実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(14)自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や他者からの評価などに気を散らして時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 人間的に成長(成熟)・向上し続けるというのは,言い換えれば,自足しつつも謙虚さや向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる大きな目標や高い理想に向かって,あるいは,より善い,より人間らしい生き方を目指して,自分が進むべき道を自分の歩幅で一歩ずつ前進し続けるということです。自足してしまったら,そこで成長や向上は止まってしまうと考える人もいるかも知れませんが,成長や向上の原動力は,不満のみとは限りません。むしろ,不満は,成長や向上を阻害してしまうことの方が多いのではないでしょうか。実際,自分の人生に満足しながらも,すなわち,常に満ち足りた気持ちで幸せな人生を送りながらも,決して謙虚さや向上心を失うことなく,何歳になっても自分が信じる大きな目標や高い理想に向かって前進し続けている人は,たくさんいます。

 他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,功を急いだり,他者から評価されようとして右往左往したり,自分の信念を捻(ね)じ曲げたりする必要など,まったくありません。自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け,自分の心の声に耳を閉ざしたまま,いつしか,現実逃避(現実からの逃避,あるいは,現実への逃避)を図ったり,本当の自分を見失ったりするようになってしまいます。そして,自分が生きている意味や,自分がこの世の中に生まれてきた意味が分からなくなり,やがては,自分を嫌い,自分を憎み,自分を粗末に扱うようになってしまいます。挙げ句の果てには,自暴自棄になって道を踏み外してしまったり,他者に害をもたらすようになってしまったりさえします。

 他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」,「五十歩百歩」であるに過ぎませんし,他者からの評価や多数者の意見(多数決の結果も含め。)がいつでも正しいとは限りません。「聞いて極楽見て地獄」,「見ると聞くとは大違い」などとも言うように,世間の評判などを鵜呑(うの)みにし,自分の目で確かめたり,自分の頭で考えたり,判断したりすることを怠れば,取り返しのつかないほどの失敗や過ちを犯してしまう危険性さえあります。なお,否定的な意見や極端な意見は声高に表明されることが多く(対照的に,肯定的な意見や常識的な意見は普通の声音で表明されることが多く,あえて表明されないことさえ多いものです。),声高に表明された意見には人々の注目が集まりがちであり,特に,その表明者が大きな影響力を持っている場合には,一時的には多くの賛同者を得ることもありますが(多くの人間を長期間にわたって騙(だま)し続けることはできませんが,短期間であればそれも可能です。),改めて言うまでもなく,意見において大切なのは,その意見内容の正しさや真っ当さであり,声の大きさや賛同者の数ではありません。判断や行動を誤らないようにするためにも,くれぐれも声の大きさや賛同者の数などに惑わされたり,踊らされたりしないようにしたいものです。

 「勝ち組」,「負け組」などという言葉もありますが,人生の目的は,他者と競い合って他者が羨むような社会的(世俗的)成功を手に入れることではありません。また,改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと心の豊かさは,まったく別のことです。経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,経済的に貧しいことをことさら悲惨なこと,恥ずべきこととして捉え,忌み嫌う(経済的な豊かさばかりに大きな価値を置き,経済的な豊かさばかりを必死になって追い求める)現代社会の風潮は,いったい何に由来するのでしょうか。このような風潮が,結局は,経済的に貧しい人たちは不幸である(経済的に豊かな人たちは幸せである)という迷信を蔓延(はびこ)らせる結果につながっているように思います。そもそも,(1)でも述べたように,生きているということは,一つの奇跡であり,実際,この世の中に,果たして,これ以上の奇跡があるでしょうか。生きているということは,それ自体に大きな値打ちのある有り難いことなのであり,他者に勝とうが負けようが,他者から評価されようがされまいが,その値打ちに変わりはありません命の目方はみんな同じです。人間は生きているだけで十分に値打ちがあるのであり,生きている人間同士の間に存在価値の差などあり得ません。生きていることそれ自体に幸せを感じ,心から感謝できるようになるなら,このことは実感としてよく理解できるはずです。子供たちに対する大人の在り方としても,大人は子供たちをあるがままに受け入れ,その存在価値を認めてあげればいいのであって,子供たちに勝敗や優劣を競わせたり,自分たちの偏狭な物差しで子供たちを評価したりするようなことは,極力控えるべきなのではないでしょうか。

 「十人十色」,「百人百様」(五味太郎),「人は人,我は我」などとも言うように,人間には人それぞれの個性があり,その個性に合った生き方があります。思い残すことのない充実した有益な人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,他者から評価され,名声を手に入れたりすることよりも,自分の欲望に打ち克(か)ち,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されることや,本当の自分や自分が進むべき道を見失うことなく,自分の信念を貫いたり,自分が信じる大きな目標や高い理想に一歩でも近づけるように前進し続けたりすることの方が,よほど重要なのではないでしょうか。自分が本当にやりたいと思える好きなことに全身全霊で打ち込み,最善を尽くした結果として,思い掛けず財産や地位や権力や名声などを手に入れてしまうようなこともあるかも知れませんが,それはあくまでも結果であり,それらを手に入れることを人生の目標や理想にすべきではないと思います。実際,他者との勝負に勝ち,他者からの評価を得て,財産や地位や権力や名声などを手に入れたからといって,人生が,真に人間らしく実り多い(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せなものになる保証などどこにもありませんし(世の中を見渡せば,よく分かるはずです。),むしろ,それらに執着すればするほど,心の目は曇り,心の平安は乱れ,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込んでしまう危険性は高まります。そもそも,自分が好きなことに打ち込めるのは,それ自体が有り難いことであり,幸せなことなのですから,たとえ財産や地位や権力や名声などが手に入らなかったとしても,そのことで不平不満を募らせたり,他者や社会を恨んだり,恵まれない境遇や不運を呪ったりすべきではなく,むしろ,自分が好きなことに打ち込めることの有り難さに心から感謝すべきなのではないでしょうか。自分が好きなことに打ち込めている人が,財産や地位や権力や名声などまで手に入れようとするのは,欲張り過ぎというものです。「二兎(にと)を追う者は一兎をも得ず」,「欲はふたつでも身はひとつ」(五味太郎)と言うとおりだと思います。両方を追い求めれば,結局は,どちらにも気持ちを集中することができず,どっち付かずになり,どちらも得られずに終わってしまうのが落ちです。

 私たちは,他者と支え合い,助け合ってこそ生きていられるのであり,その意味で,私たちと他者は一体なのですから,本来は勝ちも負けもないはずです。また,他者からの評価など,そのほとんどは,噂(うわさ)の域を出ず,ちょっとしたことですぐに手のひら返しに変わってしまうような無責任でいい加減なものです。さらに言えば,私たちは自惚(うぬぼ)れやすく,自分は周囲の人たちから評価され,期待されている,自分がいなくなったら周囲の人たちが困り,悲しむなどと勘違いしがちですが,実際には,周囲の人たちは,私たちが期待しているほどには私たちに対して関心を持っていませんし(私たちが周囲の人たちに対してそれほど強くは関心を持っていないのと同じように。),私たちがいなくなっても周囲の人たちは何も困らずに生きていきます。そして,地球も回り続けます。そのような人たちに評価されないからといって落ち込んだり,腹を立てたり,評価されたからといって有頂天になったりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか。毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要など,まったくありません。むしろ,私たちは,毀誉褒貶に一喜一憂しないでいられるだけの図太さや鈍感さをこそ身に付けるべきなのではないでしょうか。特に,他者の短所や欠点や弱みを指摘して平気で悪口を言えるということは,「目糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑う」,「青柿が熟柿弔う」などの類いであり,自分の短所や欠点や弱みを自覚できていないことの,すなわち,心の目が曇っていて,あるがままの現実を見ることができていないことの,あるいは,他者の長所や美点や強みを認めるだけの器量(余裕)がないことの証左なのですから(「名人は人を誹(そし)らず」と言います。),そのような人間の言葉を真に受ける必要などまったくなく,「河童(かっぱ)の屁(へ)」(「屁の河童」)くらいに思っていればいいのではないでしょうか。人に褒められれば嬉(うれ)しくなり,逆に,人に貶(けな)されれば腹が立ち,悲しくなるのが人情ですし,日本人は他者からの評価を過度に気にしやすい国民であるとも言われていますが,他者からの評価を気にする際に留意すべきは,評価してくれる他者の数ではなく質です。他者からの評価を気にするとしても,その相手は,自分が本当に尊敬し,敬慕している相手くらいにとどめるべきです。

 「出る杭(くい)は打たれる」,「高い木には風が当たりやすい」,「大木は風に折られる」,「山高ければ谷深し」,「誉れは謗(そし)りの基(もと)」,「褒むるはそしると思え」,「美人はつらいよ」(五味太郎)などとも言うように,称賛されたり,脚光を浴びたりすることが多くなれば多くなるほど,誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)されたり,罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられたり,足を引っ張られたりすることも多くなるのが世の常です。そもそも,人間は誰しも,長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面の両面を兼ね備えているわけですから,称賛されるだけなどということは,絶対にあり得ません。調子に乗れば後で必ず痛い目を見ることになりますので,心の平安を乱されることなく,自分が好きなことに打ち込み,自分が信じる大きな目標や高い理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることにこそ気持ちを集中し,力を注ぎたい,そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせるとともに,多少なりとも他者や社会の役に立ち,思い残すことのない充実した有益な人生を送りたいと望むのであれば,「能ある鷹(たか)は爪を隠す」,「大賢は愚なるが如(ごと)し」,「君子危うきに近寄らず」,「触らぬ神に祟(たた)りなし」などとも言うように,なるべく目立たないように慎み深く控え目に「縁の下の力持ち」として,あるいは,「一隅を照らす」心構えや心がけで生きるのが賢明なのではないでしょうか。実際のところ,世の中は,表舞台で派手に脚光を浴びている人たちによってではなく,舞台裏で人知れず黙々と地道に,しかも楽しみながら努力している無名の人たちによってこそ支えられているのだと思います。それでもなお,他者から評価されるような事態に至ってしまった場合には,「褒める人には油断すな」,「耳の楽しむ時は慎むべし」などと言うとおり,一段と気を引き締めて慎み深く控え目に生きる必要があるのではないでしょうか。

 「負けるが勝(かち)」,「負けて勝つ」,「逃げるが勝ち」,「三十六計逃げるに如(し)かず」,「損して得取れ」,あるいは,「人は見かけによらぬもの」,「大賢は大愚に似たり」,「人の噂(うわさ)も七十五日」,「和して同ぜず」などとも言いますが,人生において他者との勝ち負けや他者からの評価など,取るに足りないことです。もちろん,生きていくためには,世の中に適応する必要がありますし,私たちが,自分が好きなことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせることができるのも,分業という協力体制の下で,その他のことを他者が分担し,負担してくれているお陰なのですから,いついかなるときであっても世の中に対する関心や他者に対する感謝の気持ちを失ってはいけませんし,困っている人や苦しんでいる人に対する支援や協力は進んで行うべきであると思います。また,自分を過信して独善に陥らないようにするためにも,自分の内外に対して常に心を開き,自分の心の声や他者の言葉(特に耳が痛いと感じられる言葉)に謙虚に耳を傾ける姿勢を保ち続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負や他者からの評価を気にする余り,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ損なってしまったり,諦めてしまったり,本当の自分や自分が進むべき道を見失ってしまったり,自分が信じる大きな目標や高い理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることを後回し(先延ばし)にしてしまったりしたとしたら,自分が生きている意味や,自分がこの世の中に生まれてきた意味がなくなってしまい,人生に大きな悔いを残すことになるに違いありません。

 命は儚(はかな)く,しかも,人生は,すなわち,私たちがこの世の中において生きることのできるチャンスは,たった一度きりなのですから,心の目を曇らせることなく,心の平安を保ち続けるためにも,他者との勝ち負けや他者からの評価などに気を散らすことなく,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけることや,そこに見いだした自分なりの大きな目標や高い理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることや,自分の信念や自分が本当に納得することのできる生き方(自分に恥じることのない生き方)を貫き通すことなどにこそ,気持ちを集中し,限りある大切な時間やエネルギーを使いたいものです。