幸せであるために

幸せや人生について,ああでもないこうでもないと考えるためのブログ

 定年退職し,多くの自由を手に入れたことを機に,「幸せであるための方法(どのようにすれば人は幸せであることができるのか)」について真剣に考えてみようと思います。それは,これからの人生を幸せに生きたいという個人的な願いからですが,どなたかの御参考になればとも願っています。  また,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにすべく,「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか」ということについても真剣に考えてみようと思います。  あなたの人生が,実り多い,生きる喜びに満ちた幸せなものでありますように。

「幸せであるための方法」及び「幸せであることを大前提として人はいかに生きるべきなのか」

f:id:daikiti707:20190426090110j:plain

 

1 幸せであるための方法

 

《幸せとは》

 幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが人間の「デフォルト」なのに,そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,人間は誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要などないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などに執着すればするほど,幸せであることは困難になってしまうのではないでしょうか。)。幸せに定員などなく,幸せであるために,他者と競い合い,席を奪い合う必要などないのだと。

 きっと誰もが,死ぬ瞬間には,ほとんど無欲に近い状態になり,様々な執着や不平不満などから解放されて心の平安を取り戻し,あるがままの人生を謙虚に受け入れられるようになることで,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれてきたことは,本当に幸せなことだったんだなあ,と気づき,感謝の気持ちを新たにするのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きしたとしても,その人生が幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)はありません。私たちは,幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきであると思います。

 感謝の気持ちを忘れてしまった不幸な人間は,やけを起こしては自制心を失い,衝動的に道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちです。多くの場合,銃弾で与えるよりも深刻な,取り返しのつかない傷を相手に与える可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を不寛容に(自分のことは棚に上げて)意地悪く非難し,見下し,軽んじることによって,場合によっては,他者に直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満や恨みつらみの感情を多少なりとも晴らし,自分の不幸を一時的にせよ紛らわせようとします。その結果,自分をますます惨めで不幸な状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまうわけですが,せっかくなら,そのような無益で有害な人生ではなく,自分を大切にしながら正しい道を歩めるような,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

《なぜ幸せであることになかなか気づけないのか》

 では,私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 私たちは,この豊かで便利な生活を当たり前と思いやすく(人間はどのような状況にも慣れると言うように,どれだけ恵まれた状況にもすぐに慣れてしまいます。),今ここでこうして生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れるとともに,欲望を際限なく肥大化させてしまいがちです。そして,足る(欲を張らずに現状に満足するということ)を知らずに,普通の平凡な人生を意味のない不幸な人生であると見なすようなおごったものの見方をするようになることで,また,財産や地位や権力や名声などに執着して他者と敵対するとともに,思い上がった末に人生は自分の思い通りになるはずだと勘違いして人生に対する不平不満ばかりを募らせては被害的になり,人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにして他者を恨み,他者を責め立て,不運を嘆き,運命を呪うようになることで,感謝する気持ちをますます失うという悪循環に陥ってしまいがちです。私たちは,その結果として,欲望の肥大化を自制できないまま,心の平安を失い,心の眼を曇らせることにより,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 あるいは,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者を憎んで他者に対して心を閉ざし,人生を憎んで人生を悲観し,自分自身を憎んで自分自身をないがしろにするようになってしまったために,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ち忘れるとともに,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 

《どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。

 私たちは,まずは,この豊かで便利な生活を当たり前と思うことなく,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを思い出すことで(「ありがとう」という言葉の意味深さ!),欲望の肥大化を自制する必要があるのではないでしょうか。その上で,足るを知り,謙虚な気持ちになり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになることで,また,不平不満の感情や被害感を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物である,という事実を事実として泰然と受け止められるようになることで,感謝する気持ちをますます強いものにしていく必要があるのではないでしょうか。私たちは,その結果として,欲望を肥大化させることなく,心の平安や曇りのない眼を取り戻すことによって,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては普通の平凡な人生に隠されている無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになるのだと思います。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,大きな成功を手に入れなくても),いつもと変わらない単調な毎日を送っていても,あるいは,困難や苦労が付き物のままならない人生に悲しみや苦しみを感じていたとしても,ふとした瞬間に幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇に置かれても,不平不満をほとんど感じることなく,楽しそうに機嫌よく生きている人もいれば,不平不満に凝り固まり,つまらなそうに不機嫌に生きている人もいるように,自分の受け止め方を変えることさえできれば,すなわち,強い意志と勇気を持って自分の心持ちを変えることによって幸せを感じ取る感度を上げることさえできれば(これは自分次第で十分に可能なことです。),幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,ありきたりな日常生活,すなわち,生きていることそれ自体に(ただ水を飲んだり,息を吸ったりということさえ)幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。もちろん,境遇が人間に与える影響は決して小さくありませんが,人間の幸不幸を最終的に決めるのは,境遇そのものではなく,その境遇を本人がいかに受け止めるかという本人の心持ちでなのではないでしょうか。そもそも,自分が置かれている境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対に不可能なのですから,私たちは,どのような境遇に置かれても常に自足し,幸せであり続けられるように,自分自身の心構えや心がけを変えるためにこそ限りある時間やエネルギーを使い,精進すべきであると思います。また,過去や未来に心を奪われて(あるいは,他者との勝ち負けや他者からの評価ばかりに気を散らして,あるいは,目先の刺激や興奮やスリルに夢中になって,あるいは,雑事に追われて我を忘れて)現在を上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある小さな幸せに気づくということは難しいことなのではないでしょうか。したがって,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,人生が短く無常なものであることや,命のはかなさを常に念頭に置き(しかも,死ぬことを免れようとしてじたばたしたり,死ぬことを恐れて心ここにあらずという放心状態になったりすることなく),今この瞬間をおろそかにすることなく,一日一日を,一瞬一瞬を掛け替えのないものとして大事にするとともに,自分自身を見失うことなく,今この瞬間に自分が体験していることにしっかり注意を払い,意識を集中しながら,心を込めて丁寧に今を生き,今を楽しめる(いま自分の目の前にある幸せをじっくり味わえる)ようになる必要があると思います。

 また,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人については,世の中に否定的な側面があるという事実は否めないにしても,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあるのではないでしょうか。),他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることが大事であると思います。これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかもしれませんが,生まれつき不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば必ず不幸になるという境遇などというものはないのではないでしょうか。自分の人生を幸せなものとするか不幸なものにするかは,最終的には本人次第なのであり,自分を変えることさえできれば(人間は何歳になってもきっと変わることができます。),自分の人生を幸せなものに変えることはけっして不可能なことではないと私は信じています。人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物であるが,人生に絶望してはいけないのだと思います。どんなに恵まれない苦しい境遇に置かれようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こさず,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,すなわち,自分がこの世の中に生まれてきたことを肯定し,感謝できるようになるための前向きな努力を,「一念(一心)岩をも通す」という気持ちで忍耐強く続けていくことが何よりも大切なのだと思います。

 

 

2 幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか

 

《なぜ幸せであることを人生の大前提とするのか》

 誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,感謝の気持ちを忘れてしまった不幸な人間は,やけを起こしては道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちですが,そのような無益で有害な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,幸せであることは人間の義務である,とさえ言えるのではないでしょうか。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は以上のとおりです。

 

《幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか》

 では,私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言えば,自分を人間的に成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く(自分が幸せであることの負い目を感じつつ)他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても(何を得るために何を失おうとしているのか,という自覚は常に必要であると思いますが),自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を人間的に成長させ続け,思い残すことのない充実した人生を送りたいと望むのは,人間として自然なことだと思うからです。また,人類は(生き物や宇宙も),もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは人類全体の一部分なのであり(さらに言えば,生き物全体の,宇宙全体の一部分なのであり),全体から切り離されて存在することはできず,すなわち,私たちと他者(世界)は一体なのであり,私たちは他者と無関係に独立(孤立)して生きていくことはできませんし,私たちは常に数知れぬ他者からの影響を受けているだけではなく,数知れぬ他者の支えがあってこそ今ここでこうして生きていられるのである(もちろん,私たちも多くの他者に影響を与え,多くの他者の支えになっている可能性があるわけですが),ということを正しく認識しさえすれば,他者を恨むのではなく他者に感謝し,他者と敵対するのではなく他者と仲良く助け合い,他者の幸せを妬み,他者を不幸に追い込もうとするのではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うような有益な人生を送りたいと願うのが,人間として自然なことだと思うからです。

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長させ続けることができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,みずみずしい感受性や好奇心,自分の無知や未熟さを自覚しての真摯に学ぶ姿勢や自省する態度(日々の体験を振り返り,失敗(過ち)を失敗として素直に認めた上で,失敗などから学ぶべきことを学び,それらを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,そこで成長は止まってしまうと思うからです。人間は,何でも分かったつもりになってしまうと,本当は分かっていることなど高が知れているのに,それ以上学ぼうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった,深みのない,極めて退屈なものになってしまいがちです。加えて,人間は自惚(うぬぼ)れやすく,すぐに危機意識を失ってしまいがちですが,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する,安心している時にこそ怪我(けが)をする,災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,などとも言います。大きな失敗を避けるためにも,せめて人間は自惚れやすいという自覚だけは常に持っていたいものです。

 また,私たちは,好きなことだからこそ困難や苦労にも耐え,怠ることなく励み努めることができるのであり,怠ることなく励み努めればこそ人間的に成長できるわけですから,自分が本当にやりたい好きなことに出会い,そこに自分が信じることのできる理想を見いだし,その理想に一歩でも近づくための努力を心から楽しいと感じられるようになるということも重要であると思います。

 なお,人間的に成長するというのは,自足しつつも常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる理想に向かって一歩一歩前進し,着実に成熟するということであり(もちろん,自分が信じる理想というものは,一つだけに限る必要はありませんし,また,けっして硬直した固定的ものではなく,成長と共に柔軟に変化し得るものであり,自らがいったん掲げた理想に縛られすぎないということも大切であると思いますが),他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,世間から良い評価を得ようとして自分の信念をねじ曲げたりする必要などまったくありません。人間は十人十色であり,人それぞれの生き方があるのであり,人生の目標は他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れることでも,世間から評価され,名声を得ることでもなく(それらは,あくまでも後からついてくる結果であるにすぎません。),強い自制心を持って自分自身に打ち克ち,自分を人間的に成長させ続け,自分の可能性を十分に花開かせることであり,世間の評価に振り回されて自分自身を見失い,自分が進むべき道を誤ることなく,自分が信じる理想に一歩でも近づくことだからです。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎません。生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません。他者との勝負や世間の評価など,人生においては取るに足りないことだと思います(もちろん,私たちが,自分が信じる道を歩み続けることができるのは,他者の協力や支援があってこそであり,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失ってはなりませんし,他者に対する協力や支援は進んで行うべきであると思いますが)。「引きこもり」という生き方も,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失うことなく,自分が信じる理想を持って本人が自足して生きることができているのであれば,許容されるべき一つの生き方であると思います。

 また,困難に出合い,人生が行き詰まった際に,その原因や責任を他者や運命に押し付けて恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても行き詰まりを打開することはできません。なぜならば,他者や運命を自分の思い通りにすることなどで絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に原因や責任がある場合も不運な場合もあるかもしれませんが,行き詰まりを打開したいと本気で望むのであれば,人生に困難や苦労は付き物であるという事実をしっかり受け止めた上で,行き詰まったことの原因や責任は自分にある(自分にもある)と見方を変え,自分を省みて改めるべき点があれば改めつつ,自分自身の力で困難を乗り越え,人生を切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。人生の主人公(責任の主体)はあくまでも自分なのであり,その主導権(責任)は絶対に手放すべきではないと思います。

 

《どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じて自分に対して正直に心を開けるからこそ他者を信じて他者に対して正直に心を開けるのであり,自分を理解できるからこそ他者を理解できるのであり,自分が幸せであるからこそ自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,まずは自分を大切にし,自分を信じて自分に対して心を開き(自分の心の声にきちんと耳を傾け),自分を理解し,自分が幸せであるということが重要であると思います。なお,幸せには定員などないのですから,自分が幸せであるせいで誰かが不幸になるなどということはあり得ません。

 また,誰の心の中にも,もちろん私たちの心の中にも例外なく善人(肯定的な側面)と悪人(否定的な側面)が同居しています。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのと全く同じです。完全な善人,完全な悪人などというものは,この世の中に存在しませんし,こちらの対応次第で相手は善人にも悪人にもなり得るのではないでしょうか。言い換えれば,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいますし,どんな善人の心の中にも悪人は住んでいるということです。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,その他者は私たちの目の前に悪人として立ち現れざるを得ませんし,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれますし,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるというのが普通の人間関係なのではないでしょうか。私たちはみな同じ人間なのであり,他者と敵対して生きていくのではなく,もっと寛容になり(たとえ他者を非難することがあったとして,「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちをけっして忘れることなく),それぞれがより善人になれるように互いに仲良く助け合って生きていくべきであり,他者との関係においては,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向け,すぐに相手を嫌いになってしまうのではなく,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,その善人を引き出すように,その善人が自分の前に立ち現れてくるように,できる限り相手を好きになれるように他者と対応することが重要であり,善人がなかなか見当たらない場合でも,その成長の可能性(潜在的な肯定的側面)は信じるということが重要であると思います。

 さらに,他者に対する感謝の気持ちを忘れ,他者を敵とみなして競い合おうとするからこそ,私たちは,他者を妬んだり,自分を哀れんで卑屈になったり,自分の不幸を他者のせいにして他者を恨んだり(総じて人間は,隣の芝生を青いと思いがちであり,自分の荷物が一番重いと思いがちなものです。),逆に,他者を見下したり,おごり高ぶって居丈高になったり,自分の幸せを自分の手柄として他者を軽んじたりするのであり,他者と敵対することなく,むしろ,自分の人生や自分の幸せが数知れぬ他者の支援によってこそ成り立っていることを正しく認識し(安全で豊かな社会で生活していると,つい忘れてしまいがちですが,私たちはけっして自分独りで生きていくことはできません。),他者に対する感謝の気持ちを忘れない,ということが重要であると思います。そもそも人間は,自分の人生に満足できないからこそ他者の人生が羨ましく,妬ましくなるのであって,足るを知り,自足している人間は,自分と他者を比較しようとはしないのではないでしょうか。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育ち,あるいは,現在もそのような境遇に生きるなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,自分をないがしろにし,他者を信じることができずに他者に対して心を閉ざし,未来を悲観するようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないという人が少なくありません。特にそのような人たちに対しては,そのような人たちが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて感謝の気持ちを思い出すとともに,いま目の前にある幸せに気づけるように,そして,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていけるように,慎み深く自分にできる限りの支援をしたいものです。いまだ幸せになり得ていない人が幸せになるための支援をすることは,数しれぬ他者の支援によってすでに幸せを手に入れている人間の,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間の,人間としての最低限の務めであると思うからです。

 なお,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。また,大人たちが,幸せであることについて真剣に考えようとせず,感謝して足るを知ることよりも,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが心の平安を保ちつつ,他者と仲良く助け合いながら生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるような気がします。まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,幸せであることについて真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない,回りくどく煩わしいいだけの作業のように感じられるかもしれませんが),その上で自分の価値観をより健全なものに改める必要があるのではないでしょうか。

 

 

 「幸せであるための方法(どのようにすれば人は幸せであることができるのか)」及び「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか」という人生の最重要テーマについて,私なりに真剣に,筋道立てて考え,確信を得たところの要点は,現時点における私の理解度・成熟度においておおむね以上のとおりです。このように考え,確信を得るに至った根拠を示してもらいたい,もう少し具体的に説明してもらいたい,と思われる方は,「幸せに関する名言」,「人生に関する名言」及び「幸せに関する覚え書き」を御参照ください。

 あなたの人生が,実り多い,生きる喜びに満ちた幸せなものでありますように。

 

 

 

2020年2月16日更新

【人生に関する名言 299】

「自分の弱さを認めることができるためにはある程度の強さが必要である。」(『武道的思考』,内田樹筑摩書房

 

◯自分が無知であることや未熟であることを謙虚に自覚するためには,自分の成長の可能性を信じ,その可能性に常に挑戦し続けられるだけの強さが必要である。そのようにして自分の可能性を十分に花開かせ,充実した生活を送ることができている人にとっては,他者との勝ち負けや他者からの評価など,そもそも取るに足りないことであるに違いない。(2020年2月19日)

【幸せに関する名言 299】

「人生は悪意にみちたものかもしれないが,どんな人間のうちにも一片の善意はひそんでいるものだ。(亀井勝一郎)」(『座右の銘』,「座右の銘」研究会編,里文出版)

 

◯世の中には否定的な側面がある。しかし,肯定的な側面も確かにあるのである。どんな悪人の心の中にも,きっと善人になる可能性は秘められている。生きる喜びに満ちた幸せな人生を送りたいのであれば,どのような逆境に置かれようが,けっしてやけを起こすことなく,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けようと努力し続けることが,すなわち,自分自身を大切にできるように,他者に対して心を開けるように,人生に対して明るい展望を持てるように努力し続けることが重要である。(2020年2月18日)

【人生に関する名言 298】

「人間にとってもっとも尊ぶべきことは,はっきり自覚した目的を持つことと決断,さらに実行である。(ゲーテ)」(『座右の銘』,「座右の銘」研究会編,里文出版)

 

◯自分が信じることのできる理想があればこそ,自分が進むべき道も明らかになり,困難を乗り越えてでも,どのような苦労をしてでもその道を前進しようとする勇気やエネルギーが湧いてくるのである。理想を一つに限定する必要はなく,また,理想は自分の成熟度に応じて変化し得るものであってよいと思うが,自分が本当に信じることのできる理想を持つということは,実り多い充実した人生を送る上において欠かせない条件なのではないだろうか。(2020年2月17日)

【幸せに関する名言 298】

「もちろん,私たちは,愛する人びとの幸福を願うべきである。しかし,私たち自身の幸福と引き換えであってはならない。」(『ラッセル 幸福論』,安藤貞雄訳,岩波書店

 

◯私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのである。他者の幸せを妬み,他者の不幸を喜ぶような人間にならないようにするためにも,まずは,自分自身が幸せであるためになすべきことをなすべきである。なお,世の中には,自分を犠牲にしてでも他者のために生きたい,という人がいるかもしれないが,その他者は本当にそのような犠牲を喜ぶであろうか。自分自身を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にできるということはあるのだろうか。(2020年2月17日)

「幸せであるための方法」及び「幸せであることを大前提として人はいかに生きるべきなのか」

f:id:daikiti707:20190426090110j:plain

 

1 幸せであるための方法

 

《幸せとは》

 幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが人間の「デフォルト」なのに,そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,人間は誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要などないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などに執着すればするほど,幸せであることは困難になってしまうのではないでしょうか。)。幸せに定員などなく,幸せであるために,他者と競い合い,席を奪い合う必要などないのだと。

 きっと誰もが,死ぬ瞬間には,ほとんど無欲に近い状態になり,様々な執着や不平不満などから解放されて心の平安を取り戻し,あるがままの人生を謙虚に受け入れられるようになることで,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれてきたことは,本当に幸せなことだったんだなあ,と気づき,感謝の気持ちを新たにするのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きしたとしても,その人生が幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)はありません。私たちは,幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきであると思います。

 感謝の気持ちを忘れてしまった不幸な人間は,やけを起こしては自制心を失い,衝動的に道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちです。多くの場合,銃弾で与えるよりも深刻な,取り返しのつかない傷を相手に与える可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を不寛容に(自分のことは棚に上げて)意地悪く非難し,見下し,軽んじることによって,場合によっては,他者に直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満や恨みつらみの感情を多少なりとも晴らし,自分の不幸を一時的にせよ紛らわせようとします。その結果,自分をますます惨めで不幸な状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまうわけですが,せっかくなら,そのような無益で有害な人生ではなく,自分を大切にしながら正しい道を歩めるような,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

《なぜ幸せであることになかなか気づけないのか》

 では,私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 私たちは,この豊かで便利な生活を当たり前と思いやすく(人間はどのような状況にも慣れると言うように,どれだけ恵まれた状況にもすぐに慣れてしまいます。),今ここでこうして生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れるとともに,欲望を際限なく肥大化させてしまいがちです。そして,足る(欲を張らずに現状に満足するということ)を知らずに,普通の平凡な人生を意味のない不幸な人生であると見なすようなおごったものの見方をするようになることで,また,財産や地位や権力や名声などに執着して他者と敵対するとともに,思い上がった末に人生は自分の思い通りになるはずだと勘違いして人生に対する不平不満ばかりを募らせては被害的になり,人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにして他者を恨み,他者を責め立て,不運を嘆き,運命を呪うようになることで,感謝する気持ちをますます失うという悪循環に陥ってしまいがちです。私たちは,その結果として,欲望の肥大化を自制できないまま,心の平安を失い,心の眼を曇らせることにより,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 あるいは,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者を憎んで他者に対して心を閉ざし,人生を憎んで人生を悲観し,自分自身を憎んで自分自身をないがしろにするようになってしまったために,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ち忘れるとともに,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 

《どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。

 私たちは,まずは,この豊かで便利な生活を当たり前と思うことなく,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを思い出すことで(「ありがとう」という言葉の意味深さ!),欲望の肥大化を自制する必要があるのではないでしょうか。その上で,足るを知り,謙虚な気持ちになり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになることで,また,不平不満の感情や被害感を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物である,という事実を事実として泰然と受け止められるようになることで,感謝する気持ちをますます強いものにしていく必要があるのではないでしょうか。私たちは,その結果として,欲望を肥大化させることなく,心の平安や曇りのない眼を取り戻すことによって,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては普通の平凡な人生に隠されている無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになるのだと思います。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,大きな成功を手に入れなくても),いつもと変わらない単調な毎日を送っていても,あるいは,困難や苦労が付き物のままならない人生に悲しみや苦しみを感じていたとしても,ふとした瞬間に幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇に置かれても,不平不満をほとんど感じることなく,楽しそうに機嫌よく生きている人もいれば,不平不満に凝り固まり,つまらなそうに不機嫌に生きている人もいるように,自分の受け止め方を変えることさえできれば,すなわち,強い意志と勇気を持って自分の心持ちを変えることによって幸せを感じ取る感度を上げることさえできれば(これは自分次第で十分に可能なことです。),幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,ありきたりな日常生活,すなわち,生きていることそれ自体に(ただ水を飲んだり,息を吸ったりということさえ)幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。もちろん,境遇が人間に与える影響は決して小さくありませんが,人間の幸不幸を最終的に決めるのは,境遇そのものではなく,その境遇を本人がいかに受け止めるかという本人の心持ちでなのではないでしょうか。そもそも,自分が置かれている境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対に不可能なのですから,私たちは,どのような境遇に置かれても常に自足し,幸せであり続けられるように,自分自身の心構えや心がけを変えるためにこそ限りある時間やエネルギーを使い,精進すべきであると思います。また,過去や未来に心を奪われて(あるいは,他者との勝ち負けや他者からの評価ばかりに気を散らして,あるいは,目先の刺激や興奮やスリルに夢中になって,あるいは,雑事に追われて我を忘れて)現在を上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある小さな幸せに気づくということは難しいことなのではないでしょうか。したがって,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,人生が短く無常なものであることや,命のはかなさを常に念頭に置き(しかも,死ぬことを免れようとしてじたばたしたり,死ぬことを恐れて心ここにあらずという放心状態になったりすることなく),今この瞬間をおろそかにすることなく,一日一日を,一瞬一瞬を掛け替えのないものとして大事にするとともに,自分自身を見失うことなく,今この瞬間に自分が体験していることにしっかり注意を払い,意識を集中しながら,心を込めて丁寧に今を生き,今を楽しめる(いま自分の目の前にある幸せをじっくり味わえる)ようになる必要があると思います。

 また,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人については,世の中に否定的な側面があるという事実は否めないにしても,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあるのではないでしょうか。),他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることが大事であると思います。これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかもしれませんが,生まれつき不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば必ず不幸になるという境遇などというものはないのではないでしょうか。自分の人生を幸せなものとするか不幸なものにするかは,最終的には本人次第なのであり,自分を変えることさえできれば(人間は何歳になってもきっと変わることができます。),自分の人生を幸せなものに変えることはけっして不可能なことではないと私は信じています。人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物であるが,人生に絶望してはいけないのだと思います。どんなに恵まれない苦しい境遇に置かれようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こさず,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,すなわち,自分がこの世の中に生まれてきたことを肯定し,感謝できるようになるための前向きな努力を,「一念(一心)岩をも通す」という気持ちで忍耐強く続けていくことが何よりも大切なのだと思います。

 

 

2 幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか

 

《なぜ幸せであることを人生の大前提とするのか》

 誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,感謝の気持ちを忘れてしまった不幸な人間は,やけを起こしては道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちですが,そのような無益で有害な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,幸せであることは人間の義務である,とさえ言えるのではないでしょうか。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は以上のとおりです。

 

《幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか》

 では,私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言えば,自分を人間的に成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く(自分が幸せであることの負い目を感じつつ)他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても(何を得るために何を失おうとしているのか,という自覚は常に必要であると思いますが),自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を人間的に成長させ続け,思い残すことのない充実した人生を送りたいと望むのは,人間として自然なことだと思うからです。また,人類は(生き物や宇宙も),もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは人類全体の一部分なのであり(さらに言えば,生き物全体の,宇宙全体の一部分なのであり),全体から切り離されて存在することはできず,すなわち,私たちと他者(世界)は一体なのであり,私たちは他者と無関係に独立(孤立)して生きていくことはできませんし,私たちは常に数知れぬ他者からの影響を受けているだけではなく,数知れぬ他者の支えがあってこそ今ここでこうして生きていられるのである(もちろん,私たちも多くの他者に影響を与え,多くの他者の支えになっている可能性があるわけですが),ということを正しく認識しさえすれば,他者を恨むのではなく他者に感謝し,他者と敵対するのではなく他者と仲良く助け合い,他者の幸せを妬み,他者を不幸に追い込もうとするのではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うような有益な人生を送りたいと願うのが,人間として自然なことだと思うからです。

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長させ続けることができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,みずみずしい感受性や好奇心,自分の無知や未熟さを自覚しての真摯に学ぶ姿勢や自省する態度(日々の体験を振り返り,失敗(過ち)を失敗として素直に認めた上で,失敗などから学ぶべきことを学び,それらを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,そこで成長は止まってしまうと思うからです。人間は,何でも分かったつもりになってしまうと,本当は分かっていることなど高が知れているのに,それ以上学ぼうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった,深みのない,極めて退屈なものになってしまいがちです。加えて,人間は自惚(うぬぼ)れやすく,すぐに危機意識を失ってしまいがちですが,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する,安心している時にこそ怪我(けが)をする,災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,などとも言います。大きな失敗を避けるためにも,せめて人間は自惚れやすいという自覚だけは常に持っていたいものです。

 また,私たちは,好きなことだからこそ困難や苦労にも耐え,怠ることなく励み努めることができるのであり,怠ることなく励み努めればこそ人間的に成長できるわけですから,自分が本当にやりたい好きなことに出会い,そこに自分が信じることのできる理想を見いだし,その理想に一歩でも近づくための努力を心から楽しいと感じられるようになるということも重要であると思います。

 なお,人間的に成長するというのは,自足しつつも常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる理想に向かって一歩一歩前進し,着実に成熟するということであり(もちろん,自分が信じる理想というものは,一つだけに限る必要はありませんし,また,けっして硬直した固定的ものではなく,成長と共に柔軟に変化し得るものであり,自らがいったん掲げた理想に縛られすぎないということも大切であると思いますが),他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,世間から良い評価を得ようとして自分の信念をねじ曲げたりする必要などまったくありません。人間は十人十色であり,人それぞれの生き方があるのであり,人生の目標は他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れることでも,世間から評価され,名声を得ることでもなく(それらは,あくまでも後からついてくる結果であるにすぎません。),強い自制心を持って自分自身に打ち克ち,自分を人間的に成長させ続け,自分の可能性を十分に花開かせることであり,世間の評価に振り回されて自分自身を見失い,自分が進むべき道を誤ることなく,自分が信じる理想に一歩でも近づくことだからです。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎません。生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません。他者との勝負や世間の評価など,人生においては取るに足りないことだと思います(もちろん,私たちが,自分が信じる道を歩み続けることができるのは,他者の協力や支援があってこそであり,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失ってはなりませんし,他者に対する協力や支援は進んで行うべきであると思いますが)。「引きこもり」という生き方も,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失うことなく,自分が信じる理想を持って本人が自足して生きることができているのであれば,許容されるべき一つの生き方であると思います。

 また,困難に出合い,人生が行き詰まった際に,その原因や責任を他者や運命に押し付けて恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても行き詰まりを打開することはできません。なぜならば,他者や運命を自分の思い通りにすることなどで絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に原因や責任がある場合も不運な場合もあるかもしれませんが,行き詰まりを打開したいと本気で望むのであれば,人生に困難や苦労は付き物であるという事実をしっかり受け止めた上で,行き詰まったことの原因や責任は自分にある(自分にもある)と見方を変え,自分を省みて改めるべき点があれば改めつつ,自分自身の力で困難を乗り越え,人生を切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。人生の主人公(責任の主体)はあくまでも自分なのであり,その主導権(責任)は絶対に手放すべきではないと思います。

 

《どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのか》

 では,私たちは,どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じて自分に対して正直に心を開けるからこそ他者を信じて他者に対して正直に心を開けるのであり,自分を理解できるからこそ他者を理解できるのであり,自分が幸せであるからこそ自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,まずは自分を大切にし,自分を信じて自分に対して心を開き(自分の心の声にきちんと耳を傾け),自分を理解し,自分が幸せであるということが重要であると思います。なお,幸せには定員などないのですから,自分が幸せであるせいで誰かが不幸になるなどということはあり得ません。

 また,誰の心の中にも,もちろん私たちの心の中にも例外なく善人(肯定的な側面)と悪人(否定的な側面)が同居しています。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのと全く同じです。完全な善人,完全な悪人などというものは,この世の中に存在しませんし,こちらの対応次第で相手は善人にも悪人にもなり得るのではないでしょうか。言い換えれば,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいますし,どんな善人の心の中にも悪人は住んでいるということです。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,その他者は私たちの目の前に悪人として立ち現れざるを得ませんし,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれますし,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるというのが普通の人間関係なのではないでしょうか。私たちはみな同じ人間なのであり,他者と敵対して生きていくのではなく,もっと寛容になり(たとえ他者を非難することがあったとして,「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちをけっして忘れることなく),それぞれがより善人になれるように互いに仲良く助け合って生きていくべきであり,他者との関係においては,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向け,すぐに相手を嫌いになってしまうのではなく,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,その善人を引き出すように,その善人が自分の前に立ち現れてくるように,できる限り相手を好きになれるように他者と対応することが重要であり,善人がなかなか見当たらない場合でも,その成長の可能性(潜在的な肯定的側面)は信じるということが重要であると思います。

 さらに,他者に対する感謝の気持ちを忘れ,他者を敵とみなして競い合おうとするからこそ,私たちは,他者を妬んだり,自分を哀れんで卑屈になったり,自分の不幸を他者のせいにして他者を恨んだり(総じて人間は,隣の芝生を青いと思いがちであり,自分の荷物が一番重いと思いがちなものです。),逆に,他者を見下したり,おごり高ぶって居丈高になったり,自分の幸せを自分の手柄として他者を軽んじたりするのであり,他者と敵対することなく,むしろ,自分の人生や自分の幸せが数知れぬ他者の支援によってこそ成り立っていることを正しく認識し(安全で豊かな社会で生活していると,つい忘れてしまいがちですが,私たちはけっして自分独りで生きていくことはできません。),他者に対する感謝の気持ちを忘れない,ということが重要であると思います。そもそも人間は,自分の人生に満足できないからこそ他者の人生が羨ましく,妬ましくなるのであって,足るを知り,自足している人間は,自分と他者を比較しようとはしないのではないでしょうか。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育ち,あるいは,現在もそのような境遇に生きるなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,自分をないがしろにし,他者を信じることができずに他者に対して心を閉ざし,未来を悲観するようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないという人が少なくありません。特にそのような人たちに対しては,そのような人たちが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて感謝の気持ちを思い出すとともに,いま目の前にある幸せに気づけるように,そして,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていけるように,慎み深く自分にできる限りの支援をしたいものです。いまだ幸せになり得ていない人が幸せになるための支援をすることは,数しれぬ他者の支援によってすでに幸せを手に入れている人間の,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間の,人間としての最低限の務めであると思うからです。

 なお,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。また,大人たちが,幸せであることについて真剣に考えようとせず,感謝して足るを知ることよりも,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが心の平安を保ちつつ,他者と仲良く助け合いながら生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるような気がします。まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,幸せであることについて真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない,回りくどく煩わしいいだけの作業のように感じられるかもしれませんが),その上で自分の価値観をより健全なものに改める必要があるのではないでしょうか。

 

 

 「幸せであるための方法(どのようにすれば人は幸せであることができるのか)」及び「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか」という人生の最重要テーマについて,私なりに真剣に,筋道立てて考え,確信を得たところの要点は,現時点における私の理解度・成熟度においておおむね以上のとおりです。このように考え,確信を得るに至った根拠を示してもらいたい,もう少し具体的に説明してもらいたい,と思われる方は,「幸せに関する名言」,「人生に関する名言」及び「幸せに関する覚え書き」を御参照ください。

 あなたの人生が,実り多い,生きる喜びに満ちた幸せなものでありますように。

 

 

 

2020年2月16日更新

【人生に関する名言 297】

「自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで,書いてある思想によって自分を失う事が,思想を学ぶ事ではない。」(「読書の工夫」(『小林秀雄全作品 12』所収),新潮社)

 

◯自分が進むべき道を明らかにし,自分を人間的に成長させ続けるためにこそ学ぶのである。ただ闇雲に学ぶだけでは,自分自身を見失い,足踏みするだけに終わってしまう可能性が高い。(2020年2月16日)

【幸せに関する名言 297】

「不幸な人は,概して,不幸な信条をいだくのに対して,幸福な人は幸福な信条をいだく。両者とも,自分の幸福なり不幸なりを自分の信念のせいにするかもしれないが,真の因果関係はその逆である。」(『ラッセル 幸福論』,安藤貞雄訳,岩波書店

 

◯不幸な人はどのような境遇に置かれようが,そこに不幸な人生を見いだすし,幸せな人はどのような境遇に置かれようが,そこに幸せな人生を見いだすものである。境遇が人生に与える影響は決して小さくはないが,幸不幸を最終的に決めるのは,境遇そのものではなく,その境遇を本人がいかに受け止めるかという本人の心持ちである。(2020年2月16日)

【人生に関する名言 296】

「人生の謎は,齢をとればとる程深まるものだ,とは何んと真実な思想であろうか。」(「人生の謎」(『小林秀雄全作品 12』所収),新潮社)

 

◯自分が無知であるとの自覚を失うことなく,謙虚であり続ける限り,年とともに人生の謎は深まっていき,その神秘さは増していくものである。逆に,慢心し,何でも分かったつもりになってしまえば,人生は分かり切った,深みのない,極めて退屈なものになってしまうのではないだろうか。(2020年2月14)

【幸せに関する名言 296】

「人生において重大なのは生きることであって,生きた結果ではない。(ゲーテ)」(『座右の銘』,「座右の銘」研究会編,里文出版)

 

◯人生において一番重要なことは,幸せに生きるということである。幸せに生きた結果として,財産や地位や権力や名声を手に入れることもあるかもしれないが,それはあくまでも結果であり,本当に重要なことは,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるということである。自分が今ここでこうして生きていられるということは,まさに奇跡であり,生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,財産や地位や権力や名声を手に入れようが入れまいが,生きていることの値打ちに変わりはなく,その真理に早く気づき,財産や地位や権力や名声に対する執着から解放され,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになることこそが重要なのである。(2020年2月14日)