実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 「子供は親の背中を見て育つ」,「子は親を写す鏡」,「子供は大人の鏡」,「子供に勝る宝なし」などと言います。未来を担う子供たちに対しては,思い通りに支配・管理しようとするのではなく(そもそも,相手が誰であろうとも,他者を自分の思い通りに支配・管理することなど絶対にできません。他者を自分の思い通りに支配・管理しようとすれば,大きな反発を招き,抵抗・反抗されるだけです。また,子供たちには,失敗する権利,すなわち,失敗から学ぶ権利がありますが,失敗から様々なことを学べるのは,それが自分の自由意志や責任に基づいてなされた場合に限ります。他者から強制された行動によって失敗したところで,それを自分の失敗と受け止めることはできないでしょうし,集団行動に基づく失敗は,たとえその集団に自分が所属していたとしても,必ずしも自分の自由意志に基づく行動であるとは限らず,また,責任の所在があいまいであるため,十分な学びの機会にはなり得ません。),自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。「われのできぬことを ひとにさせるな」(中井久夫)と言うように,そもそも,たとえそれが自分の子供であったとしても,自分にできないことを他者に求めるべきではありませんし,当人が気持ちいいだけの建前的な説教より,どうしても本音がにじみ出ざるを得ない生き様にこそ,より大きな感化力や説得力があるのではないでしょうか。

 大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝する気持ちを忘れることなく足るを知ることや,自分が信じる目標や理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことなどよりも,自分の欲望を肥大化させるがままに,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが曇りのない眼や心の平安を保ちつつ,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるように思います。私たちが暮らしている社会の進歩・発展には,確かに目を見張るものがありますが,社会の進歩・発展に伴って,自分は幸せであると思っている人は,本当に増えているのでしょうか。むしろ,自分は不幸であると思っている人ばかりが増えているのではないでしょうか。もし,そうだとしたら,社会が進歩・発展することには,また,進歩・発展した社会において社会的な成功を収めることには,いったいどのような意味があるのでしょうか。実り多い幸せな人生を送るという観点からは,社会はむしろ退歩・衰退しつつあるとさえ言えのではないでしょうか。子供たちが実り多い幸せな人生を送ることを本当に願うのであれば,まずは大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者たちが,目先の損得ばかりを考えるのではなく,拝金主義などの偏った価値観を改めた上で,「どのようにすれば幸せになれるのか(私たちはどのようにすれば生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることができるのか)」,「人間はいかに生きるべきなのか(真に人間らしく実り多い人生を送るために私たちはいかに生きるべきなのか)」といった人生の根本問題を真剣に考え,より実り多い,より幸せな生き方を本気で模索し,探究する必要があるのではないでしょうか。これまでの延長線上に社会を進歩・発展させ続けるのではなく,いったん立ち止まり,誰もが実り多い幸せな人生を送ることのできる社会の実現(私たちの考え方や生き方や心の持ち方などを変えることも含め)を目指して必要な軌道修正を図った上で,また歩き出せばいいのではないでしょうか。

 改めて言うまでもなく,お金は,人生の手段であるに過ぎず,目的ではありません。私たちは生きるためにお金を稼いでいるのであり,お金を稼ぐために生きているのではありません。確かに,生きていくのにお金は欠かせませんが,「起きて半畳寝て一畳」,「千石万石も米五合」などとも言うように,贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ,人間が生きていくのに必要なお金など高が知れています。お金は,生きていくのに必要な程度の額,できればそれに多少上乗せした程度の額があればそれで十分なのではないでしょうか。「地獄の沙汰も金次第」とは言いますが,拝金主義に染まれば,物事はすべて金銭的価値によって評価されるようになってしまいます。お金を手に入れることが人生の主たる目的になり,私たちは金の亡者になってしまいます。金に目を暗ませて平気で道を踏み外すようにってしまう危険性さえあります。そして,金銭以外の価値を見失えば,普通のつましい暮らしに生きる喜びや幸せを感じたり,生きていることそれ自体に価値を見いだしたりすることができなくなってしまいます。しかし,普通のつましい暮らしに生きる喜びや幸せを感じられるようになることにこそ,生きていることそれ自体に価値を見いだせるようになることにこそ,真の幸せは存在するのではないでしょうか。

 「お金で買えない物など何もない」と言う人もいますが,お金では買えない物(私たちの命,その命を守り,私たちが生きることを可能にしてくれている人体や自然や宇宙の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働き,私たちの人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助け,自分が今ここでこうして生きていられることを感謝する気持ち,自分が信じることのできる自分なりの目標や理想,他者との一体感,自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志,曇りのない眼や心の平安,人生の真理などなど)こそが,本当に価値のある大切な物なのではないでしょうか。生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるなら,私たちはきっと,自分にとって本当に必要な物とそれ以外の物(本当には必要でない物)との見分けがつくようになるはずです。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 673】

ダーウィン説は生き残るには競争が必要である点を重視しすぎていて,実際にはむしろ,競争において最も効果的な戦略は個体群内における協力と別の個体群との相互依存関係にある場合が多い」(『ビッグヒストリー』,デヴィッド・クリスチャン他,石井克弥他訳,明石書店

 

○豊かで安全で便利な社会で生活していると,ついつい忘れてしまいがちですが,私たちは一人では(孤立無援の状態では)生きていられません。私たちは,直接的なものや間接的なものも含め,数知れぬ他者の支えや助けがあればこそ生きていられるのです。要するに,私たちと他者は持ちつ持たれつの相互依存関係,言わば一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係にあるわけですから,他者を競争相手(敵)と見なして足を引っ張り合ったり,パイを奪い合ったりするような生き方ではなく,他者を協力相手(味方・仲間)と見なして助け合ったり,幸せを分かち合ったりするような生き方こそが,より自然で真っ当な生き方と言えるのではないでしょうか。曇りのない眼や心の平安を取り戻すためにも,他者と競い合い,他者との勝負に勝ち,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないなどという考え方(デマに基づく迷信)のおかしさに,早く気づけるようになりたいものです。(3)(10)(11)(14)(19)関連

不幸な状況にある他者が幸せになるための手助けをすることは,他者と支え合い,助け合ってこそ生きていられる私たち人間にとっての,当然の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分を粗末に扱うようになってしまった挙げ句,自分は不幸であるなどと思い込むようになり,そのような状況からなかなか抜け出せなくなってしまっている人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分を大切にできるようになることを通じて自分が幸せであることに気づけるように,そのような人たちの苦しさやつらさを共感的に理解することに努めるなど,慎み深く自分にできる限りの手助けをしたいものです。

 他者の不幸は決して「対岸の火事」ではありません。「明日は我が身」,「昨日は人の身,今日は我が身」です。私たちは,他者と支え合い,助け合ってこそ生きていられるのであり,私たちと他者は持ちつ持たれつの相互依存関係,言わば一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係にあるわけですから,不幸な状況からなかなか抜け出せずにいる他者が幸せになるための手助けをすることは,たまたま幸運に恵まれるなどして,一足先に幸せな人生を送ることができている人間にとっての,当然の務めであると思います。それは決して,優越感を味わいながら,あるいは,見返り(感謝されたり,称賛されたりすること)を期待しながら行うようなことではなく(そのような気持ちで行われる手助けは,手助けを行う当人のプライドを高める役には立ちますが,相手のプライドを深く傷つけ,その相手が自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする意志や勇気(自信や意欲)を,かえってくじいてしまう危険性があります。),当たり前のこととして,あるいは,自分の方が幸運に恵まれていることなどでの負い目を感じながら行うべきことであると思います。「情けは人の為(ため)ならず」とも言うように,他者を大切にし,他者を益する行動は,回り回っていつかは必ず自分を大切にし,自分を益することにつながってくるはずです(逆に,「人を呪わば穴二つ」とも言うように,他者を粗末に扱い,他者を害する行動は,回り回っていつかは必ず自分を粗末に扱い,自分を害することにつながってくるはずです。)。それ以上の報酬を求めるのは,欲張り過ぎというものです。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 672】

「足るを知るとは,あれも欲しいこれも欲しいとむやみに物欲をつのらせることの反対で,衣食住すべてにおいて人が生きてゆくに必要なだけのものがあればそれでよしとし,物欲に心を労せず,心をそれ以外のもっとたのしくなることに使うようにすることだ。」(『足るを知る 自足して生きる喜び』,中野孝次朝日新聞社

 

○欲張れば切りがなく,欲張り続ける限り,心が満ち足りるということはありません。常に不満を抱えながら,死ぬ瞬間まで,自分の欲望に追い立てられ,振り回され続けることになってしまいます。したがって,自分の欲望の奴隷であることをやめ,常に満ち足りた気持ちで,心安らかに幸せな人生を送りたいと願うのであれば,足るを知り,自分の欲望に適切にブレーキを掛けられるようになる必要があります。自分が持っていない物(必要以上の物)を欲しがり,自分がそれらの物を持っていないことに不満を募らせるのではなく,たとえそれらが必要最小限の物であったとしても,自分が持っている物だけで満足し,自分がそれらの物を持っていることを心から感謝できるようになりたいものです。(4)(6)関連

他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生に満足できているということとともに,自分が進むべき道が定まっているということが重要である。

 私たちは,自分の人生に満足できていないからこそ,また,自分が進むべき道(自分が信じることのできる自分なりの目標や理想)が定まっていないからこそ,他者の暮らし向きや動向が気になるのであり,自分と他者を比較しては他者との勝負にこだわり,他者を競争相手(敵)と見なしてパイを奪い合うようになってしまうのではないでしょうか。そして,挙げ句の果てには,他者を妬んでは他者の足を引っ張ったり,自分を不幸であると哀れんでは卑屈になったり,自分が不幸であることを他者のせいにしては他者を恨んだり(総じて人間は,「隣の芝生は青い」,「隣の花は赤い」,「隣の飯は旨(うま)い」,自分の荷物が一番重い,と感じてしまいがちな生き物です。),逆に,他者を見下しては他者を軽んじたり,おごり高ぶっては居丈高になったり(自分の卑屈さを打ち消すかのように),自分の成功を自分だけの手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任(本人だけの責任)であると決め付けて他者を切り捨てたりしてしまうのではないでしょうか。

 したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助けがあればこそ自分は生きていられるという事実を正しく認識した上で(もちろん,私たちも,仕事などを通じて他者の支えや助けになっているはずです。),常に満ち足りた気持ちで心安らかに暮らせるように自分の心の持ち方を改めること(足るを知り,幸せに対する感度を高めることによって,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになること)とともに,人生の指針(自分が進むべき道)を明確化すべく,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ,そこに自分が信じることのできる自分なりの目標や理想を見いだし,それらを見失わないようにすることが重要であると思います。足るを知り,自分の人生に満足できている人や,自分が信じる目標や理想に向かって自分が進むべき道を邁進(まいしん)している人にとってはきっと,自分と他者を比較することや,他者との勝負に勝つことなど,どうでもいいことであるに違いありません。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 671】

「物なぞいくら持ってもそれは生活の真の充実をもたらすものでない,人を幸福にするものでない・・・幸福とはひたすら心の持ちようにのみかかわることで,物のゆたかさとは直接関係はない」(『足るを知る 自足して生きる喜び』,中野孝次朝日新聞社

 

○たとえどれだけ多くの物を持っていたとしても,自分がそれらの物を持っていることを当たり前と思い,感謝する気持ちを忘れるとともに,より多くの物を求め続けるなら(必要以上に欲張り続けるなら),私たちはいつまでたっても満足することができません。常に不満を抱えながら,いつしか自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまうのが落ちです。他方,たとえ必要最小限の物しか持っていなかったとしても,自分がそれらの物を持っていることの有り難さに常に深く思いを致し,感謝する気持ちを忘れることなく,足るを知るなら(必要以上に欲張ることをやめるなら),私たちは今すぐにでも満足することができます。常に満ち足りた気持ちで,幸せな人生を送り続けることが可能になります。要するに,人間の幸不幸は心の持ち方次第です。たくさんの物を手に入れることにではなく,自分の心の持ち方を変え,自分が持っている物だけで満足できるようになることにこそ,関心を払い,力を注ぎたいものです。(4)(6)(7)(14)関連

人間関係においては,同じ人間同士として,相手の心の中に住む悪人にではなく,善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも,善人と悪人が同居しています。長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています(しかも,長所は見方を変えれば短所にもなり得るように,多くの場合,両者はコインの裏表のような関係にあります。)。例えば,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。この世の中に,生まれ付きの善人,生まれ付きの悪人などというものはいませんし,完全な善人,完全な悪人などというものもいません。どのような善人の心の中にも悪人は住んでいますし,「鬼の中にも仏がいる」とも言うように,どのような悪人の心の中にも善人は住んでいます。善人の真似(まね)をして善人として振る舞い続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をして悪人として振る舞い続けるなら,その人は悪人と呼ばれる,というだけのことです(どちらが自分にとって得な生き方なのか,幸せな生き方なのかということを,くれぐれも見誤らないようにしたいものです。どれだけ恵まれない境遇に生まれ育ち,身を置こうとも,くれぐれも自暴自棄になって誤った選択をしないようにしたいものです。)。

 どちらが前面に出るかを決めるのは,最終的には本人の意志次第ですが,周りの人たちが及ぼす影響も決して小さくありません。実際,「人を見たら泥棒と思え」とばかりに,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,「疑心暗鬼を生ず」ということもあり,その他者は,悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れてくることができなくなってしまいます。私たちも,周りの人たちからそのような目を向けられ続ければ,善人として振る舞い続けることは難しいのではないでしょうか。善人として振る舞い続けることが馬鹿らしくなり,いっそのこと悪人として振る舞い,自分に対してそのような目を向けてくる人たちに仕返しをしたくなってしまうのではないでしょうか。逆に,「渡る世間に鬼はなし」とも言うように,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向け続け,その善人を呼び覚ますことができるなら,その他者は,たとえそれまでは悪人として振る舞い続けていたとしても,善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。「鬼にもなれば仏にもなる」,「猫にもなれば虎にもなる」などとも言うように,他者は,私たちの対応次第で,悪人にも善人にもなり得るということです。

 そもそも,「思えば思われる」,「魚心あれば水心」,「子供好きは子供が知る」などとも言うように,こちらが心を開いて友好的な態度で接すれば,相手も心を開いて友好的な態度で接してきてくれるため,お互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的な態度で接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的な態度で接してくるため,意味のある対話をすることさえ不可能になってしまう(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,「馬耳東風」,「暖簾(のれん)に腕押し」,「糠(ぬか)に釘(くぎ)」,「豆腐に鎹(かすがい)」,「石に灸(きゅう)」であり,どんなに話をしても分かってもらうことはできません。),というのが普通の人間関係なのではないでしょうか。人間関係はお互い様です。どちらか一方だけが悪い,どちらか一方だけが善いなどということは,滅多にありません。

 したがって,悪人ばかりの世の中で暮らしたくないと思うのであれば,また,この世の中で善人として暮らしたいと思うのであれば,「和を以(もっ)て貴しとす」と言うように,私たちはお互いに,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまえば,関係を修復する機会がなくなり,あとから好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がける必要があるのではないでしょうか。相手の心の中に善人がなかなか見つからない場合でも,将来見つかる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く向き合い続けることが大切なのではないでしょうか。相手のためにも,自分のためにも。私たちはお互いに支え合い,助け合わなければ生きていられないのであり,そもそも,私たちと他者は一体なのですから,他者を敵と見なして競い合い,足を引っ張り合いながら生きていくのではなく,他者を味方(仲間)と見なして助け合い,幸せを分かち合いながら生きていきたいものです。

 なお,失敗や過ちを犯さない人間はいませんし,人間が犯す失敗や過ちは,そのほとんどが,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。「水清ければ魚棲(す)まず」,「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如(ごと)し」などとも言います。たとえ他者が失敗や過ちを犯したとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立てたり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりするのではなく,他者に対しては,同じ人間同士として常に共感的に,「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(吉野弘)という精神・姿勢を忘れることなく,できる限り寛容かつ友好的な対応を心がけたいものです(他者が失敗や過ちを犯したからといって,そのことを不寛容に責め立てるということは,いつか自分も他者から不寛容に責め立てられるということに他なりません。)。他者を軽んじたり,非難したりするのは,多少の憂さ晴らし(鬱憤晴らし)にはなるでしょうし,自分が偉くなったようで気持ちがいいかも知れませんが,愛情や真心に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし,厳しく非難するだけでは,相手の反省や更生にはつながらず,むしろ,かえって相手を意固地にさせ,素直に反省することを難しくさせてしまったり,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,成長や更生を困難にさせてしまったりする危険性が高いと思うからです。もちろん,私たちには自分の意見を自由に表明する権利があるわけですが(「口は災いの元」,「三寸の舌に五尺の身を亡(ほろ)ぼす」,「病は口から入り,禍(わざわい)は口から出る」,「雉子(きじ)も鳴かずば打たれまい」,「天に唾する」,「物言えば唇寒し」,「物は言いよう」,「物も言いようで角が立つ」,「沈黙は金」,「言わぬは言うにまさる」,「言わぬが花」,「おしゃべりは口のおなら」(五味太郎)などとも言いますが),その権利の中に他者を誹謗(ひぼう)中傷したり,他者に罵詈(ばり)雑言を浴びせたりする権利は含まれていないはずですし,不正確な情報に基づいて一方的に他者を否定したり,非難したりすることは,極力控えるべきであると思います。また,自分の意見が受け入れられないからといって,他者を恨んだり,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に危害を加えようとしたり(損害を与えようとしたり)するのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。