実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

【実り多い幸せな人生に関する名言等 670】

「なんのために生きるかなんて,考えるな。そんなことは,年取って死ぬときに振り返ればいいんだよ。お前はともかく,一所懸命生きればいいんだよ」(『邯鄲(かんたん)の島遥かなり』,貫井徳郎,新潮社)

 

○生きているということは,よくよく考えてみれば一つの奇跡であり,生きているということは,それ自体に大きな値打ちのある有り難いことなのではないでしょうか。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,他者との勝負に勝とうが負けようが,その値打ちに何ら変わりはないのではないでしょうか。人生は短く,しかも,この世の中で生きることのできるチャンスはたった一度きりなのですから,他者との勝ち負けなどに気を散らすことなく(そんな詰まらないことに時間やエネルギーを浪費することなく),自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝しつつ,自分の人生を精一杯楽しみ,細部に至るまで丁寧に味わい尽くすことにこそ(真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることにこそ),気持ちを集中し,限りある大切な時間やエネルギーを使いたいものです。そのような人生をまっとうすることさえできるなら,私たちはきっと,いつか訪れる死をも安らかな気持ちで迎え入れることができるはずです。(1)(2)(8)(11)(14)関連

他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にすることなどに加え,まずは自分自身が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも,私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じられるからこそ他者を信じられるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分と折り合えるからこそ他者と折り合えるのであり,自分自身が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うことができるのではないでしょうか。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にし,自分を信じ,自分を理解し,自分と折り合うとともに,まずは自分自身が幸せであるということが重要であると思います。

 世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者の幸せのために何かをしたいと考えている人もいるかも知れませんが,自分を大切にできない人が本当の意味で他者を大切にできるとは思えません。また,一見自己犠牲的に見える行動の裏には,何らかの見返り(例えば,相手からの感謝や世間からの称賛など)を求める気持ちが隠されていることが多いものですし,その行動が,たとえ何ら見返りを求めないものであったとしても,他者の幸せを犠牲することで幸せになれた人は,そのことを本当に心の底から喜べるでしょうか(改めて言うまでもなく,子供と親は,基本的には一心同体であり,子供の幸せは親の幸せでもあるわけですから,子供の幸せを願って無償で行われる親の行動は,自己犠牲的な行動には該当しません。)。

 自分が幸せであることと利己的であることは(他者のために自分の幸せを犠牲にすることと利他的であることは),まったく別のことです。幸せであることに人数制限などなく,心の持ち方次第で誰でも幸せになれるのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが自分の幸せを犠牲にする必要などまったくありません。他者の幸せを本気で願うのであれば,自分の幸せを犠牲にしてでも他者を幸せにしたいなどと考えたり,行動したりすべきではないと思います。そのような恩着せがましい考えや行動は,相手にとっては大きな重荷であり,実際は迷惑なだけかも知れません。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 669】

「寿命とは天から授かったもので人にはどうしようもない。人にできるのはただ己れが授った寿命を畏れつつしんで受け入れ,与えられた寿命を精一杯よく生きようとつとめることだ。」(『足るを知る 自足して生きる喜び』,中野孝次朝日新聞社

 

○人生は短く,命は儚(はかな)いものです。しかし,だからと言って,人生を嘆き悲しんだり,必要以上に死を恐れたりする必要はないのではいでしょうか。死があるからこそ生きる喜びがあるのであり,生きる喜びがあるからこそ,私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに感謝したり,自分がこの世の中に生まれてこれたことに幸せを感じたりすることができるのですから。生きている間は,悔いが残らないように人生を大いに楽しみ,味わい尽くし(真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることに最善を尽くし),死が訪れた際には,それを泰然自若と受け止め,自分がこの世の中に生まれてこれたことや,自分がこれまで生きてこられたことに対する感謝の気持ちを新たにしつつ,静かに人生の幕を閉じればいいだけの話なのではないでしょうか。(8)(9)関連

人生が行き詰まってしまった場合には,その原因や責任は自分にあると考え,自分を変えることなどによって行き詰まりを打開しようとするのが賢明である。

 人生が行き詰まると,私たちは,それを他者や運命のせいにしがちですが,恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,恨み言や泣き言をいくら言ったところで,他者や運命を自分の思い通りにすることなど絶対にできないからです。

 確かに,人生の行き詰まりには,他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかも知れませんし,行き詰まりを打開すべく自ら努力するよりも,他者を恨んだり,他者を責め立てたり,運命を呪ったり,不運を嘆き悲しんだりしている方が楽かも知れません。自分のプライドも傷つかないで済みます。しかし,人生はままならないものであるとは言え,自分の人生の主人公はあくまでも自分なのですから,その主導権(自分の人生を自分の努力によって切り開いていく権利,自分の人生をどのような心構えや心がけで生きていくかを自分で決める権利など)だけは,決して手放すべきではないと思います。

 「天は自ら助くる者を助く」とも言います。人生の行き詰まりを本気で打開したいと願うのであれば,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(少なくとも,自分にもある)と考えを改めた上で(プライドは一時的に大きく傷つくでしょうが,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にはないと考えている限り,その行き詰まりを自分の努力によって打開しようとはなかなか思えないものです。),自分(自分の考え方や生き方や心の持ち方など)を変えることによって,あるいは,自分がやるべきことに最善を尽くすことによって人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,自分の人生を他者任せ,運命任せにするのではなく,自分の努力によって(自分にできること一つ一つに全力で取り組むことによって)切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な(現実的な)生き方と言えるのではないでしょうか。

 なお,私たちは世の中を構成している一部分なのであり,私たちと世の中は切っても切れない密接な関係にあるわけですから,構成員である私たち一人一人がより善い方向に変わっていくことによって,世の中がより善い方向に変わっていく可能性は十分にあると思います。そもそも,世の中に問題があるのは,それを構成している私たち一人一人が問題を抱えているからなのかも知れません。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 668】

「朝,ベッドから起き出したときから,私たちはおびただしい数のウイルス,細菌,寄生虫,あるいはカビにさらされていることだろう。しかし免疫のおかげで,私たちのからだは,このような外来の侵入者を撃退し,自身のからだを守ることができるのである。」(『身体の教養365』,デイヴィッド・S・キダー他,久原孝俊訳,文響社

 

○生きているということは,よくよく考えてみれば一つの奇跡です。自分の命を守り,自分が生きることを可能にしてくれている人体や自然や宇宙の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働きなどを知れば,そのことが実感としてよく分かるはずです。自分が今ここでこうして生きていられることを当たり前と思うことなく,その有り難さに常に深く思いを致し,感謝する気持ちを忘れないようにしたいものです。感謝する気持ちを忘れさえしなければ,私たちはきっと,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるはずですし,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるなら,たとえどのような困難や苦労に見舞われようとも,生きている限りは幸せである続けることが可能になるはずです。(1)(2)(6)(7)(8)(14)(20)関連

自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や世間の評判などに気を散らして時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 人間的に成長(成熟)・向上し続けるというのは,自足しつつも(自分の人生に満足しつつも)謙虚さや向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる目標や理想に向かって,あるいは,より善い,より人間らしい生き方を目指して自分が進むべき道を自分の歩幅で一歩ずつ前進し続けるということです(自足してしまったら,そこで成長や向上は止まってしまうと言う人もいますが,行動の原動力は不満のみとは限りません。常に満ち足りた気持ちで心安らかに暮らしながらも,何歳になっても謙虚さや向上心を失うことなく,自分が信じる目標や理想に向かって邁進(まいしん)し続ける人はいくらでもいるのではないでしょうか。)。他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,功を急いだり,世間から評価されようとして右往左往したり,自分の信念を捻(ね)じ曲げたりする必要などまったくありません(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け,自分の心の声に耳を閉ざしたまま,いつしか,本当の自分を見失ってしまいます。そして,自分が生きている意味や,自分がこの世の中に生まれてきた意味が分からなくなり,やがては,自分を嫌い,自分を憎み,自分を粗末に扱うようになってしまいます。挙げ句の果てには,自暴自棄になり,道を踏み外してしまったり,他者に害をもたらすようになってしまったりさえします。)。他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」,「五十歩百歩」に過ぎませんし,世間の評判や多数者の意見(多数決の結果も含め。)がいつでも正しいとは限りません(「聞いて極楽見て地獄」,「見ると聞くとは大違い」などとも言うように,世間の評判などを鵜呑(うの)みにし,自分の目で確かめたり,自分の頭で考えたり,判断したりすることをやめてしまったら,取り返しのつかない失敗や過ちを犯してしまう危険性さえあります。)。なお,否定的な意見や極端な意見は声高に表明されることが多く(対照的に,肯定的な意見は常識的な意見は普通の声音で表明されることが多く,あえて表明されないことさえ多いものです。),声高に表明された意見には世間の注目が集まりがちであり,特に,その表明者が大きな影響力を持っている場合には,一時的には多数の賛同者を得ることもありますが,大切なのは意見内容の正しさや真っ当さであり,声の大きさや賛同者の数ではありません。判断や行動を誤らないようにするためにも,くれぐれも声の大きさや賛同者の数などに惑わされたり,踊らされたりしないようにしたいものです。

 「十人十色」,「人は人,我は我」などとも言うように,人間には人それぞれの生き方があります。自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせ,思い残すことのない充実した有益な人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を手に入れたりすることよりも(それらは本来,自分が本当にやりたいと思える好きなことに全身全霊で打ち込み,最善を尽くした結果として後から付いてくるものであり,人生の目的とすべきものではないと思います。孔子でさえ,「孔子も時に会わず」と言われているぐらいですから,後から付いてこないことの方が圧倒的に多いとは思いますが。),自分の欲望に打ち克ち,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されることや,本当の自分や自分が進むべき道を見失うことなく,自分の信念を貫いたり,自分が信じる目標や理想に一歩でも近づけるように前進し続けたりすることの方が,よほど重要なのではないでしょうか。実際,財産や地位や権力や名声などをを手に入れたからといって,人生が,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せなものになる保証などどこにもありませんし,むしろ,それらに執着すればするほど,心の目が曇り,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ損なってしまったり,心の平安を失い,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込むことになってしまったりする危険性が高くなります。そもそも,自分が好きなことに打ち込めるということは,それ自体が幸せなことであり,生きる喜びなのですから,たとえ財産や地位や権力や名声などが後から付いてこなかったとしても,そのことで文句を言ったり,他者を恨んだり,運命を呪ったりすべきではなく,むしろ,好きなことに打ち込めることの有り難さに心から感謝すべきであると思います。自分が好きなことに打ち込めている人が,財産や地位や権力や名声などまで手に入れようとするのは,欲張り過ぎというものです。「二兎(にと)を追う者は一兎をも得ず」と言うとおりだと思います。

 「勝ち組」,「負け組」などという言葉もありますが,人生の目的は他者と競い合って人が羨むような社会的成功を手に入れることではありません。また,改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと心の豊かさはまったく別のことです。経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,経済的に貧しいことをことさら悲惨なもの,恥ずべきものとして捉え,忌み嫌う風潮は(経済的な豊かさばかりに大きな価値を置き,経済的な豊かさばかりを必死になって追い求める風潮は),いったい何に由来するのでしょうか。このような風潮が,結局は,経済的に貧しい人たちは不幸であるという迷信を蔓延(はびこ)らせる結果につながっているように思います。そもそも,生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり(生きているということは一つの奇跡です。この世の中にこれ以上の奇跡があるでしょうか。),他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに変わりはありません(したがって,子供たちに対する大人たちの在り方としても,大人たちは子供たちをあるがままに受け入れ,その存在価値を認めてあげればいいのであって,子供たち同志に優劣を競わせたり,自分たちの物差しで子供たちを評価したりすることは極力控えるべきであると思います。)。命の目方はみんな同じです。人間は生きているだけで十分に値打ちがあるのであり,生きている人間の間に存在価値の差などあり得ません。生きていることそれ自体に幸せを感じ,心から感謝できるようになるなら,このことは実感としてよく理解できるはずです。

 私たちと他者は,お互いに支え合い,助け合ってこそ生きていられるのであり,その意味で,私たちと他者は一体なのですから,本来は勝ちも負けもないはずです。また,世間の評判など,そのほとんどは,ちょっとしたことですぐに手のひら返しに変わってしまうような無責任でいい加減なものです。私たちは自惚(うぬぼ)れやすく,自分は世間から評価され,期待されている,自分がいなくなったら世間が困り,悲しむなどと勘違いしがちですが,実際には,世間は私たちに対して関心さえほとんど持っていませんし,私たちがいなくなっても世間は何も困らずに回っていきます(地球も回り続けます。)。そのような世間に評価されないからといって落ち込んだり,評価されたからといって有頂天になったりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか。毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要などまったくありません(むしろ,毀誉褒貶に一喜一憂しないでいられるだけの図太さや鈍感さを身に付ける必要があります。)。特に,他者の短所や欠点や弱みを指摘して平気で悪口を言えるということは,「目糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑う」,「青柿が熟柿弔う」などの類いであり,自分の短所や欠点や弱みが見えていないということ,すなわち,心の目が曇っていてあるがままの現実を見ることができていないこと,あるいは,他者の長所や美点や強みを認めるだけの器量(余裕)がないことの証左なのですから(「名人は人を誹(そし)らず」と言います。),そのような他者の言葉を真に受ける必要などまったくなく,「屁(へ)の河童(かっぱ)」くらいに思っていればいいのではないでしょうか。人に褒められたり,好かれたりすれば嬉(うれ)しくなる(逆に,人に貶(けな)されたり,嫌われたるすれば悲しくなる)のが人情ですし,日本人は世間の評判を過度に気にしやすい国民であると言われていますが,評価において重要なことは,評価してくれる人の数ではなく質です。なお,「出る杭(くい)は打たれる」,「大木は風に折られる」,「山高ければ谷深し」,「誉れは謗(そし)りの基(もと)」,「雉子(きじ)も鳴かずば打たれまい」などと言うように,称賛されたり,脚光を浴びたりすることが多くなればなるほど,誹謗(ひぼう)中傷されたり,罵詈(ばり)雑言を浴びせられたり,足を引っ張られたりすることも多くなるのが世の常ですし(そもそも,人間は誰しも,長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面の両面を備えているわけですから,称賛されるだけなどということは絶対にあり得ません。),調子に乗れば後で必ず痛い目を見ることになりますので,心の平安を乱されることなく,自分が信じる目標や理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けたい,そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせるとともに,他者や社会の役にも立ち,思い残すことのない充実した有益な人生を送りたいと願うのであれば,「能ある鷹(たか)は爪を隠す」,「大賢は愚なるが如(ごと)し」,「君子危うきに近寄らず」,「触らぬ神に祟(たた)りなし」などとも言うように,なるべく目立たないように慎み深く控えめに生きるのが(人知れず黙々と努力するのが)賢明な生き方なのかも知れません(社会というものはきっと,表舞台で脚光を浴びているような人たちによってではなく,そのように舞台裏で日夜人知れず黙々と努力している人たちによってこそ支えられているのだと思います。)。それでもなお,世間から評価されるような事態に至ってしまった場合には,他者から羨ましがられたり妬まりたりしないように細心の注意を払いつつ,「耳の楽しむ時は慎むべし」と言うとおり,一段と気を引き締めて慎み深く控えめに生きる必要があるのではないでしょうか。

 「負けるが勝(かち)」,「負けて勝つ」,「逃げるが勝ち」,「三十六計逃げるに如(し)かず」,「大賢は大愚に似たり」,「人は見かけによらぬもの」,「人の噂(うわさ)も七十五日」,「和して同ぜず」などとも言いますが,人生において他者との勝ち負けや世間の評判など,取るに足りないことです。もちろん,人間が生きていく上において世の中に適応することは欠かせませんし,私たちが,自分が好きなことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせることができるのも,その他のことを他者が分担し,負担してくれているおかげなのですから,いついかなるときであっても他者に対する感謝の気持ちや世間に対する関心を失ってはいけませんし,困っている人や苦しんでいる人に対する支援や協力は進んで行うべきであると思います。また,自分を過信して独善に陥らないようにするためにも,自分の内外に対して常に心を開き,自分の心の声や他者の言葉(特に耳が痛いと感じられる言葉)に謙虚に耳を傾ける姿勢を保ち続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負や世間の評判を気にする余り,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ損なってしまったり,あるいは,諦めてしまったり,自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることを後回し(先延ばし)にしてしまったり,本当の自分や自分が進むべき道(自分が信じる目標や理想)を見失ってしまったりしたのでは,自分が生きている意味や,自分がこの世の中に生まれてきた意味がなくなってしまい,人生に大きな悔いを残すことになりかねません。

 人生は短く,しかも,この世の中において生きることのできるチャンスは,たった一度きりなのですから,心の目を曇らせることなく,心の平安を保ち続けるためにも,他者との勝ち負けや世間の評判などは余り気にせず,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけることや,そこに見いだした自分なりの目標や理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることや,勇気を持って自分の信念を貫き通すこと(自分が本当に納得することのできる,自分に恥じることのない生き方を貫き通すこと)などにこそ,気持ちを集中し,限りある大切な時間やエネルギーを使いたいものです。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 667】

「私たちが他の人々に感じる羨望は,腐食性の液体のようなものだ。それは私たちの幸福をむしばみ,心の平静を破壊する。」(『欲望について』,ウィリアム・B・アーヴァイン,竹内和世訳,白揚社

 

○私たちは,自分の人生や自分の暮らしに満足できないからこそ,他者の人生や他者の暮らし向きが気になり,すぐに自分と他者を比較してしまうのでしょうが,「隣の芝生は青い」と感じられるものなのであり,自分と他者を比較すればするほど,自分の人生や自分の暮らしに対する不平不満は募る一方となってしまいます。そして,挙げ句の果てには,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込み,心の平安を失った末に,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまいます。そもそも,私たちが,自分の人生や自分の暮らしに満足できていたとしたら,自分と他者を比較しようなどとは思わないのではないでしょうか。生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るためにも(少なくとも,自分は不幸であるなどと思い込んでしまわないようにするためにも),自分が今ここでこうして生きていられることを当たり前と思うのではなく,その有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けることによって,自分の人生や自分の暮らしに満足できるようになりたいものです。(1)(3)(4)(6)(7)(18)(20)関連