そもそも,幸せとは何なのでしょうか。
幸せとは,自分が幸せであることに(自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに)気づくことである,と言います。私たちは本来,生きているというだけですでに十分に幸せなのに(生きているということは,よくよく考えてみれば一つの奇跡であり,心から感謝すべきことなのではないでしょうか。),私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに(人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物ですが,心の目を曇らせさえしなければ,困難や苦労を補って余りあるほどの生きる喜びや幸せ(そのほとんどは,日頃多くの人が見過ごしてしまいがちな「小さな幸せ」,「ささやかな幸せ」などと呼ばれるものですが。)を人生に見いだすことも可能なのではないでしょうか。そもそも,困難や苦労があるからこそ生きている実感や手応えも得られるのでしょうし,それらを乗り越えることでこそ達成感や充実感といったものも味わえるのではないでしょうか。),私たちには生まれ付き幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることこそが私たちのデフォルト(基調)なのに(比喩的に言えば,どんなに天気の悪い日でも,雲の上ではいつでも太陽が輝き,青空が広がっているのに),そのことになかなか気づくことができません。しかし,そのことに気づき,その気づきに伴う感動や感謝する気持ちを忘れさえしなければ,幸運や才能や環境などに恵まれなくても,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても(むしろ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという勘違いこそが,それらに対する執着となって,私たちの心の目を曇らせ,私たちの心の平安を乱し,ひいては,私たちを,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に追い込み,私たちが,自分が幸せであることに気づくことを難しくさせているのではないでしょうか。),わざわざ「山のあなたの空遠く」に「幸い」を探しに行ったり,「青い鳥」を探し求めたりしなくても,私たちは誰もが幸せになれるのではないでしょうか。幸せになるために,他者を競争相手(敵)と見なして先を争ったり,パイを奪い合ったりする必要はありません。また,生きていることそれ自体が幸せなのですから,自分から手放さない限り,誰も私たちの幸せを奪い取ることはできません。幸せとは,そういうものなのではないでしょうか。