実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

「どのようにすれば幸せになれるのか」及び「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか」

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1 どのようにすれば幸せになれるのか

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,自分が幸せであることに気づくことであり,それさえできれば,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても,誰でも幸せになれる。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。

 幸せとは,自分が幸せであること(自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さ)に気づくことである,と言います。私たちは本来,生きているというだけですでに十分に幸せなのに(生きているということは,よくよく考えてみれば本当に奇跡的な出来事(現象)であり,心から感謝すべきことなのではないでしょうか。),私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに(人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物ですが,心の目を曇らせさえしなければ,困難や苦労を補って余りあるほどの生きる喜びや幸せ(そのほとんどは,日頃多くの人が見過ごしてしまいがちな「小さな幸せ」,「ささやかな幸せ」などと呼ばれるものですが。)を人生に見いだすことが可能なのではないでしょうか。そもそも,困難や苦労があるからこそ生きている実感や手応えも得られるのでしょうし,それらを乗り越えることでこそ達成感や充実感といったものも味わえるのではないでしょうか。),私たちには生まれ付き幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることこそが私たちのデフォルト(基調)なのに(比喩的に言えば,どんなに天気の悪い日でも,雲の上ではいつでも太陽が輝き,青空が広がっているのに),そのことになかなか気づくことができません。しかし,そのことに気づき,その気づきに伴う感動や感謝する気持ちを忘れさえしなければ,特別な幸運に恵まれなくても,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても(むしろ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという勘違いこそが,それらに対する執着を生じさせ,心の目を曇らせ,心の平安を乱し,ひいては,私たちを,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に追い込み,自分が幸せであることに気づくことを難しくさせているのではないでしょうか。),わざわざ「山のあなたの空遠く」に「幸い」を探しに行かなくても,私たちは誰もが幸せになれるのではないでしょうか(そのように考えるなら,幸せになるために他者を競争相手(敵)と見なして先を争ったり,席を奪い合ったりする必要はなく,自分から手放さない限り,私たちの幸せを奪い取ることは誰にもできない,ということになります。)。

 

(2)私たちは幸せであるべきであり,幸せになることをこそ人生の最優先課題とし,どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきである。

 きっと死ぬ瞬間には誰もが,無欲恬淡(むよくてんたん)・春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という境地に達し,様々な執着や不平不満などから解放されるのではないでしょうか。そして,曇りのない眼や心の平安を取り戻すことによって,生きているということは,ただ生きているというだけで十分に幸せなことだったのだなあ,この世の中に生まれてこれたことは,本当に幸せなことだったのだなあと気づき,感謝する気持ちを新たにするのではないでしょうか(幸せであることと感謝することは,切っても切れない密接な関係にあります。実際,私たちの心は,幸せな時には感謝する気持ちでいっぱいになりますし,何かに対して感謝している時には幸せな気持ちでいっぱいになります。したがって,常に幸せでいたいと願うのであれば,常に何かに対して感謝していればいいということになります。)。

 しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。たとえどれだけ長生きできたとしても,人生が苦しくてつらいだけでのものであったとしたら,せっかくこの世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありません。

 私たちは幸せであるべきであり,幸せとは何かということを正しく見極めた上で(それを見誤れば,すべての努力が徒労に終わってしまう可能性があります。),どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきであると思います。幸せになることをこそ人生の最優先課題とすべきであり,幸せになることにこそ最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐべきであると思います。この優先順位を間違えれば,人生を台無しにし,人生に大きな悔いを残してしまう危険性さえあるのではないでしょうか。

 

(3)道を踏み外したり,他者に害を与えたりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,私たちは幸せである必要がある。

 不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は(自分が幸せであることに気づけない人間は),「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,すぐに自暴自棄になっては自制心を失い,衝動的に道を踏み外してしまいがちです。また,自分と他者を比較しては幸せそうな他者(社会的に成功しているように見える他者)を妬んだり,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては勝手に被害感を募らせて他者を恨んだりした挙げ句,他者の足を引っ張ったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしてしまいがちです(当然のことながら,他者との関係はこじれやすく,他者から疎んじられて孤立してしまいがちです。)。より具体的には,心ない発言が相手の心を深く傷つけ,知らぬ間に自分の心をも深く傷つけてしまう可能性があることさえ想像できずに,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して,幸せそうな他者を不寛容に責め立て(自分のことは棚に上げたまま,相手に非があると一方的に決め付けては,あるいは,相手の短所や欠点や弱みといった否定的な側面にばかり目を向けては,めくじらを立て,罵詈(ばり)雑言を浴びせ,誹謗(ひぼう)中傷し),見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満,妬みそねみ,恨みつらみといった感情を晴らそうとしがちです。

 したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,世の中は不寛容でとげとげしく殺伐とした暮らしにくい(生きづらい)ものになり,犯罪や争い事なども増えていきます。なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらもそれらを乗り越えて有益無害な人生を送っている人はたくさんいると思います。

 以上のように,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,自暴自棄になって道を踏み外してしまったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとして他害的な行動に出てしまったりしがちであり,その結果,自分をますます不幸な状況に追い込んでしまいがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか(悪い行いを繰り返していれば,自分に嘘(うそ)をつくことなく自分を肯定し続けることが難しくなり,いつしか自分に嘘をつくようになってしまったり,自分を否定し,自分をないがしろにするようになってしまったりします。)。たった一度きりの人生なのですから,そのような人生ではなく,何事があろうとも自分を大切にして正しい道に踏みとどまりながら,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送れるようになりたいものです。

 

 

《なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲張り続ける限り,いつまでたっても満足することはできず,不平不満ばかりを募らせては,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまう。

 私たちは,なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 欲望は生の証(あか)しであり,それを満たそうとすることは,生き物にとって自然なことです。しかし,人間の欲望は苦しみや悲しみの種でもあります。「欲に頂(いただき)なし」と言うように,人間の欲望は,必ずしも本能に基づくものではないだけに,限りがなく,放置すれば際限なく肥大化する傾向があります。

 したがって,強い意志を持って自分の欲望に意識的に歯止めを掛けない限り,満ち足りるということ(足るを知るということ)が難しくなってしまいます。たとえどれだけ多くの物を持っていたとしても,欲張り続ける限り(欲望に執着し続ける限り),私たちはいつまでたっても満足することができませんし(持っている物が多く,美衣美食の贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ,自分の欲望を抑えられないという面もあるのかも知れませんが。),自分が持っている物を失うことに対する不安を常に抱えることになり,心は貧しいままです。

 挙げ句の果てには,より多くの物を手に入れれば,心が満ち足り,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,常に無い物ねだりをするようになってしまいがちです。そして,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送る中で,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思って感謝する気持ちを忘れ,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致すことができなくなってしまったり(人間は,どのような境遇にもすぐに慣れてしまう生き物ですが,そのような適応能力の高さゆえに,どのような恵まれた境遇にもすぐに慣れ,飽き足りなくなり,より恵まれた境遇を求めるようになってしまいます。),自分の欲望を充足させることを人生の最優先事項とし,その他のことをないがしろにするようになってしまったり(欲に目が暗み,本当に大切なものが見えなくなってしまったり)しがちです。

 また,普通の平凡な人生では満足することができず,そのような人生を,無価値な,あるいは,価値の低い人生と見下すようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着しては他者と敵対するようになってしまったり(私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,目の色を変えて財産などを手に入れようとするのでしょうが,財産などを手に入れるためには,必死になって他者と競い合う必要があり,必然的に他者を協力相手(味方・仲間)ではなく,競争相手(敵)と見なすようになってしまいます。なお,規律や秩序を保ちつつ安全で平和な世の中を築き,維持していく上において権力は欠かせませんが,権力は腐敗しやすく,権力者が,その権力を私物化し,自分の欲望を満たすために乱用すれば,かえって規律や秩序は乱れ,世の中は危険で争い事に満ちた生活の場になってしまいます。したがって,権力を負託する相手の選択については,くれぐれも間違わないようにしたいものです。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(自分の人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に),ままならない人生に対する不平不満ばかりを募らせるようになってしまったり(人生はままならないものであるという事実を受け入れられない限り,人生は常に期待を裏切られては傷つき,失望するだけのものになってしまう可能性があります。),人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにしては,他者を恨み,他者を責め立て,運命を呪い,不運を嘆き悲しむような,被害者意識の強い他罰的(他責的)な人間になってしまったりしがちです。

 私たちは,自分の欲望の肥大化を放置したまま(自分の欲望に意識的に歯止めを掛けることなく)欲張り続けるからこそ,自分は不幸であると思い込むようになり(自分が幸せであることに気づけなくなってしまい),その結果,心の目を曇らせ,心の平安を失い,世の中の肯定的な側面が見えなくなってしまうことにより,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。

 

(5)恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまったために,自分が幸せであることに気づけなくなっている人たちもいる。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,その後の人生においても,その苦しさやつらさを誰かにしっかり受け止めてもらったり,生きていてよかった,この世の中に生まれてきてよかったと実感できるような体験を味わったりすることができないまま,他者を憎んでは他者に対して心を閉ざし,人生を憎んでは人生を悲観し,自分自身を憎んでは自分自身をないがしろにするようになってしまったために,世の中の肯定的な側面に目を向けることが難しく,必然的に,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致し,心から感謝すことが難しく,自分は不幸であると思い込むようになるとともに,自分が幸せであることに気づけなくなってしまっている人たちもいます。

 

 

《どのようにすれば自分が幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲張ることをやめれば満足することが可能になり,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになる。

 私たちは,どのようにすれば自分が幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。

 たとえ少しの物(必要最小限の物)しか持っていなくても,自分の欲望に歯止めを掛け,その肥大化を抑えることができれば,私たちは満足すること(足るを知ること)が可能になりますし(持っている物が少なく,粗衣粗食の質素でつましい暮らしに慣れているからこそ,自分の欲望を抑えやすいという面もあるのかも知れませんが。),自分が持っている物を失うことに対する不安からも解放され,その分,心は豊かになります。

 したがって,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,より多くの物を手に入れれば,心が満たされ,幸せになれる(より多くの物を手に入れなければ,心が満たされず,幸せにはなれない)という勘違いを正した上で,常に小欲知足(痩せ我慢をして大きな満足を諦めるということではなく,新たに多くの物を手に入れなくても,自分が持っている物だけで,自分に与えられている物だけで何ら不満を感じることなく満足できるということ)を心がけ,たとえ必要最小限の物しか持っていなくても満足できるように自分の欲望を自制できるようになる必要があるのではないでしょうか(でつましい暮らしは,その価値を十分には納得できないまま他者に強制されれば,ただの貧しくて惨めな生活かも知れませんが,足るを知る人がその価値を十分に納得した上で自分の自由意志で選択するなら,むしろ生きていることの有り難さを実感しやすい,心豊かで魅力的なシンプル・ライフになり得るのではないでしょうか。)。

 そして,そのためにも,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を享受しつつも,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思うことなく,感謝する気持ちを忘れずに,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さ(より具体的には,自分が生活している社会の驚くべき豊かさや安全さや便利さ,自分の人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助け,自分の命を守り,自分が生きることを可能にしてくれている宇宙や自然や人体の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働きなど)に常に深く思いを致し,その有り難さをしっかり心に刻み付ける必要があるのではないでしょうか(そのためには,その有り難さを痛感する体験を何度も積み重ねる必要があるのかも知れませんが。)。

 また,何を人生の最優先課題とすべきかということを真剣に考えるとともに,普通の平凡な人生の有り難さを再認識し,そのような人生を,無価値な,あるいは,価値の低い人生と見下すようなおごったものの見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになったり,人生はままならないものであるという事実をあるがままに受け入れられるように(欲張らずに現状で満足できるように)なったりする必要があるのではないでしょうか。

 私たちは,欲張ることをやめれば(足るを知り,欲望に対する執着を捨て去れば)満足することが可能になり,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,曇りのない眼や心の平安を取り戻して世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになることで,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。「生きてるだけで丸儲(まるもう)け」と思っている人は,どのような逆境にあろうとも,どのような困難や苦労に見舞われようとも,きっと感謝する気持ちを忘れることなく,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送り続けることができるはずです。私たちは,自分が持っていない物(必要以上の物)を欲しがり,それらの物を持っていないことに不満を募らせるのではなく,自分の命なども含め,自分が持っている物,自分に与えられている物の豊かさに深く思いを致し,自分がそれらの物を持っていることの有り難さ(自分が今ここでこうして生きていられることことの有り難さ)に心から感謝できるようになることで,たとえ必要最小限の物しか持っていなかったとしても,自分が持っている物だけで満足できるようになる必要があるのではないでしょうか。

 なお,欲張ることなく,自分が持っている物だけで満足できるようになるための訓練として,自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,自分が持っている物の豊かさ(自分がそれらの物を持っていることの有り難さ)に気づく上においても意味のあることであると思いますが,自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,あくまでも,必要以上の物に執着することなく,自分が持っている物だけで満足できるようになるための手段なのであり,それ自体が目的なのではありません。自分の欲望に歯止めを掛けることによって必要以上の物に対する執着を捨て去り,自分が持っている物だけで満足できるようになった暁には,あえて自分が持っている物を減らす必要はないのかも知れません。

 

(7)人間の幸不幸は心の持ち方次第であり,どのような境遇にあっても幸せであり続けられるように自分の心持ちを改めることにこそ時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,人が羨むような社会的成功を手に入れなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,たとえままならない人生に苦しさやつらさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,場合によっては圧倒されるくらいの幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。また,同じような境遇にあっても,その境遇に満足し,機嫌よく(心穏やかに笑顔で)暮らしている人もいれば,その境遇に満足せず,むしろ,その境遇を不満とし,不機嫌に(いらいらしながらしかめっ面で)暮らしている人もいます(機嫌のよい人が,周囲の人たちから親しまれやすいだけでなく,周囲の人たちをも愉快な気持ちにさせ,機嫌よくさせる傾向があるのとは逆に,不機嫌な人は,周囲の人たちから疎んじられやすいだけでなく,周囲の人たちをも不愉快な気持ちにさせ,不機嫌にさせる傾向があります。その意味で,不機嫌であるということは一種の迷惑行為,社会人としてのマナー違反であると言えます。真っ当な社会人であることを望むのであれば,他者や社会の役に立ち,他者や社会に益をもたらすことをこそ心がけるべきであり,少なくとも,他者や社会に害を与えたり,迷惑を掛けたりするようなことは,できる限り避けるべきなのではないでしょうか。)。

 要するに,人間の幸不幸は,心の持ち方(心構えや心がけ)次第なのではないでしょうか。すなわち,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けるなどして幸せに対する感度を研ぎ澄まし,日々怠ることなく磨き続けることさえできれば(これは自分の意志や努力で十分に可能なことです。),生まれ育った境遇や,現在自分が身を置いている境遇などとは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては普通の平凡な人生にさえ生きる喜びや幸せを無限に見いだせるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。

 また,ただ普通に呼吸をしたり,歩いたり,食事をしたり,きれいな景色を眺めたり,誰かと笑顔を交わしたり,スーパーで買い物をしたりすることにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化が自然に抑えられるとともに,「仁者は憂えず」と言うように,どのような逆境にあろうとも,どのような困難や苦労に見舞われようとも,それらを試練と受け止め(「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」,「おだやかな海は上手(じょうず)な船乗りを作らぬ」,「若い時の苦労は買ってもせよ」などと,困難や苦労を前向きに受け止め),乗り越えていくことが可能になるのではないでしょうか。もちろん,境遇が私たちに与える影響は決して小さくありませんが,どのような逆境にあろうとも,自分は幸せであると感じているなら,その本人は,他者の目にどのように映ろうとも幸せなのですから,私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇をどのように受け止めるのか,どのような心構えや心がけで自分の人生を生きようとするのか,ということなのではないでしょうか。実際,物事の受け止め方や心の持ち方が変わらない限り,自分が身を置く境遇がいくら変わっても不幸な状況(自分は不幸であるという思い込み)からなかなか抜け出せないという例はよく見かけます。

 そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど不可能なのですから,私たちは,どのような逆境にあろうとも,ひねくれたりへこたれたりすることなく,常に感謝する気持ちを忘れずに足るを知り,生きていることそれ自体に幸せを感じられるように,幸せに対する感度を高める方向に自分の心の持ち方を改めることにこそ限りある大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。境遇を自分の思い通りに変えようとすることは,無駄な骨折り(「骨折り損」)というだけではなく,境遇を自分の思い通りに変えることに時間やエネルギーを浪費すればするだけ,被害者意識や他罰的(他責的)な傾向を強めるとともに,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込み,自分は不幸であるという思い込みを生じさせ,自分が幸せであることに気づけなくなってしまうと思うからです。

 

(8)今この瞬間を疎かにせず,常に心を込めて今を生き,今を楽しみ,今を味わい尽くせるようになるということも,幸せであるための重要なポイントである。

 過去(記憶)や未来(想像)に心を奪われたり,他者との勝負や世間の評判に気を散らしたり,内面の物足りなさや憂さを紛らわせようとして過剰な刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事に忙殺されたり,雑多な情報に心を惑わされたりして上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づくことは難しいのではないでしょうか。人生に稀(まれ)に訪れる派手で目立つ「大きな幸せ」には気づけたとしても,人生の至る所に転がっている地味で目立たない「小さな幸せ」には,なかなか気づけないのではないでしょうか(なお,「大きな幸せ」は,たとえ訪れたとしても意外に底は浅く,すぐに色褪(いろあ)せてしまいがちですが,「小さな幸せ」は,私たちの日常生活に深く根差していることもあり,意外に底が深く,色褪せるということがありません。)。

 したがって,人生に隠されている(埋もれている)無限とも言える「小さな幸せ」に気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,様々な執着や雑念などから解放され,心静かにゆったりと,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さを十分に噛(か)み締めながら,常に心を込めてマインドフルに今を生き,今を楽しみ,細部に至るまで(「神は細部に宿る」と言います。)丁寧に今を味わい尽くせるようになる必要があると思います。そして,そのためにも,世の中が無常であることや(世の中に変化しないものは何もありません。これは一つの希望でもありますが。),人生が短く(「光陰矢の如(ごと)し」,「歳月人を待たず」),命が儚(はかな)いものであることを常に念頭に置きながら生活する必要があると思います(とは言え,無常であることを嘆き悲しんだり,死を恐れてじたばたしたりする必要はなく,生きている間は悔いが残らないように人生を大いに楽しみ,死が訪れた際には,それを泰然自若と受け止め,この世の中に生まれてこれたことや,これまで生きてこれたことに対する感謝の気持ちを新たにしつつ人生の幕を閉じればいいだけのことであるとは思いますが。)。また,心の目を曇らせたり,心の平安を失ったりしないためにも,呼吸や飲食や歩行などの行動のみならず,欲望や感情や思考なども含め,今この瞬間に自分が体験していることに対して常に心を開き,関心を払い,自覚的である必要があると思います(あるがままの自分を注意深く観察したり,自分の欲望や感情や思考の本源(本質)を見極めようと努力したり,自分の心の声にじっと耳を傾けたりすることを通じて,私たちは自分というものを,ひいては,人間というものを深く知るとともに,自分の欲望や感情や思考をある程度は自分の意志によってコントロールすることができるようになり,それらに振り回されることが少なくなる分,それらから適度に距離を置き,どのような状況においても心の目を曇らせることなく,心の平安を保つことが可能になります。)。

 私たちは現在にしか生きることができないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから(そして,その幸せが続くことによって,自(おの)ずと幸せな未来が切り開かれていくということなのですから),視野を狭めることなく人生を長い目で見ながらも,今この瞬間を決して疎(おろそ)かにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントと言えるのではないでしょうか。もちろん,過去の反省を踏まえて,あるいは,将来を見越して現在やるべきことに最善を尽くすということは大切なことですが,後悔や取り越し苦労ばかりして,心ここに在らずという状態で現在やるべきことに手に付かなくなってしまうというのでは,本末転倒です。

 

(9)自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面に広く目を向け,他者や人生や自分自身を肯定できるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人たちが,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面だけではなく,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要があります(世の中に否定的な側面があるのは事実ですが,肯定的な側面があるのも事実です。肯定的な側面に目を向けようとせず,否定的な側面ばかりに目を向けるのは,否定的な側面に目を向けようとせず,肯定的な側面ばかりに目を向けるのと同じく,余りにも偏った不公平(不公正)なものの見方と言えるのではないでしょうか。死ぬことや病気になることや老いることにさえ肯定的な側面はあります。例えば,人間の致死率は100パーセントであり,人間は必ず死にますが,死があるからこそ生きる喜びがあり,生きる喜びがあるからこそ私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに感謝したり,生きていることやこの世の中に生まれたきたことに幸せを感じたりすることができるのではないでしょうか。そもそも,本物の死を体験した人などいないわけですから,死んでからのことは誰にも分かりません。死を否定的・悲劇的なものとして捉えること自体が間違っている可能性もあります。)。そして,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることで,まずは,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになる必要があります。

 これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかも知れませんが,私たちの心には本来,バランスを保とうとする(バランスを回復させようとする)力が自然に備わっているのではないでしょうか。「誰も信じられない。」と思っている人の心の中にも,信じることのできる他者に巡り会いたいという気持ちがきっと残されていると思いますし,「生きていたって,いいことなんか何もない。」と思っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちがきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と思っている人の心の中にも,自分をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちがきっと残されていると思います。要するに,大切なことは,それらの気持ちをいかに呼び覚まし(それらの「かすかな声」をいかに聞き分け),強化していくか,ということであると思います。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも言うように,人間が大きく変化することは,文字どおり大変なことですが,できないと思えば,どんな簡単なこともできません。できないと思って諦めてしまえば,努力しないで済む分,楽にはなりますが,それでは何も変わりません。弱音を吐くことなく,絶対にできると信じて不退転の決意で臨めば,「窮すれば通ず」,「案ずるより産むが易(やす)し」というふうに,道は自然に開かれていく場合が多いのではないでしょうか。他者の支えや助けが必要な場合もあるかも知れませんが,人生を切り開いていくのはあくまでも本人なのであり,誰かが本人の代わりにその人生を切り開いていくことはできません。「下駄(げた)を預ける」ように自分の人生を他者に預けることはできないのです。

 そもそも,生まれ付き不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるというような境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうのなら,多くの人間にとって幸せであることは儚(はかな)い夢であり,恵まれない境遇にある人間は一生不幸のままということになってしまいます。それでは救いも希望もありません。幸不幸を決めるのは,最終的には本人次第,本人の心の持ち方次第なのであり,強い意志と勇気を持って自分の心の持ち方を変えることさえできれば(人間は何歳になっても変わることができます。世の中は無常なのであり,変わらないもは何一つないのですから。),どのような逆境にあろうとも,どのような困難や苦労に見舞われようとも,幸せになることは誰にでも可能なことであると私は信じています。

 人生はままならないものであり,「一難去ってまた一難」,「前門の虎,後門の狼」,「泣きっ面に蜂」などと言うように,人生に困難や苦労は付き物ですが,「明けない夜」や「やまない雨」はありませんし,「夜明け前が一番暗い」,「苦あれば楽あり」,「踏まれた草にも花が咲く」,「冬来りなば,春遠からじ」,「待てば海路の日和(ひより)あり」,「明日は明日の風が吹く」,「禍(わざわい)を転じて福となす」,「笑う門に福来る」,「心頭滅却すれば火もまた涼し」などといった諺(ことわざ)もあります。人生に絶望したり,自暴自棄になって人生を粗末に扱ったりしてはいけないのだと思います。宇宙的な規模で考えれば,私たちの人生は一瞬の出来事であり,私たちの悩みなど砂つぶほどの大きさも重さも有していない場末(僻地)の些事(さじ),あるいは,「コップの中の嵐」なのですから,何事も深刻に受け止め過ぎない方がいいのではないでしょうか。たった一度きりの人生です。どのような逆境にあろうとも,どのような不運に見舞われようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,決して人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく(改めて言うまでもなく,人間を信頼するということは,他者のみならず,自分自身をも信頼するということです。),他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,生きていることやこの世の中に生まれてきことを肯定し,心から感謝できるようになるための前向きな努力を,「七転び八起き」,「一念(念力)岩をも通す」,「断じて行えば鬼神もこれを避く」といった気持ちで辛抱強く続けていくべきなのではないでしょうか。私たちは,人間や人生を否定し,不幸になるためにではなく,人間や人生を肯定し,幸せになるためにこそ生きているのであり,この世の中に生まれてきたのですから。

 

 

2 幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の共通の願いであるとともに,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人にとっての義務であり,人生の大前提である。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。

 幸せ(幸せであること)は,私たちすべての人間の共通の願いです。年齢も職業も暮らしている国や時代も関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。実際,この道を選べば必ず幸せになれると分かっているときに,あえてその道を選ばない人がいるでしょうか(あえて不幸になる道を選ぶ人がいるでしょうか。)。道に迷ったり,道を踏み外してしまったりするのは,どの道を選べな幸せになれるのかが分からないからなのではないでしょうか。社会的な成功を収め,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないなどと教え込まれ,それを鵜呑(うの)みにしてしまっているからなのではないでしょうか。

 人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,(3)でも述べたように,不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は(自分が幸せであることに気づけない人間は),すぐに自暴自棄になっては道を踏み外しやすい上に,他者を妬んだり恨んだりしては,他者の足を引っ張ろうとしたり他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分を大切にし,正しい道を歩むことができるのであり(道を踏み外すことなく,踏みとどまることができるのであり),自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。そのように考えるなら,幸せであることは,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人(特に,対人援助・対人サービスの仕事に従事している社会人)にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか。

 幸せを,人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

 

《幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか》

 

(11)自分を人間的に成長・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,人間として自然で真っ当な生き方である。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言ってしまえば,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。

 せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを手に入れることが何かを失うことであるとしても(何かを手に入れるためには,何かを失わなければなりませんが,自分は何を手に入れるために何を失おうとしているのか,ということだけは常に自覚していたいものです。),自分を人間的に成長・向上させ続けることによって,自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送りたい,そして,できることなら,そのことを通じて多少なりとも他者や社会の役に立ちたい,他者や社会に益をもたらしたいと願うのは,人間として自然なことであり,真っ当なことであると思うからです。思い残すことのない充実した有益な人生を送ることができれば,いつか訪れる死をもきっと安らかな気持ちで迎え入れることができるはずです。

 また,この宇宙が,本(もと)を正せば,たった一つのものから分化・発展したものであるとするなら(だからこそ,私たちは,「個」を極めることによって「普遍」に至ることができるのではないでしょうか。),私たちはこの宇宙の,この世の中の一部分なのであり,私たちは世の中と無関係に生きることはできません。特に,私たちは他者の支えや助けがなければ生きていられず,その意味で私たちと他者は一体なのですから(持ちつ持たれつの相互依存関係にあるわけですから),他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施す勿(なか)れ」という心構えや心がけで生きるのが(できる限り他者に害を与えたり迷惑を掛けたりしないようにして生きるのが),人間として自然で真っ当な生き方であると思うからです。

 豊かで安全で便利な社会で暮らしていると,人間は独りでは(孤立無援の状態では)生きられないという事実をついつい忘れてしまいがちですし(私たちは,危機的な状況や困難な状況においては,その必要性もあって,他者を協力相手(味方・仲間)と見なして互いに助け合おうとしますが,安全・平和な状況や物事がある程度自分の思い通りになっている状況においては,他者と協力する(助け合う)必要性が低下することもあり,むしろ,他者を競争相手(敵)と見なして互いに張り合おうとしてしまいがちです。),特に,親の愛情に恵まれずに育った人は,自分は誰にも頼らず,これまで自分独りの力で生きてきたし,これからも自分独りの力で生きていくとの思いが強いかも知れませんが,実際には,目に見える直接的なものも目に見えない間接的なものも含め,数知れぬ他者の支えや助けがあればこそ,私たちはこれまで生きてこられたのだし,これからも生きていけるのです。私たちは, 他者を信じ,他者を頼ることができるからこそ生きていられるのであり,その意味では,生きるとは他者を信頼することである,と言っても過言ではありません。

 

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長・向上させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の成長・向上の可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,何歳になっても自分の成長・向上の可能性を信じ続けることであると思います。そして,何歳になっても,どれだけ経験を積んだとしても,どれだけ大きな社会的成功を手に入れたとしても,決して慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることだと思います(「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」と言うように,成長・向上するにつれてますます謙虚になっていくのが,人間のあるべき姿なのではのがないでしょうか。)。

 自分が成長・向上する可能性を信じ続けることができなければ,自分を人間的に成長・向上させ続けるための,今日を精一杯生きるためのエネルギーは湧いてきません。また,慢心して謙虚さを失えば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分の無知さや未熟さを自覚しての真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度(日々立ち止まって自分を振り返り,自分が犯した失敗や過ちを素直に認めた上で,それらから学ぶべきことを十分に学び(経験を十分に消化して認識にまで高め),学んだことを決して忘れまいとする態度)といったものを失い,そこで成長や向上は止まってしまいます。そして,真摯に学ぶ姿勢などを失えば,「思いて学ばざれば即ち殆(あや)うし」と言うように,独り善がりな傾向ばかりを強めて世の中に適応することが難しくなるとともに(「地獄は善意で敷きつめられている」とも言うように,独り善がりな善意・熱意ほど怖いものはありません。),あとは退歩・退行し(未熟な状態に逆戻りし),堕落する一方となってしまいます(自分に揺るぎない自信や誇りを持ち続けることが,かえって難しくなってしまいます。)。「自慢高慢馬鹿のうち」,「自慢は知恵の行き止まり」などと言うように,自慢をしない人間の評価が上がりがちであるのとは逆に,自慢をする人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は柔軟性や向上心を失いやすく,それ以上の成長・向上が望めないだけではなく,「井の中の蛙(かわず)」や「御山(おやま)の大将」になってしまう危険性が高いとみんなが知っているからなのではないでしょうか。

 なお,「知る者は言わず,言う者は知らず」と言うように,人間は本来,物事を深く知れば知るほど,それに伴って分からないことも増えてくるため,発言は控え目になり,慎重になっていくのが自然であり(これが真の学問(学び)の有り様(よう)なのではないでしょうか。),実際,「深い川は静かに流れる」とも言うように,人生経験を積んだ(人生について深い知識を有する)思慮深い老人は,人生経験の乏しい(人生について浅い知識しか有していない)思慮の浅い若者に比べて悠然としており,口数が少ないのが普通です。しかし,慢心した人間は,物事を浅くしか知らないにもかかわらず,生半可な知識を得て何でも知っているつもりになってしまうので(自分が無知であるという自覚を失ってしまうので),黙っていることが難しくなり,とかく知識をひけらかしたり,何事にも口を差し挟もうとしたりしてしまいがちです(影響力のある人が自己顕示的に知ったか振りをすれば,その軽はずみな言動によって世論や多くの人の行動が一時的にせよ誤った方向に導かれてしまう危険性がありますので,有名人が,少なくとも自分が専門とする分野以外について発言する際には,特に,否定的・批判的な発言をする際には,自分の発言が間違っている可能性があることを十分に認識した上で,慎重の上にも慎重を期して発言する必要があると思います。)。また,慢心し,何でも知っているつもりになってしまうと,知っていることなど本当は高が知れているのに(大量の知識を頭に詰め込みながら,本当に必要な,実り多い幸せな人生を送るための知恵はほとんど身に付けていない,ということもよくある話です。),それ以上知ろうとする熱意や意欲を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増すというのとは逆に,分かりきった退屈なものになってしまいがちです。

 人間は総じて自惚(うぬぼ)れやすく(自分の短所や欠点や弱みにはなかなか目が向きにくく),とかく自分を実際以上に見積もりがちです。その結果,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する(「策士策に溺れる」,「泳ぎ上手は川で死ぬ」,「善く泳ぐ者は溺れ,善く騎(の)る者は堕(お)つ」など),人間は得意になっている時ほど失敗する(「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」,「生兵法は怪我(けが)の基(もと)」,「用心は臆病にせよ」,「百里の道は九十九里を半ばとする」など),災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる(「治にいて乱を忘れず」,「油断は怪我(けが)の基(もと)」,「油断大敵」など)といった現象を生じさせることになります。人間が生きていくためには,特に未熟な若者が劣等感に押し潰されることなく自信を持って前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要なのかも知れませんが,いい気になって油断をすれば,いつか必ず大きな痛手を被ることになります(「自己評価(自分に対する自分の評価)」と「他者評価(自分に対する他者からの評価)」のズレは社会不適応のサインであるとも言われています。)。致命的な失敗や過ちを避けるためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです。短所や欠点や弱みは,それらを根本的に改善することは難しくても,それらを自覚することは比較的容易であり,自覚することによって短所や欠点や弱みに足をすくわれる危険性(自分を過信して痛い目に遭う危険性)は格段に低下すると思うからです。

 自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の狭い経験から学ぶだけでなく,広く他者の経験から学ぶことも重要です。特に,「古典」と呼ばれるような,人類の経験や英知の精髄・結晶とも言える良書を愛読・熟読・精読することは,非常に貴重な学びの機会になり得ます。真理に新しいも古いもなく,むしろ,時の試練に耐えて生き残ったものこそが真理なのでしょうから,「温故知新(故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る)」という精神を忘れないようにしたいものです。なお,「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し」と言うように,学んだことを実生活に取り入れ,日々の生活に役立てられるようにするためには,学んだことを自分の頭で十分に考えて咀嚼(そしゃく)・消化し,血肉化するという作業が欠かせません(学んだことが単なる知識にとどまっていたのでは,それが自分の考え方や生き方や心の持ち方などに影響を与えることはほとんどないと思いますし,それを自分の人生に生かすことも難しいと思います。)。「早い者に上手(じょうず)なし」とも言いますので,読書に際しては,効率重視の速読ではなく,熟読・精読を心がけ,読書の途中で立ち止まって考える時間をこそ大切にしたいものです。また,どのような情報にも簡単にアクセスできる便利な時代になりましたが,より多くの情報にアクセスし,より多くの知識を頭に詰め込む(あるいは,クラウド上にため込む)ことよりは,氾濫する情報の中から自分に本当に必要な情報を(その情報の深意を)見極めた上で,それを生活の知恵としてしっかり体得することにこそ関心を払い,力を注ぎたいものです。

 

(13)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,好きなことを見つけ,そこに見いだした自分なりの目標や理想に近づくための努力を楽しめるということが重要である。

 「好きこそものの上手(じょうず)なれ」と言いますが,私たちは,自分が好きなこと(多くの場合,自分の人生を切り開いていく上において不可欠と感じられること)だからこそ,困難や苦労にめげることなく努力し続けることができるのではないでしょうか。そして,長年にわたって怠ることなく努力し続ければこそ,才能の有無にかかわらず,上達もし(それに見合った成果を残すことも可能になり),人間的に成長(成熟)・向上することもできるのだと思います。このように考えるなら,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ,あるいは,自分がやっていることを本当に好きになり,そこに自分が信じることのできる自分なりの目標や理想を見いだし(自分なりとは言っても,「すべての道はローマに通ず」るわけですが。),その目標や理想に近づくための努力を心から楽しめるということが重要であることが分かります(努力することを楽しいと思えるようになるためには,自分が好きなことに打ち込めることの有り難さに気づけるだけの想像力を持ち,感謝する気持ちを忘れないということも重要であるとは思いますが。)。

 なお,何事も嫌々やったところで意味のある成果はほとんど得られず,周囲に迷惑を掛けるとともに,不満やストレスや疲れがたまるだけですので(まさに「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」です。),仕事など,生きていくためにやらなければならないことについては(もちろん,反社会的なことや自分の信念に反するようなことは別ですが。),嫌々やるのではなく,是非とも楽しみながらやりたいものです。その気になって全力で取り組めば,何事にも何らかの楽しさややりがいが見いだせるものです。そして,楽しさややりがいをさらに極めていくことによって,自分がやっていることがだんだん好きになっていく,ということはよくあることです。

 自分が本当にやりたいと思える好きなことや,自分が信じることのできる自分なりの目標や理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのがより一般的であるとは思います。しかし,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,その場限り,その場しのぎになりやすく,困難や苦労に耐えてまで常に努力し続けるということは難しいのではないでしょうか。自分なりの目標や理想がなければ,自分が目指すべき方向性が定まらず(目的地を定めずに散策することにも,息抜きとしての意味はあるのでしょうが。),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,どこにもたどり着けないまま一生を終えてしまうということにもなりかねませんので(自分の可能性を十分に花開かせることができないまま,人生に大きな悔いを残してしまう可能性が高いので),人生に自分なりの目標や理想を見いだすことは重要であると思います。

 また,掲げる目標や理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません(したがって,目標や理想を掲げるのに遅すぎるということはありません。)。むしろ,簡単に到達できてしまうようなものでは人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,「少年よ大志を抱け」という言葉どおり,目標や理想は高ければ高いほど,遠ければ遠いほどいいとさえ言えます(高い目標や理想を掲げることは,翻って自分の無知さや未熟さを自覚することにもつながりますので,何歳になっても慢心することなく,謙虚さとともに,真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度などを保ち続ける上においても大いに役立つのではないでしょうか。)。もちろん,自らが掲げた目標や理想に縛られて身動きが取れなくなり,かえって成長・向上が止まってしまうというのでは本末転倒ですので,目標や理想は成長・向上に伴ってある程度柔軟に修正可能なものであることが望ましいとは思います。人間が考えることに完璧ということはありません。「過ちを改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」と言いますが,目標や理想についても,いったん掲げた目標や理想にこだわり,固執するのではなく,常に開かれた心で謙虚に見直し,より善い,より人間らしいものに随時修正していくべきであると思いますし,必ずしも目標や理想を狭く一つに限定する必要もないと思います(目標や理想を狭く一つに限定してしまうと,その追及が何らかの理由でできなくなってしまった場合に,人生の指針を失い,あるいは,自分が進むべき道を見失い,途方に暮れてしまうことにもなりかねません。)。

 

(14)自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や世間の評判などにかまけて時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 人間的に成長(成熟)・向上し続けるというのは,自足しつつも(自分の人生に満足しつつも)謙虚さや向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる目標や理想に向かって(より善い,より人間らしい生き方を目指して)自分の歩幅で一歩ずつ怠ることなく前進し続けるということです(自足してしまったら,そこで成長や向上は止まってしまうと考える人もいるようですが,不満のみが行動の原動力であるとは限りません。常に満ち足りた気持ちで暮らしながら,何歳になっても自分が信じる目標や理想に向かって前進し続ける人はいくらでもいるのではないでしょうか。)。他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,先を争ったり,世間から評価されようとして右往左往したり,自分の信念をねじ曲げたりする必要などまったくありません(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け続けた末に自分が本当にやりたいことが分からなくなってしまったり,いつしか自分が信じられなくなり,自分を嫌い,自分を憎み,自分をないがしろにするようになってしまったりしかねません。)。世間の評判や多数者の意見(多数決の結果も含め。)がいつでも正しいとは限りません。特に,否定的な意見は声高に表明されることが多く(対照的に,肯定的な意見は普通の声音で表明されることが多く,あえて表明されないことさえ多いものです。),声高に表明された意見には世間の注目が集まりがちであり,特に,その表明者が大きな影響力を持っている場合には,一時的には多数の賛同者を得ることもありますが,大切なのは意見内容の正しさや真っ当さであり,声の大きさや賛同者の数ではありません。判断や行動を誤らないようにするためにも,くれぐれも声の大きさや賛同者の数などに惑わされたり,踊らされたりしないようにしたいものです。

 「十人十色」と言うように,人間には人それぞれの生き方があります。自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した有益な人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を手に入れたりすることよりも(それらは本来,好きなことに全力で打ち込み,最善を尽くした結果として後から付いてくるものであり,人生の目的とすべきものではないと思います。実際,それらを手に入れたからといって,人生が,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せなものになる保証などどこにもありませんし,むしろ,それらに執着すればするほど,心の目が曇り,本当に大切なものを見失ってしまったり,心の平安を失い,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態にに自分を追い込むことになってしまったりする危険性が高くなります。また,好きなことに打ち込めることはそれ自体が大きな喜びであり,幸せなことのですから,たとえ財産や地位や権力や名声などが後から付いてこなかったとしても,そのことで不平不満を言ったり,他者を恨んだり,運命を呪ったりすべきではなく,むしろ,自分が好きなことに打ち込めることの有り難さに心から感謝すべきであると思います。),自分の欲望に打ち克ち,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されることや,自分が進むべき道を見失うことなく,自分が信じる目標や理想に一歩でも近づくことの方が,よほど重要なのではないでしょうか。

 「勝ち組」,「負け組」などという言葉もありますが,人生の目的は他者と競い合って人が羨むような社会的成功を手に入れることではありません。また,改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと心の豊かさはまったく別のことです(経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,経済的に貧しいことをことさら悲惨なものとして捉え,忌み嫌う傾向は,いったい何に由来するのでしょうか。)。そもそも,生きているということは,それ自体に大きな値打ちがあるのであり(生きているということは一つの奇跡です。この世の中にこれ以上の奇跡があるでしょうか。),他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません。命の目方はみんな同じです。生きていることそれ自体に幸せを感じ,心から感謝できるようになるなら,このことは実感としてよく理解できるはずです。

 他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」,「五十歩百歩」に過ぎませんし,私たちと他者は,互いに支え合い,助け合ってこそ生きていられるのであり,私たちと他者はそもそも一体なのですから,本来は勝ちも負けもないはずです。また,世間の評判など,そのほとんどは,ちょっとしたことですぐに手のひら返しに変わってしまうようないい加減なものです。私たちは自惚(うぬぼ)れやすく,自分は世間から評価され,期待されている,自分がいなくなったら世間が困り,悲しむなどと勘違いしがちですが,実際には,世間は私たちに対して関心さえほとんど持っていませんし,私たちがいなくなっても世間は何も困らずに回っていきます。そのような世間に評価されないからといって落ち込んだり,評価されたからといって有頂天になったりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか。毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要などまったくありません。特に,他者の短所や欠点や弱みを指摘して平気で悪口を言えるということは,「目糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑う」,「青柿が熟柿弔う」などの類いであり,自分の短所や欠点や弱みが見えていないということ,すなわち,心の目が曇っていてあるがままの現実を見ることができていないことや,他者の長所や美点や強みを認めるだけの器量(余裕)がないことの証左なのですから(「名人は人を誹(そし)らず」と言います。),そのような他者の言葉を真に受ける必要などまったくなく,「屁(へ)の河童(かっぱ)」くらいに思っていればいいのではないでしょうか。世間から高く評価されればうれしくなるのが人情ですし,日本人は世間の評判を過度に気にしやすい国民であると言われていますが,評価において重要なことは,評価してくれる人の数ではなく質です。なお,「出る杭(くい)は打たれる」,「大木は風に折られる」,「誉れは謗(そし)りの基(もと)」,「山高ければ谷深し」などと言うように,称賛されたり,脚光を浴びたりすることが多くなればなるほど,誹謗(ひぼう)中傷されたり,罵詈(ばり)雑言を浴びせられたり,足を引っ張られたりすることも多くなるのが世の常ですし(そもそも,人間は誰もが,長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面の両面を備えているわけですから,称賛されるだけなどということはあり得ません。),調子に乗れば後で必ず痛い目を見ることになりますので,心の平安を乱されることなく,自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けたい(そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせるとともに,他者や社会の役にも立ち,思い残すことのない充実した有益な人生を送りたい)と願うのであれば,なるべく目立たないように慎み深く控えめに生きるのが賢明なのかも知れません。それでもなお,世間から評価されるような事態に至ってしまった場合には,他者から羨ましがられたり妬まりたりしないように細心の注意を払いつつ,一段と気を引き締めて慎み深く控えめに生きる必要があるのではないでしょうか。

 「負けるが勝(かち)」,「大賢は大愚に似たり」,「人は見かけによらぬもの」などとも言いますが,人生において他者との勝ち負けや世間の評判など,取るに足りないことです。もちろん,人間が生きていく上において世の中に適応することは欠かせませんし,私たちが,自分が好きなことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせることができるのも,その他のことを他者が負担し,分担してくれているおかげなのですから,他者に対する感謝の気持ちや世間に対する関心を失ってはいけませんし,他者に対する支援や協力は進んで行うべきであると思います。また,自分を過信して独善に陥らないようにするためにも,自分の内外に対して常に心を開き,自分の心の声や他者の言葉(特に耳が痛いと感じられる言葉)に謙虚に耳を傾ける姿勢を保ち続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負にこだわる余り自分が信じる目標や理想に向かって前進することを怠ってしまったり,無責任で気まぐれな世間の評判に振り回された挙げ句,自分が進むべき道を見失ってしまったりしたのでは,自分が生きている意味や,自分がせっかくこの世の中に生まれてきた意味がなくなってしまい,人生に大きな悔いを残すことになりかねません。

 たった一度きりの人生なのですから,心の目を曇らせることなく,心の平安を保ち続けるためにも,他者との勝ち負けや世間の評判などは余り気にせず(「君子危うきに近寄らず」,「逃げるが勝ち」,「三十六計逃げるに如(し)かず」,「和して同ぜず」,「人の噂(うわさ)も七十五日」などとも言います。),勇気を持って自分が本当に納得することのできる(自分自身に恥じることのない)生き方を貫き通すことや,自分が進むべき道を(自分が信じる目標や理想に一歩でも近づけるように)邁進(まいしん)することにこそ気持ちを集中し,限りある大切な時間やエネルギーを使いたいものです。

 

(15)人生が行き詰まってしまった場合には,その原因や責任は自分にあると考え,自分を変えることによって行き詰まりを打開しようとするのが賢明である。

 人生が行き詰まってしまった場合に,それを他者や運命のせいにして恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,他者や運命を自分の思い通りにすることなど絶対にできないからです。

 確かに,人生の行き詰まりには,他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかも知れませんし,行き詰まりを打開すべく努力するよりは,他者を責め立てたり,不運を嘆き悲しんだりしている方が楽かも知れません。しかし,人生はままならないものであるとは言え,人生の主人公はあくまでも自分なのですから,人生の主導権(自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする権利,自分の人生をどのような心構えや心がけで生きるのかを自分で選択する権利)だけは,決して手放すべきではないと思います。

 「天は自ら助くる者を助く」とも言います。人生の行き詰まりを本気で打開したいと願うのであれば,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(少なくとも,自分にもある)と考え(人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にはないと考えている限り,その行き詰まりを自分の努力によって打開しようとはなかなか思えないものです。),自分(自分の考え方や生き方や心の持ち方など)を変えることによって,あるいは,自分がすべきことに最善を尽くし,自分にできることを一つ一つ全力でこなすことによって人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,他者任せ,運命任せにするのではなく,自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な(現実的な)生き方と言えるのではないでしょうか。

 なお,私たちは世の中を構成している一部分なのであり,私たちと世の中は切っても切れない密接な関係にあるわけですから,構成員である私たち一人一人がより善い方向に変わっていくことによって,世の中がより善い方向に変わっていく可能性は十分にあると思います。逆の見方をすれば,世の中に問題があるのは,私たち一人一人が問題を抱えていることの表れとも言えます。

 

 

《どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのか》

 

(16)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にすることなどに加え,まずは自分自身が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも,私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じられるからこそ他者を信じられるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分と折り合えるからこそ他者と折り合えるのであり,自分自身が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にし,自分を信じ,自分を理解し,自分と折り合うとともに,まずは自分自身が幸せであるということが重要であると思います。

 世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者を幸せにしたいと思っている人がいるかも知れませんが,自己犠牲的な行動の背景には何らかの見返り(例えば,相手からの感謝や世間からの称賛など)を求める気持ちが隠されていることが多いものですし,そもそも,自分を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にすることができるでしょうか。その自己犠牲的な行動が,たとえ何ら見返りを求めないものであったとしても,他者の幸せを犠牲することによって幸せになれた人は,そのことを心の底から喜ぶことができるでしょうか(なお,改めて言うまでもなく,子供を愛し,大切にすることは,親にとってはそれ自体が喜びであり,幸せなのですから,子供に対する親の無償の愛情は,自己犠牲的な行動には該当しません。)。

 自分が幸せであることと利己的であることは(他者のために自分の幸せを犠牲にすることと利他的であることは),まったく別のことです。幸せに定員などなく,心の持ち方次第で誰でも幸せになれるのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが自分の幸せを犠牲にする必要などまったくなく,他者の幸せを本気で願うのであれば,自分の幸せを犠牲にしてでも他者を幸せにしたいなどと考えたり,行動したりすべきではないと思います(そのような恩着せがましい考えや行動は,相手にとっては大きな重荷であり,実際は迷惑なだけかも知れません。)。

 

(17)対人関係においては,同じ人間同士として,相手の心の中に住む悪人にではなく,善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも,善人と悪人が同居しています。長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています(両者はコインの裏表のような関係にあります。)。例えば,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。この世の中に,生まれ付きの善人,生まれ付きの悪人などというものは存在しませんし,完全な善人,完全な悪人などというものも存在しません。どのような善人の心の中にも悪人は住んでいますし,どのような悪人の心の中にも善人は住んでいます。善人の真似(まね)をして善人として振る舞い続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をして悪人として振る舞い続けるなら,その人は悪人と呼ばれる,というだけのことです(どちらの生き方が自分にとって得な生き方なのか,幸せな生き方なのかということを,くれぐれも見誤らないようにしたいものですし,どれだけ恵まれない境遇に生まれ育とうとも,身を置こうとも,くれぐれも自暴自棄になって誤った選択をしないようにしたいものです。)。

 しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,「疑心暗鬼を生ず」ということもあり,その他者は悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れてくることができなくなってしまいます。私たちもきっと,周りの人たちからそのような目を向けられ続ければ,善人として振る舞い続けることが難しいのではないでしょうか(善人として振る舞い続けることが馬鹿らしくなり,いっそのこと悪人として振る舞い,自分に対してそのような目を向ける他者に害を与えたり,迷惑を掛けたりしたくなってしまうのではないでしょうか。)。他方,「渡る世間に鬼はなし」とも言うように,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向け,その善人を呼び覚まし,支持し,力付け続けるなら,たとえそれまでは悪人と呼ばれていた人であったとしても,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。他者は,私たちの対応次第で善人にも悪人にもなり得るということです。

 そもそも,「魚心あれば水心」,「子供好きは子供が知る」などとも言うように,こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれるため,互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるため,意味のある対話をすることさえ不可能になってしまう(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。),というのが普通の人間関係なのではないでしょうか(極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,どんなに話をしても分かってもらうことはできません。)。人間関係はお互い様です。片方だけが悪い,片方だけが善い,などということは滅多にありません。

 したがって,悪人ばかりの世の中で暮らしたくないと願うのであれば,また,この世の中で善人として暮らしたいと願うのであれば,「和を以(もっ)て貴しとす」とも言うように,私たちは互いに,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまうと,関係を修復する機会がなくなり,あとから好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がける必要があるのではないでしょうか。相手の心の中に善人がなかなか見つからない場合でも,将来見つかる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く,同じ人間として共感的に向き合い続けることが大切なのではないでしょうか。相手のためにも,自分のためにも。私たちは互いに支え合い,助け合わなければ生きていけないのであり,そもそも私たちと他者は一体なのですから,他者を敵と見なして競い合い,足を引っ張り合いながら生きていくのではなく,他者を味方(仲間)と見なして仲良く助け合い,幸せを分かち合いながら生きていきたいものです。

 なお,失敗や過ちを犯さない人間なんていませんし,人間が犯す失敗や過ちは,そのほとんどが誰もが犯す可能性のあるものばかりです。たとえ他者が失敗や過ちを犯したとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったように声高に批判したり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりすべきではなく,できる限り寛容になり(いい意味で,「清濁併せ呑(の)み」),「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(「祝婚歌」,吉野弘)という姿勢で対応したいものです(他者が何か失敗や過ちを犯したからといって,そのことを不寛容に責め立てるということは,いつか自分も他者から不寛容に責め立てられるということに他なりません。)。他者を軽んじたり,批判・非難したりするのは,多少の憂さ晴らしにはなるでしょうし,自分が偉くなったようで気持ちがいいかも知れませんが,愛情に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし,厳しく批判・非難するだけでは,相手の成長や更生にはつながらず,むしろ,相手を意固地にさせ,素直に反省することをかえって難しくさせてしまったり,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,相手の成長や更生をかえって困難にさせてしまう危険性が高いと思うからです。もちろん,私たちには自分の意見を自由に表明する権利があるわけですが(「沈黙は金」,「口は災いの元」,「病は口から入り,禍(わざわい)は口から出る」,「物言えば唇寒し」などとも言いますが),その権利の中に他者に害を与える権利は含まれていないはずですし,不正確な情報に基づいて一方的に他者を否定したり,批判したり,非難したりすることは,極力控えるべきであると思います。また,自分の意見が受け入れられないからといって,他者を恨んだり,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に危害を加えようとしたり(損害を与えようとしたり)するのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。

 

(18)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生に満足できていることとともに,自分が進むべき道がしっかり定まっているということが重要である。

 私たちは,自分の人生に満足することができず,また,自分が進むべき道がしっかり定まっていないからこそ,他者の暮らし向きや動向が気になるのであり,自分と他者を比較しては他者との勝負にこだわり,他者を競争相手(敵)と見なして張り合ってしまうのではないでしょうか。そして,挙げ句の果てには,他者を妬んでは他者の足を引っ張ったり,自分を不幸であると哀れんでは卑屈になったり(人間は,「隣の芝生は青い」,「隣の花は赤い」,「隣の飯は旨(うま)い」,自分の荷物が一番重い,と感じてしまいがちな生き物です。),自分が不幸であることを他者のせいにしては他者を恨んだり,逆に,他者を見下しては他者を軽んじたり,おごり高ぶっては居丈高になったり(自分の卑屈さを打ち消すかのように),自分の成功を自分だけの手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任(本人だけの責任)であると決め付けて他者を切り捨てたりしてしまうのではないでしょうか。

 したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生が数知れぬ他者の支えや助けによって成り立っているという事実を正しく認識した上で(もちろん,私たちも仕事などを通じて他者の支えや助けになっているはずです。),常に満ち足りた気持ちで暮らせるように自分の心の持ち方を改めること(幸せに対する感度を高め,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになること)とともに,人生の指針を明確化すべく自分が信じることのできる自分なりの目標や理想を人生に見いだし,それらを見失わないように心がけることが重要であると思います。足るを知り,自分の人生に自足できている人や,自分なりの目標や理想に向かって邁進(まいしん)している人にとっては,自分と他者を比較することや,他者との勝負に勝つことなどどうでもいいことであるに違いないと思うからです。

 

(19)不幸な状況にある他者が幸せになるための手助けをすることは,他者の支えや助けがあればこそ生きていられる私たち人間にとっての当然の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分自身をないがしろにするようになってしまった挙げ句,自分は不幸であると思い込むようになり,そのような状況からなかなか抜け出せなくなってしまっている人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて自分が幸せであることに気づけるように,そのような人たちの苦しさやつらさを共感的に理解することに努めるなど,慎み深く自分にできる限りの手助けをしたいものです。

 他者の不幸は決して「対岸の火事」ではありません。私たちは他者の支えや助けがなければ生きていられず,私たちと他者は持ちつ持たれつの,相互依存,あるいは,一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係にあるわけですから,不幸な状況にある他者が幸せになるための手助けをすることは,たまたま幸運に恵まれるなどして,一足先に幸せな人生を送ることができている人間にとっての,当然の務めであると思います。それは決して,優越感を味わいながら,あるいは,感謝されることや称賛されることなどを期待しながら行うようなことではなく(そのような気持ちで行われる手助けは,手助けを行う当人のプライドを高める役には立ちますが,相手のプライドを大きく傷つけ,その相手が自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする意志や勇気(自信や意欲)を,かえってくじいてしまう危険性があります。),当たり前のこととして,あるいは,自分が幸運に恵まれていることでの負い目を感じながら行うべきことであると思います。「情けは人の為(ため)ならず」とも言うように,他者を大切にし,他者を益する行動は,必ず回り回って自分を大切にし,自分を益することにつながってくるはずです(同様に,「人を呪わば穴二つ」とも言うように,他者を粗末に扱い,他者を害する行動は,必ず回り回って自分を粗末に扱い,自分を害することにつながってくるはずです。)。

 

 

3 未来を担う子供たちに対する大人の務めとは

 

《未来を担う子供たちに対する大人の務めとは》

 

(20)自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 「子供に勝る宝なし」,「子供は親の背中を見て育つ」,「子供は大人の鏡」などと言います。未来を担う子供たちに対しては,大人たちの思い通りに支配・管理しようとするのではなく(子供たちには,失敗する権利,すなわち,失敗や過ちから学ぶ権利がありますが,失敗や過ちから様々なことを学べるのは,それらが自分の自由意志や責任に基づいてなされた場合に限ります。他者によって強制された行動によって失敗や過ちを犯したところで,それらを自分の失敗や過ちと受け止めることはできないでしょうし,集団行動による失敗や過ちは,たとえその集団に自分が所属していたとしても,必ずしも自分の自由意志に基づく行動であるとは限らず,また,責任の所在があいまいであるため,十分な学びの機会にはなり得ません。),自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います(そもそも自分にできないことを他者に求めるべきではありませんし,当人が気持ちいいだけの建前的な説教よりも,本音がにじみ出る生き様にこそ,より大きな説得力や感化力があると思います。)。

 大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝する気持ちを忘れることなく足るを知ることや,自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことなどよりも,欲望のままに,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが曇りのない眼や心の平安を保ちつつ,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるように思います。子供たちが実り多い幸せな人生を送ることを本当に願うのであれば,まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,「どのようにすれば幸せになれるのか(私たちはどのようにすれば生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることができるのか)」,「人間はいかに生きるべきなのか(真に人間らしく実り多い人生を送るために私たちはいかに生きるべきなのか)」といったことを真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない非効率的な作業と思われてしまうかも知れませんが。),拝金主義などの偏った価値観を改めた上で(改めて言うまでもなく,お金は,人生の手段であるに過ぎず,目的ではありません。生きていくのにお金は欠かせませんが,私たちは生きるためにお金を稼いでいるのであり,お金を稼ぐために生きているのではありません。「地獄の沙汰も金次第」とは言いますが,拝金主義に染まれば,物事はすべて金銭的価値によって評価されるようになってしまいます。お金を手に入れることが人生の主たる目的になり,私たちは金の亡者になってしまいます。そして,金銭以外の価値を見失えば,質素でつましい暮らしに生きる喜びや幸せを見いだしたり,生きていることそれ自体に価値を見いだしたりすることは困難になってしまいます。「お金で買えない物など何もない」と言う人もいますが,お金では買えない物(私たちの命,その命を守ってくれている宇宙や自然や人体の精妙な仕組みや働き,私たちの人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助け,自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする意志,曇りのない眼や心の平安,感謝する気持ち,人生の真理などなど)こそが,本当は一番大切な物なのではないでしょうか。),より実り多い,より幸せな生き方を本気で模索し,探究する必要があるのではないでしょうか。

 

 

(2021年8月3日更新)