すなわち,生きていることそれ自体に無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになるのではないでしょうか(生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることを通じて,感謝する気持ちはますます強いものになっていくのではないでしょうか。)。そして,そのためにも,過去(記憶・後悔)や未来(空想・不安)に心を奪われて落ち着きなく上の空で生きるのではなく,人生の短さや命のはかなさを常に念頭に置き,今この瞬間をおろそかにすることなく,一日一日を,一瞬一瞬を掛け替えのないものとして大切に味わいながら,呼吸をはじめ今この瞬間に自分が体験していることに心を集中し,心を込めて今を生き,今を楽しめる(いま目の前にある幸せに気づける)ようになる必要があると思います。また,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人については,まずは世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,自分自身を大切にし,他者を信じて他者に対して心を開き,未来に明るい展望を持てるようになることが大切であると思いますが,これは「言うは易く行うは難し」であるかもしれません。しかし,人間は何歳になっても変わることができる(たとえ人格を根本的に変えることは難しくても,自分の人格の弱点を自覚するだけでも何らかの変化は生じ得る),と私は信じています。けっして幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こさず,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,世の中を肯定できるようになるための前向きな努力を,強い意志を持って忍耐強く続けていくことが何よりも大切であると思います。

 

 

2 (幸せであることを大前提として)人はいかに生きるべきか

 

《なぜ幸せであることを人生の大前提とするのか》

 人間は誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。そもそも,人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,不幸な人間は,やけを起こしやすく,道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,他者をも不幸な状況に巻き込み,追い込もうとしがちですが,そのような無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,正しい道を歩むことができ,また,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのだと思います(その意味で,対人援助・対人サービスの仕事に従事している人にとって,幸せであることは義務であると思います。)。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

《幸せであることを大前提として,人はいかに生きるべきか》

 では,私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。結論を先に言えば,自分を常に成長させながら,他者と融和し,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送りたいと望むのは人間として自然なことだと思いますし(たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても),宇宙も生物も人類も,もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは宇宙全体の,生物全体の,人類全体の一部分なのであり,全体から切り離されて存在することはできず,すなわち,全体と無関係に独りで生きていくことはできず,私たちの人生は,常に数知れぬ他者からの影響を受けており,数知れぬ他者の支援によってこそ成り立っているのである,ということを正しく認識しさえすれば,他者を恨むのではなく他者に感謝し,他者と敵対するのではなく他者と融和し,他者を蹴落とそうとするのではなく他者と助け合い,他者の不幸を喜ぶのではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合って有益な人生を送りたいと願うのが人間として自然なことだと思うからです。

 

《どのようにすれば自分を常に成長させることができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分を常に成長させることができるのでしょうか。重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を成長させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,みずみずしい感受性や好奇心,自分の未熟さを自覚しての謙虚さや自省する態度(自分の体験を日々振り返り,体験から学ぼうとする姿勢)といったものを失い,そこで成長は止まってしまうと思うからです(何でも分かったつもりになってしまうと,人間はそれ以上分かろうとする努力を放棄してしまいがちですし,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する,とも言います。)。また,私たちは,好きなことだからこそ苦労にも耐え,忍耐強く専心努力できるのであり,忍耐づよく専心努力し続ければこそ人間として成長できるわけですから,好きなことに出会い,そこに自分が信じることのできる理想を見いだし,その理想に一歩でも近づくための努力を心から楽しいと感じられるようになる,ということも重要であると思います。なお,成長するというのは,自分自身との比較において,自分が信じる理想に向かって一歩ずつ成熟するということであり,自分と他者を比較して無理な背伸びをしたり,他者からの評価を気にして右往左往したりする必要などまったくありません。人には人それぞれの生き方があり,人生の目標は他者に勝つことでも(他者より多くの財産や高い地位(大きな権力)を手に入れることでも),他者から評価されることでも(名声を得ることでも)なく,自分の可能性に常に挑戦しながら自分自身に打ち克つこと,あるがままの自分を見失うことなく自分が信じる理想に一歩でも近づくことだからです。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎません。生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,他者から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません。他者との勝負や他者からの評価など,人生においては取るに足りないことだと思います。なお,人生が行き詰まった際に,それを他者や運命のせいにして,他者を恨んだり,運命を呪ったりすることは,自分の力で行き詰まりを打開し,人生を切り開いていく道を閉ざしてしまうことにつながります。なぜならば,自分の力で自分自身を変えることはできても,他者や運命を自分の思い通りに変えることなど絶対にできないのですから。確かに,人生の行き詰まりには他者に責任がある場合も不運な場合もあるかもしれませんが,人生の主人公(責任の主体)はあくまでも自分なのであり,その主導権(責任)は絶対に手放すべきではないと思います。

 

《どのようにすれば他者と融和し,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば他者と融和し,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ,他者をも大切にできるのであり,自分を信じて自分に対して心を開けるからこそ,他者をも信じて他者に対しても心を開けるのであり(さらに言えば,こちらが他者を信じて他者に対して心を開くからこそ,他者もこちらを信じてこちらに対して心を開いてくれるのであり),自分が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,まずは自分を大切にし,自分を信じて自分に対して心を開き(自分の心の声にきちんと耳を傾け),自分が幸せであるということが重要です(幸せに定員がない以上,自分が幸せであるせいで誰かが不幸になるなどということはないのですから。)。また,誰の心の中にも(私たちの心の中にも),悪人と善人が同居しています。私たちは他者によって傷つけられもしますが,癒されもします(私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするように)。完全な善人,完全な悪人などというものは,この世の中に存在しません。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人(否定的な側面)にしか目を向けなければ,その他者は私たちの目の前に悪人として立ち現れざるを得ませんし,私たちが他者の心の中に住む善人(肯定的な側面)に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。私たちはみな同じ人間であり,互いに仲良く,それぞれがより善人になれるように互いに力を合わせて生きていくべきであり,他者との関係においては,できる限り相手を尊重し,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けようとするのではなく,相手の心の中に住む善人(肯定的な側面)にこそ積極的に目を向けるように努め,善人(肯定的な側面)がなかなか見当たらない場合には,その成長の可能性(潜在的な肯定的側面)を信じる,ということが重要なのではないでしょうか。さらに,他者に対する感謝の気持ちを忘れ,自分と他者を比較しようとするからこそ,自分自身を哀れんだり(おごり高ぶったり),他者を妬んだり(他者を見下したり),ひいては,自分の不幸を他者のせいにして他者を恨んだり(自分の幸せを自分の手柄として他者を軽んじたり)して他者と敵対するのであり,自分と他者を比較することなく,むしろ,自分の幸せや自分の人生が数知れぬ他者の支援によってこそ成り立っていることを正しく認識し,他者に対する感謝の気持ちを忘れない,ということが重要であると思います(人間は,自分自身に満足できないからこそ自分と他者を比較しようとするのであって,自足した人間は自分と他者を比較しようとはしないのではないでしょうか。)。世の中には,恵まれない境遇に生まれ育ち,あるいは,現在もそのような境遇に生き,世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,自分自身をないがしろにし,他者を信じることができずに他者に対して心を閉ざし,未来を悲観するようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないという人が少なくありませんが,特にそのような人たちに対しては,そのような人たちが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,自分自身を大切にし,他者を信じて他者に対して心を開き,未来に明るい展望を持てるようになることを通じていま目の前にある幸せに気づけるように,慎み深く(自分が幸せであることの負目を感じつつ)自分にできる限りの支援をしたいものです。いまだ幸せになり得ていない人が幸せになるための支援をすることは,数しれぬ他者の支援によってすでに幸せを手に入れている人間の,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間の,人間としての最低限の務めであると思うからです。加えて,未来を担う子供たちに対しては,自分たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分自身の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。なお,大人たちが,感謝して足るを知ることよりも,財産や地位(権力)や名声を得ることを高く評価し続ける限り,子供たちが他者と融和し,心の平安を保ち(心の目を曇らせることなく),幸せであることは,とても険しい道程(みちのり)であり続けるのではないかと危惧(きぐ)します。

 

 

 「幸せであるための方法」及び「(幸せであることを大前提として)人はいかに生きるべきか」という人生の最重要テーマについて,様々な書物からヒントを得て,私なりに真剣に,筋道立てて考え,確信を得たところの要点は,現時点においては(現時点における私の理解度・成熟度においては)おおむね以上のとおりです。このように考え,確信を得るに至った根拠を示してもらいたい,もう少し具体的に説明してもらいたい,と思われる方は,「幸せに関する名言」,「人生に関する名言」及び「幸せに関する覚え書き」を御参照ください。

 あなたの人生が,実り多い幸せなものでありますように。

 

 

2020年1月20日更新