実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

【実り多い幸せな人生に関する名言等 555】

「国家が存亡の危機にあるときには,賢者にも,その存在を示す機会がある。だが,国家が繁栄し,幸福なときは,金銭欲や嫉妬心のような無数の卑劣な悪徳が,人々を支配するのだ。」(『人生の短さについて他2篇』,セネカ,中澤務訳,光文社)

 

○「欲に頂(いただき)なし」と言うように,人間の欲望には限りがなく,特に,豊かで安全で便利な社会で生活していると,欲望にブレーキを掛ける必要性も低下するため,人間の欲望は際限なく肥大化しがちです。したがって,たとえどれだけ多くの物を持っていたとしても,心が満ち足りるということはなく,常に不満を抱えながら,より多くの物を追い求め続けることになってしまいます。そして,財産や地位や権力や名声などに執着しては,他者を競争相手(敵)と見なして先を争ったり,パイを奪い合ったりするようになってしまいます。常に満ち足りた気持ちで幸せな人生を送りたい,他者を競争相手と見なすのではなく,協力相手(味方・仲間)と見なして仲良く助け合ったり,幸せを分かち合ったりするような生き方をしたいと願うのであれば,自分の欲望に強い意志を持って意識的にブレーキを掛ける必要があるのではないでしょうか。そして,たとえそれが必要最小限のものであったとしても,自分が持っている物だけで満足できるようになる(そのためにも,自分に与えられている物の豊かさに気づけるようになる)必要があるのではないでしょうか。(1)(4)(6)関連

欲張り続ける限り,いつまでたっても心は満ち足りず,不平不満ばかりを募らせては,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまうのが落ちである。

 私たちは,なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 欲望は生の証(あか)しであり,欲望を満たそうとすることは,生き物にとって自然なことです。しかし,人間の欲望は苦しみや悲しみの種でもあります。「欲に頂(いただき)なし」と言うように,人間の欲望は,必ずしも本能に基づくものではないだけに,限りがなく,放置すれば際限なく肥大化する傾向があるからです。

 したがって,自分の欲望に強い意志を持って意識的に歯止めを掛けない限り,満ち足りるということ(足るを知るということ)が難しくなってしまいます。たとえどれだけ多くの物を持っていたとしても,欲張り続ける限り(欲望に執着し続ける限り),私たちはいつまでたっても満足することができませんし(持っている物が多く,美衣美食の贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ,自分の欲望を抑えられないという面もあるのかも知れませんが。),自分が持っている物を失うことに対する不安を常に抱えることにもなり,心は貧しいままです。

 挙げ句の果てには,より多くの物を手に入れれば,心が満ち足り,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,常に無い物ねだりをするようになってしまいます。そして,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送る中で,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思って感謝する気持ちを忘れ,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致すことができなくなってしまったり(人間は,どのような境遇にもすぐに慣れてしまう生き物ですが,そのような適応能力の高さゆえに,どのような恵まれた境遇にもすぐに慣れ,飽き足りなくなり,より恵まれた境遇を追い求めるようになってしまいます。),自分の欲望を充足させることを人生の最優先事項とし,その他のことをないがしろにするようになってしまったり,欲に目が暗み,本当に大切なものが見えなくなってしまったり,場合によっては,道を踏み外してしまったりします。

 また,普通の平凡な人生では満足することができず,そのような人生を,無価値な,あるいは,価値の低い人生と見下すようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着しては他者と敵対するようになってしまったり(私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,目の色を変えて財産などを手に入れようとするのでしょうが,財産などを手に入れるためには,必死になって他者と競い合う必要があり,必然的に他者を協力相手(味方・仲間)ではなく,競争相手(敵)と見なすようになってしまいます。なお,規律や秩序を保ちつつ安全で平和な世の中を築き,維持していく上において権力は欠かせませんが,権力は腐敗しやすく,権力者が,その権力を私物化し,自分の欲望を満たすために乱用すれば,かえって規律や秩序は乱れ,世の中は危険で争い事に満ちた生活の場になってしまいます。したがって,権力を負託する相手の選択については,くれぐれも間違わないようにしたいものです。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(自分の人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に),結局は,ままならない人生に対する不平不満ばかりを募らせるようになってしまったり(人生はままならないものであるという事実を受け入れられない限り,人生は常に期待を裏切られては傷つき,失望するだけのものになってしまう可能性があります。),人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにしては,他者を恨み,他者を責め立て,運命を呪い,不運を嘆き悲しむような,被害者意識の強い他罰的(他責的)な人間になってしまったりします。

 私たちは,自分の欲望の肥大化を放置したまま(自分の欲望に歯止めを掛けることなく)欲張り続けるからこそ,自分は不幸であるなどと思い込むようになり(自分が幸せであることに気づけなくなってしまい),また,心の目を曇らせ,心の平安を失い,世の中の肯定的な側面が見えなくなってしまうことにより,人生に生きる喜びや幸せを見いだすことが難しくなり,やがては自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 554】

「偉大なものをどんどん引きずり下ろしていこうという澱(よど)んだ空気,大衆の嫉妬(しっと)の海が広がっているように思えてならない。」(『座右のゲーテ』,齋藤孝,光文社)

 

○自分は不幸であると思い込んでいる人間は,自分と他者を比較しては幸せそうな他者(特に,社会的な成功を手に入れているように見える他者)を妬みやすく,また,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては勝手に被害感を募らせて他者を恨みがちです。そして,場合によっては,他者をも不幸な状況に巻き込もうとして,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に直接的に危害を加え,損害を与えようとしたりすることさえあります。したがって,自分は不幸であると思い込んでいる人間が増えれば増えるほど,社会は不寛容でとげとげしく殺伐とした暮らしにくいものになっていきます。社会を寛容で和気藹々(わきあいあい)とした潤いや温かみのある暮らしやすいものにするためにも,私たちは幸せであるべきなのではないでしょうか。自分が今ここでこうして生きていられることを当たり前と思うのではなく,その有り難さに深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けるなどして,自分は不幸であるなどという思い込みから目を覚ますとともに,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになりたいものです。(3)(6)(7)関連

道を踏み外したり,他者に害を与えたりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,私たちは幸せである必要がある。

 不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は(自分が幸せであることに気づけない人間は),「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,すぐに自暴自棄になっては(あるいは,欲に目を暗ましては)自制心を失い,衝動的に道を踏み外してしまいがちです。また,自分と他者を比較しては幸せそうな他者(社会的に成功しているように見える他者)を妬んだり,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては勝手に被害感を募らせて他者を恨んだりした挙げ句,他者の足を引っ張ったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしてしまいがちです(当然のことながら,他者との関係はこじれやすく,他者から疎んじられて孤立してしまうことが多くなります。)。具体的には,心ない発言が相手の心を深く傷つけ,知らぬ間に自分の心をも深く傷つけてしまう可能性があることさえ想像できずに,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して,幸せそうな他者を不寛容に責め立て(自分のことは棚に上げたまま,相手に非があると一方的に決め付けては,あるいは,相手の短所や欠点や弱みといった否定的な側面にばかり目を向けては,めくじらを立て,罵詈(ばり)雑言を浴びせ,誹謗(ひぼう)中傷し),見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満,妬みそねみ,恨みつらみといった感情を晴らそうとしがちです。

 したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,世の中は不寛容でとげとげしく殺伐とした暮らしにくい(生きづらい)ものになり,犯罪や争い事なども増えていきます。なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらも,それらを乗り越えて有益無害な人生を送っている人はたくさんいます。

 以上のように,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,自暴自棄になって道を踏み外してしまったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとして他害的な行動に出てしまったりしやすく,その結果,自分をますます不幸な状況に追い込んでしまいがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか(悪行を繰り返していれば,自分に嘘(うそ)をつくことなく自分を肯定し続けることが難しくなり,いつしか自分に嘘をつくようになってしまったり,自分を否定し,自分を粗末に扱うようになってしまったりします。)。たった一度きりの人生なのですから,そのような人生ではなく,何事があろうとも自分を大切にし,正しい道に踏みとどまりながら,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送れるようになりたいものです。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 553】

「自分自身を高くする者は低くされるだろうし,また,自分自身を低くする者は,高くされるだろう」(『新約聖書』,新約聖書翻訳委員会訳,岩波書店

 

○自惚(うぬぼ)れて,慢心してしまえば,自分の無知さや未熟さを自覚しての真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度などを失い,そこで成長や向上は止まってしまいます。そして,やがては,成長や向上が止まってしまうだけではなく,退歩・退行し,堕落する一方となってしまいます。決して自惚れることなく謙虚さを保ち続けている人が他者からは高く評価される傾向があるのに対し,自惚れて慢心している人が他者からは低く評価される傾向があるのは,「自慢高慢馬鹿のうち」とも言うように,自惚れて慢心している人は向上心や柔軟性などを失いやすく,それ以上の成長や向上が望めないと誰もが知っているからなのではないでしょうか。自分を成長・向上させ続けることによって,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせ,思い残すことの充実した人生を送りたいと願うのであれば,たとえ何歳になっても,たとえどれだけ多くの経験を積んだとしても,たとえどれだけ大きな社会的成功を手に入れたとしても,謙虚さを失うことなく,慢心しないということが重要なのではないでしょうか。そのためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです。(12)関連

私たちは幸せであるべきであり,幸せになることをこそ人生の最優先課題とし,どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきである。

 きっと死ぬ瞬間には誰もが,無欲恬淡(むよくてんたん)・春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という心境に達し,様々な執着や不平不満などから解放されるのではないでしょうか。そして,曇りのない眼や心の平安を取り戻すことによって,生きているということは,ただ生きているというだけで十分に幸せなことだったのだなあ,この世の中に生まれてこれたことは,本当に幸せなことだったのだなあと気づき,感謝する気持ちを新たにするのではないでしょうか(ちなみに,幸せであることと感謝することは,切っても切れない密接な関係にあります。実際,私たちの心は,幸せな時には感謝する気持ちでいっぱいになりますし,何かに対して感謝している時には幸せな気持ちでいっぱいになります。したがって,常に幸せでありたいと願うのであれば,常に何かに対して感謝していればいいということになります。逆に言えば,感謝する気持ちを忘れてしまった人は,幸せになることが難しいということです。)。

 しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。人生が苦しくてつらいだけでのものであったとしたら,たとえどれだけ長生きできたとしても,せっかくこの世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありません。

 私たちは幸せであるべきであり,幸せとは何かということを正しく見極めた上で(それを見誤れば,すべての努力が徒労に終わってしまう可能性があります。),どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきであると思います。幸せであることをこそ人生の最優先課題とし,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐべきであると思います。この優先順位を間違えれば,人生を台無しにしてしまったり,人生に大きな悔いを残してしまったりする危険性さえあります。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 552】

「釈迦は,死後のことは,死んでみなければ知ることはできないとし,生前に死後について考え語ることはできないし無駄だと説いた。」(『葬式は,要らない』,島田裕巳幻冬舎

 

○どのような物事にも必ず一長一短があります。例えば,死ぬことにさえ肯定的な側面はあると思います。実際,死があるからこそ生きる喜びがあり,生きる喜びがあるからこそ私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることに感謝したり,生きていることやこの世の中に生まれてきたことに幸せを感じたりすることができるのではないでしょうか(そもそも,死後のことは誰にも分からないわけですから,死を否定的に捉えること自体が間違っている可能性も否定はできません。)。したがって,物事の否定的な側面にばかり目を向けて肯定的な側面に目を向けようとしないのは,物事の肯定的な側面にばかり目を向けて否定的な側面に目を向けようとしないのと同じく,余りにも偏った不公平な物の見方と言えます。物事の否定的な側面にばかり目を向けていたのでは,人生に生きる喜びや幸せを見いだすことは難しく,やがては自分の目の前にある幸せに気づくことさえできなくなってしまいます。人生に生きる喜びや幸せを無限に見いだし,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためにも,物事の否定的な側面だけではなく,物事の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになりたいものです。(4)(5)(6)(9)関連