実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,好きなことを見つけ,そこに見いだした自分なりの目標や理想に近づくための努力を楽しめるということが重要である。

 「好きこそものの上手(じょうず)なれ」と言いますが,私たちは,自分が好きなこと(ほとんどの場合,自分の人生に必要不可欠と感じられること)だからこそ,どのような困難や苦労にもめげることなく,辛抱強く努力し続けることができるのではないでしょうか。そして,長年にわたって怠ることなく努力し続ければこそ,才能の有無にかかわらず,上達もし,それに見合った成果も得られ,また,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続け,そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせるとともに,多少なりとも他者や社会の役に立つことができるのではないでしょうか(「大器晩成」とも言うように,大きな器が出来上がるまでには,どうしても長い時間が必要です。)。このように考えるなら,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ,あるいは,自分がやっていることを本当に好きになり,そこに自分が信じることのできる自分なりの目標や理想を見いだし(自分なりとは言っても,「すべての道はローマに通ず」るのでしょうが。),その目標や理想に近づくための努力を心から楽しめるということが重要であることが分かります(努力することを楽しいと思えるようになるためには,自分が好きなことに打ち込めることの有り難さに気づけるだけの想像力を持ち,感謝する気持ちを忘れないということも重要であるとは思いますが。)。

 なお,何事も嫌々やったところで意味のある成果を得ることはできず,周囲に迷惑や負担を掛けるとともに,不満やストレスや疲れなどがたまるだけですので(まさに「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」です。),仕事など,自分がやらなければならないことについては(もちろん,反社会的なことや自分の信念に反するようなことは別ですが。),嫌々やるのではなく,是非とも楽しみながらやりたいものです。その気になって全力で前向きに取り組めば,何事にも何らかの楽しさややりがいが見いだせるものです(「石の上にも三年」とも言うように,何らかの楽しさややりがいを見いだせるようになるためには,相応の期間,辛抱強く努力する必要があるとは思いますが。)。そして,楽しさややりがいをさらに極めていくことによって,自分がやっていることを本当に好きになっていく,ということはよくあることです。

 自分が本当にやりたいと思える好きなことや,自分なりの目標や理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのが,より一般的であるとは思います。しかし,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,その場限り,その場しのぎになりやすく,困難や苦労に耐えてまで辛抱強く努力し続けるということは難しいのではないでしょうか。自分なりの目標や理想がなければ,自分が目指すべき方向性が定まらず(目的地を定めずに歩き回ることにも,息抜きとしての意味はあるのでしょうが。),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,どこにもたどり着けないまま一生を終えてしまうということにもなりかねませんので(自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせることができないまま,人生に大きな悔いを残してしまう可能性が高いので),人生に自分なりの目標や理想を見いだすことは,やはり重要であると思います。

 掲げる目標や理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません(したがって,目標や理想を掲げるのに遅すぎるということはありません。)。むしろ,すぐに到達できてしまうようなものでは人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,「少年よ大志を抱け」という言葉どおり,目標や理想は大きければ大きいほど,高ければ高いほどいいとさえ言えます(大きな目標や高い理想を掲げることは,翻って自分の無知さや未熟さを自覚することにもつながりますので,何歳になっても慢心することなく,謙虚さや,真摯に学び,努力する姿勢や,素直に反省する態度などを保ち続ける上においても重要なのではないでしょうか。)。もちろん,自分が掲げた目標や理想に縛られて身動きが取れなくなり,かえって成長・向上にブレーキが掛かってしまうというのでは本末転倒ですので,目標や理想は,状況の変化などに応じてある程度は柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思います。人間が考えることに完璧ということはありません。「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」,「過ちて改めざる是(これ)を過ちという」などとも言いますが,目標や理想についても,いったん掲げた目標や理想にこだわり,固執するのではなく,常に開かれた心で謙虚に見直し,より善い,より人間らしいものに随時修正していくべきであると思いますし,必ずしも目標や理想を一つに限定する必要もないと思います。目標や理想を一つに限定してしまったら,何らかの理由によってその追及ができなくなってしまった場合に,あるいは,その目標や理想を到達してしまった場合に,一時的にせよ,人生の指針を失い,あるいは,自分が進むべき道を見失い,途方に暮れてしまう可能性が高いからです。

自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けることであると思います。そして,たとえ何歳になったとしても,たとえどれだけたくさんの経験を積んだとしても,たとえどれだけ大きな社会的成功を収めたとしても,決して慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることだと思います。「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とも言うように,人間的に成長・向上するにつれてますます謙虚になっていくというのが,人間の本来あるべき姿なのではないでしょうか。特に,進歩・発展や変化の激しい現代社会にあっては,まさに「習うは一生」であり,私たちは必然的に常に初心かつ謙虚であらざるを得ないのではないでしょうか。

 自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けることができなければ,自分を人間的に成長・向上させ続けるための,今日を精一杯生きるためのエネルギーは湧いてきません。また,慢心して謙虚さを失えば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分が無知であることや未熟であることを自覚しての,真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度(日々立ち止まって自分を振り返り,自分が犯した失敗や過ちを素直に認めた上で,それらから学ぶべきことを十分に学び(経験を十分に消化して認識にまで高め),学んだことを決して忘れまいとする態度)といったものを失い,そこで成長や向上は止まってしまいます。当然のことながら,社会の進歩・発展や変化にも取り残されてしまいます。そして,真摯に学ぶ姿勢などを失えば,「思いて学ばざれば即ち殆(あや)うし」とも言うように,独り善がりな傾向を強めるばかりで(「地獄は善意で敷きつめられている」とも言うように,独り善がりな善意・熱意ほど怖いものはありません。当人は善意と信じつつ,間違った行動を無反省に繰り返し,どこまでもエスカレートさせてしまう危険性があるからです(悪意に基づく行動なら,どこかで何らかのブレーキが掛かるものですが。)。しかし,当然のことながら,善意ならば何をやっても許されるということはありません。善意で何かをする際には,自分が独善に陥っている可能性について徹底的に内省した上で,自分の行動がどのような結果を招いているかということを十分に見極めつつ,慎重の上にも慎重を期し,できる限り慎み深く控え目に行うようにしたいものです。),あとは退歩・退行し(未熟な状態に逆戻りし),堕落する一方になってしまいます(自分に揺るぎない自信や誇りを持ち続けることが,かえって難しくなってしまいます。)。「自慢高慢馬鹿のうち」,「自慢は知恵の行き止まり」などと言うように,自慢をしない人間の評価が上がりがちであるのとは反対に,自慢をする人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は,それ以上の成長・向上が望めないだけではなく,「御山(おやま)の大将」や「井の中の蛙(かわず)」になってしまう危険性が高いとみんなが知っているからなのではないでしょうか。

 なお,「知る者は言わず,言う者は知らず」と言うように,人間は本来,物事を深く知れば知るほど,それに伴って分からないことも増えてくるため,発言が控え目になり,慎重になっていくのが自然であり(これが真の学問(学び)の有り様(よう)なのではないでしょうか。),実際,「深い川は静かに流れる」とも言うように,人生経験を積んだ(人生について深い知識を有する)思慮深い老人は,人生経験の乏しい(人生について浅い知識しか有していない)思慮の浅い若者に比べて物静かであり,口数が少ないのが普通です。しかし,慢心した人間は,物事を浅くしか知らないにもかかわらず,生半可な知識を得て何でも知っているつもりになってしまうので(自分が無知であるという自覚を失ってしまうので),黙っていることが難しく,とかく知識をひけらかしたり,何事にも口を差し挟もうとしたりしてしまいがちです(影響力のある人が自己顕示的に知ったか振りをすれば,その軽はずみな言動によって世論や多くの人の行動が一時的にせよ誤った方向に導かれてしまう危険性がありますので,有名人が,少なくとも自分が専門とする分野以外について発言する際には,特に,否定的・批判的な発言をする際には,自分の発言が間違っている可能性があることを十分に踏まえた上で,慎重の上にも慎重を期して発言する必要があると思います。)。また,慢心し,何でも知っているつもりになってしまうと,知っていることなど本当は高が知れているのに(大量の知識を頭に詰め込みながら,実り多い幸せな人生を送るために必要な生活の知恵はほとんど身に付けていない,ということはよくある話です。),それ以上知ろうとする熱意や意欲を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増すというのとは逆に,分かりきった退屈なものになってしまいがちです。

 人間は総じて自惚(うぬぼ)れやすく(自分の短所や欠点や弱みにはなかなか目が向きにくく),とかく自分を実際以上に見積もってしまいがちです。その結果,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する(「策士策に溺れる」,「泳ぎ上手は川で死ぬ」,「善く泳ぐ者は溺れ,善く騎(の)る者は堕(お)つ」,「得意なことは 控え目に」(中井久夫)など),人間は得意になっている時ほど失敗する(「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」,「生兵法は怪我(けが)の基(もと)」,「油断は怪我(けが)の基(もと)」,「油断大敵」,「用心は臆病にせよ」,「百里の道は九十九里を半ばとする」,「一病息災」など),災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる(「喉元過ぎれば熱さを忘れる」,「治にいて乱を忘れず」など)といった現象が生じます。人間が生きていくためには,特に無知で未熟な若者が劣等感に押し潰されることなく自信を持って前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要なのかも知れませんが,いい気になって調子に乗れば,いつか必ず大きな痛手を被ることになります(自己評価(自分に対する自分の評価)と他者評価(自分に対する他者からの評価)のズレは社会不適応のサインであるとも言われています。)。致命的な失敗や過ちを避けるためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです。自惚れやすさなども含め,人間の短所や欠点や弱みを根本的に改善することは,文字どおり大変なことですが,それらを自覚することは比較的容易であり,自覚することによって短所や欠点や弱みに足をすくわれる危険性(自分を過信して痛い目に遭う危険性)は格段に低下すると思うからです。

 自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の狭い経験から学ぶだけではなく,広く他者の経験から学ぶことも重要です。特に,「古典」と呼ばれるような,人類の経験や英知の精髄・結晶とも言える良書を愛読・熟読・精読することは,非常に貴重な学びの機会になり得ます。真理に新しいも古いもなく,むしろ,時の試練に耐えて生き残ったものこそが真理なのでしょうから,「温故知新(故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る)」という精神を忘れないようにしたいものです。なお,「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し」と言うように,学んだことを実生活に取り入れ,日々の生活に役立てられるようにするためには,学んだことを自分の頭で十分に考えて咀嚼(そしゃく)し,消化し,血肉化するという作業が欠かせません(学んだことが単なる知識にとどまっていたのでは,それらが自分の考え方や生き方や心の持ち方などに影響を与えることはほとんどなく,それらを自分の人生に生かすことは難しいと思います。)。「早い者に上手(じょうず)なし」,「急(せ)いては事を仕損じる」,「急がば回れ」,「近道は遠道」などとも言いますので,読書に際しては,効率重視の速読ではなく,熟読・精読をこそ心がけ,読書の途中で立ち止まって考える時間を大切にしたいものです。また,ほとんどどのような情報にも簡単にアクセスできる便利な時代になりましたが,より多くの情報にアクセスして,より多くの知識を頭に詰め込む(あるいは,クラウド上にため込む)ことにではなく,氾濫する情報の中から自分に本当に必要な情報を見極めた上で,それを生活の知恵としてしっかり体得することにこそ,関心を払い,力を注ぎたいものです。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 666】

「一番大事なこと,それは自分を知り,生きる上で何が必要で何が必要でないかを見分け,生きて今ここにあることを何よりも幸福に思うことだ。」(『足るを知る 自足して生きる喜び』,中野孝次朝日新聞社

 

○生きているということは,よくよく考えてみれば一つの奇跡です。私たちは,この世の中に生まれてこれたことや,自分の命を守り,自分が生きることを可能にしてくれている人体や自然や宇宙の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働きや,自分の人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助けや,人類史上最も豊かで安全で便利な社会で生活できることなどに,心から感謝すべきなのではないでしょうか。自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致し,心から感謝できるようになるなら,私たちはきっと,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるはずです。そして,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるなら,私たちはきっと,自分にとって真に必要な物と必要でない物との見分けがつくようになるとともに,必要以上に欲張ることなく,必要最小限の物だけで満足できるようになるはずです。(1)(6)(7)(14)(20)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 665】

「日々の生活こそは凡(すべ)てのものの中心なのであります。・・・人間の真価は,その日常の暮しの中に,最も正直に示されるでありましょう。(柳宗悦)」(『足るを知る 自足して生きる喜び』,中野孝次朝日新聞社

 

○私たちの人生に稀(まれ)に訪れる「大きな幸せ」は,意外に底が浅く,すぐに色褪(いろあ)せてしまいがちです。しかし,私たちの人生の至る所に転がっている「小さな幸せ」は,日常の暮らしに深く根差していることもあり,決して色褪せるということがありません。したがって,真に幸せな人生を送りたい,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになりたい,と願うのであれば,私たちは,他者が羨むような「大きな幸せ」ではなく,誰の人生にも無限に見いだすことのできる「小さな幸せ」をこそ,大切にする必要があるのではないでしょうか。ただし,心の目が曇っていたのでは,あるいは,心ここに在らずといった心理状態で生きていたのでは,地味で目立たない「小さな幸せ」に気づくことは難しく,いま自分の目の前にある「小さな幸せ」に気づくことさえ困難です。「大きな幸せ」に執着するなどして心の目を曇らせてしまわないように,また,過去や未来に心を奪われたり,他者との勝負や世間の評判に気を散らしたりして心ここに在らずといった心理状態に陥ってしまわないように,くれぐれも留意したいものです。(1)(4)(6)(7)(8)(10)(20)関連

自分を人間的に成長・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,人間として,また,社会人として,自然で真っ当な生き方である。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言ってしまえば,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。

 せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを手に入れることが何かを失うことであるとしても(何事にも一長一短がありますので,何かを手に入れるためには必ず何かを失わざるを得ませんが,自分は何を手に入れるために何を失おうとしているのか,という自覚だけは常に持っていたいものです。),自分を人間的に成長・向上させ続けることによって,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせ,思い残すことのない充実した人生を送りたい,そして,できることなら,そのことを通じて多少なりとも他者や社会の役に立ちたい,他者や社会に益をもたらしたいと願うのは,人間として,また,社会人として,自然なことであり,真っ当なことであると思うからです。何も思い残すことのない充実した有益な人生を送ることができたなら,いつか訪れる死をもきっと安らかな気持ちで迎え入れることができるはずです。

 また,この宇宙が本(もと)を正せば一つのものから分化・発展したものであることを考えるなら(だからこそ,私たちは,「個」を極めることによって「普遍」に至ることができるのではないでしょうか。),私たちは,この宇宙の,この世の中の一部分なのであり,私たちはこの世の中と無関係に生きることはできません。特に,私たちは他者の支えや助けがなければ生きていられず,その意味で私たちと他者は一体なのですから(私たちと他者は持ちつ持たれつの相互依存関係にあるわけですから),互いに仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施す勿(なか)れ」という心構えや心がけで生きるのが(できる限り他者に迷惑を掛けたり害を与えたりしないようにして生きるのが),人間として,また,社会人として,自然で真っ当な生き方であると思うからです。

 私たちが暮らしている社会は,人類史上最も豊かで安全で便利な社会と言えますが,そのような社会で暮らしていると,人間は独りでは(孤立無援の状態では)生きていられないという事実をついつい忘れてしまいがちです(そして,自分の思い通りには生きられない集団生活を嫌い,自分の思い通りに生きられる単独生活を好むようになります。また,私たちは,危機的な状況や困難な状況においては,その必要性もあって,他者を協力相手(味方・仲間)と見なしてお互いに助け合おうとしますが,安全・平和な状況や物事がある程度自分の思い通りになっている状況においては,他者と協力し合う(助け合う)必要性が低下することもあり,むしろ,他者を競争相手(敵)と見なして足を引っ張り合おうとしたり,パイを奪い合おうとしたりするようになってしまいます。)。特に,親の愛情に恵まれずに育った人は,自分は誰にも頼らず,これまで自分独りの力で生きてきたし,これからも自分独りの力で生きていくとの思いが強いかも知れません。しかし,実際には,目に見える直接的なものも目に見えない間接的なものも含め,数知れぬ他者の支えや助けがあればこそ,私たちはこれまで生きてこられたのだし,これからも生きていけるのです。私たちは, 他者を信じ,他者を頼らなければ生きていられないのであり,生きるとは他者を信頼することである,と言っても過言ではありません。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 664】

「外から見れば最も貧しい暮らしをしながら,良寛にはつねにゆったりと落ち着いたものがあり,人々はその人に接するだけで心が清らかになった。・・・心がいつもひろびろとゆたかであり,物にとらわれず自由であったので,それが多忙で己を省みることをしない世間の人を救うように働いたのだ。」,「何かが欲しいとか,何かを得たいとか,そういう欲望に駆られて自分たちはいつも生きているが,良寛さんにはその大元の欲がまったくない。だからいつでもあんなに悠々としていらっしゃるのか。良寛の清らかさ,慈愛というものは,そういう生き方から生じることを知って,自分も救われる。」(『足るを知る 自足して生きる喜び』,中野孝次朝日新聞社

 

○経済的な豊かさと心の豊かさは,まったく別のことです。華美で贅沢(ぜいたく)な生活を送りながら,そのような生活を当たり前と思い,感謝する気持ちを忘れ,常に不満を抱えながら,いらいらと不機嫌に仏頂面で生活している人もいれば,簡素でつましい生活を送りながら,そのような生活にさえ感謝する気持ちを忘れることなく,常に満ち足りた気持ちで心安らかに機嫌よく笑顔で生活している人もいます。要するに,心の豊かさや人間の幸不幸というものは,経済的な豊かさによって決まるのではなく,自分の心の持ち方によってこそ決まる,ということなのではないでしょうか。経済的な豊かさに執着し,欲張れば欲張るほど,満足することは難しくなり,むしろ,不平不満ばかりを募らせるがままに感謝する気持ちを忘れ,心はかえって貧しくなっていきます。自分が今ここでこうして生きていられることに対する感謝の気持ちを忘れることなく,常に心豊かに,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるようになるためにも,経済的な豊かさに対する執着を捨て去り,小欲知足を,すなわち,できる限り無欲であることを心がけたいものです。(1)(4)(6)(7)(10)(14)(20)関連

幸せであることは,すべての人間の共通の願いであるとともに,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人にとっての義務であり,人生の大前提である。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。

 幸せであることは,私たちすべての人間の共通の願いです。年齢も職業も暮らしている国や時代も関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。実際,この道を選べば必ず幸せになれると分かっているときに,あえてその道を選ばない(あえて不幸になる道を選ぶ)人がいるでしょうか。道に迷ったり,道を踏み外してしまったりするのは,どの道を選べば幸せになれるのかが分からないからなのではないでしょうか。他者と競い合って社会的な成功を収め,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないなどと幼い頃から誰かに教え込まれ続け,そのようなデマを鵜呑(うの)みにしてしまっているからなのではないでしょうか。

 また,人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,わざわざこの世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,(3)でも述べたように,不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であるなどと思い込んでいる人間は,すぐに自暴自棄になっては道を踏み外しやすい上に,他者を妬んだり恨んだりしては,他者の足を引っ張ろうとしたり他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちですが(他者の不幸を願い,喜びがちですが),そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであればこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩み続けることができるのであり(道を踏み外すことなく,正しい道に踏みとどまることができるのであり),自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。そのように考えるなら,幸せであることは,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人,特に,対人援助・対人サービスの仕事に従事している社会人にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか。

 幸せであること,すなわち,自分が幸せであることに気づくことを,人生の目標やゴールではなく,人生の大前提とする理由は,おおむね以上のとおりです。