実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(12)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けることであると思います。そして,たとえ何歳になったとしても,たとえどれだけ多くの経験を積んだとしても,たとえどれだけ大きな社会的(世俗的)成功を収めたとしても,決して慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。

 なぜなら,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けることができなければ,自分を人間的に成長・向上させ続けるためのエネルギーが湧いてこないと思うからです。また,謙虚さを失い慢心すれば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分が無知であることや未熟であることを自覚しての,真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度(日々立ち止まって自分を振り返り,自分が犯した失敗や過ちを素直に認めた上で,それらから学ぶべきことを十分に学び(経験を十分に消化し,認識にまで高めるとともに,改めるべき点があれば,それをしっかり改め),学んだことを決して忘れまいとする態度)といったものを失い,そこで人間的な成長や向上が止まってしまうと思うからです。なお,真摯に学ぶ姿勢などを失えば,「思いて学ばざれば即ち殆(あや)うし」とも言うように,独善に陥り,あとは人間的に退歩・退行し,堕落する一方になってしまいますが,「地獄は善意で敷きつめられている」とも言うように,独り善がりな善意ほど怖いものはありません。なぜなら,善意に基づく行動は,たとえそれが間違ったものであったとしても,自分は善いことをしているという意識が強すぎるため,当事者はその間違いになかなか気づくことができず,したがって,ブレーキが掛がりにくく,また,善意に基づくだけに他者も意見を言いにくく,たとえ言ったとしても,なかなか聞き入れてもらえず,結果的に,無反省に何度も繰り返されたり,どこまでもエスカレートしてしまったりする危険性が高いからです(むしろ,悪意に基づく行動であれば,自分は悪いことをしている,自分の行動は間違っているという自覚がどこかにあるため,何らかの形でブレーキが働くものです。)。しかし,改めて言うまでもなく,善意に基づくのであれば何をやっても許されるというものではありません。善意で何かを行う際には,自分が独善に陥っている可能性について徹底的に内省した上で,また,それが間違った行動である可能性があることを十分に認識した上で,自分の行動がどのような結果を招いているかということを注意深く見守り,見届けつつ,できる限り慎重に行うことを心がけたいものです。もちろん,善意に基づいて何かを行うということは素晴らしいことであるとは思いますが,その行動を本当に意味のあるものにするためにも,善意に基づく行動には大きな落とし穴があるということを決して忘れないようにしたいものです。

 「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」,「馬鹿ほど威張り回る」などとも言うように,人間的に成長・向上すればするほど,ますます謙虚になっていくというのが,人間の本来あるべき姿なのではないでしょうか。特に,進歩・発展や変化の激しい現代社会にあっては,まさに「習うは一生」であり,私たちは必然的に常に初心者であらざるを得ないのではないでしょうか。「自慢は知恵の行き止まり」,「自慢高慢馬鹿のうち」,「自慢高慢馬鹿の行き止まり」などとも言うように,自慢をしない人間の評価が上がりがちであるのとは逆に,自慢をする人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は,それ以上の成長・向上が望めないだけではなく,「お山の大将」や「井の中の蛙(かわず)」になってしまう危険性が高いとみんなが知っているからなのだと思います。

 また,「知る者は言わず,言う者は知らず」,「深い川は静かに流れる」などとも言うように,人間は本来,物事を深く知れば知るほど,それに伴って分からないことも増えてくるため,発言が慎重になり,慎み深く控え目になっていくのが自然です(これこそが真の学び(学問)の有り様(よう)であると思います。)。実際,人生経験を積んだ(人生について深い知識を有する)思慮深い老人は,人生経験の乏しい(人生について浅い知識しか有していない)思慮の浅い若者に比べて口数が少なく,物静かであるのが普通です。しかし,慢心した人間は,物事を浅くしか知らないにもかかわらず,生半可な知識を得ては何でも知っているつもりになってしまうので(自分が無知であるという自覚を失ってしまうので),黙っていることが難しく,とかく自分の知識をひけらかしたり,何事にも口を差し挟んだりしてしまいがちです(自分の知識をひけらかしたり,何事にも口を差し挟んだりすれば,その無知さや知ったか振りを馬鹿にされたり,嫌われたりするような機会も増えますが,影響力のある有名人が自己顕示的に知ったか振りをすれば,その軽はずみな言動によって世論や多くの人たちの判断・行動が一時的にせよ誤った方向に導かれてしまう危険性がありますので,有名人が,少なくとも自分が専門とする分野以外について発言する際には,特に,否定的・批判的な発言をする際には,正確な情報に基づいて発言すべきであることは当然のこととして,その発言内容に間違いが含まれている可能性があることを常に念頭に置き,断定口調は控え,慎重の上にも慎重を期して発言する必要があると思います。)。加えて,慢心し,何でも知っているつもりになってしまっている人間は,知っていることなど本当は高が知れているのに(大量の知識を頭に詰め込みながら,実り多い幸せな人生を送るために必要な生活の知恵はほとんど身に付けていない,ということも,よくある話です。),それ以上知ろうとする意欲を失いやすいため,その人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増すというのとは逆で,分かりきった退屈なものになってしまいがちです。

 人間は総じて自惚(うぬぼ)れやすく(自分の短所や欠点や弱みにはなかなか目が向きにくく),とかく自分を過大評価しては実際以上に見積もってしまいがちです。その結果,人間は自分が得意なことでこそ失敗する(「策士策に溺れる」,「泳ぎ上手は川で死ぬ」,「善く泳ぐ者は溺れ,善く騎(の)る者は堕(お)つ」,「得意なことは 控え目に」(中井久夫)など),人間は得意になっている時ほど失敗する(「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」,「最大の危機は勝利の瞬間にある。」(ナポレオン),「高名の中に不覚あり」,「生兵法は怪我(けが)の基(もと)」,「百里の道は九十九里を半ばとする」,「用心は臆病にせよ」,「油断は怪我(けが)の基(もと)」,「油断大敵」,「一病息災」など),災は,天災だけではなく人災も,忘れた頃にやってくる(「治にいて乱を忘れず」,「喉元過ぎれば熱さを忘れる」,「嵐の日の決意は晴天の日には忘れられる」(天声人語)など)といった現象が生じます。人間が生きていくためには,特に無知で未熟な若者が劣等感に押し潰されることなく自信を持って前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要かも知れませんが,いい気になって調子に乗れば,いつか必ず大きな痛手を被ることになります(自己評価(自分に対する自分の評価)と他者評価(自分に対する他者からの評価)のズレは社会不適応のサインであるとも言われています。)。致命的な失敗や過ちを避けるためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは,常に持っていたいものです。自惚れやすさなども含め,人間の短所や欠点や弱みを抜本的に改善することは,文字どおり大変なことですが,それらを自覚することは比較的容易であり,自覚することによって短所や欠点や弱みに足をすくわれる危険性(自分を過信して痛い目に遭う危険性)は格段に低下すると思うからです。

 なお,人間は経験から様々なことを学びますが,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分一人の狭い経験からだけではなく,より広く,他者の経験や他者が自らの経験から学んだことなどからも学ぶ必要があります(人類がここまで進歩・発展できたのも,先人などが,自分の経験のみならず,他者の経験などからも学び続け,その成果を後人が利用しやすい形で蓄積し続けてくれたお陰です。私たちが様々なことを広く深く学べるのも,また,このような豊かで安全で便利な社会で暮らすことができているのも,先人などのお陰なのですから,感謝する気持ちを忘れないようにするとともに,自らが学んだ結果についても,独り占めすることなく,後人などが利用しやすい形で,できる限り社会に還元していきたいものです。)。特に,人類の経験や英知の精髄・結晶とも言える古今東西の古典を愛読・熟読・精読することは,非常に貴重な学びの機会になり得ます。真理に新しいも古いもなく,むしろ,時の試練に耐えて生き残ったものこそが真理なのでしょうから,「温故知新(故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る)」という姿勢を忘れないようにしたいものです。また,「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し」とも言うように,学んだことを実生活に取り入れ,日々の生活に役立てられるようにするためには,学んだことを自分の頭で十分に考えて咀嚼(そしゃく)し,消化し,血肉化するという作業が欠かせません(学んだことが単なる知識にとどまっていたのでは,それらが自分の考え方や生き方や心の持ち方などに影響を与えることはほとんどなく,それらを自分の人生に生かすことは難しいと思います。)。「早い者に上手(じょうず)なし」,「急(せ)いては事を仕損じる」,「あわてる乞食(こじき)は貰(もら)いが少ない」,「急がば回れ」,「近道は遠道」,「ゆっくり行く者は着実に進み,着実に進む者は遠くまで行く」などとも言いますので,読書に際しては,効率重視の速読ではなく,熟読・精読を心がけ,読書の途中で立ち止まって考える時間をこそ大切にしたいものです。また,どの国の,どの時代の,どのような情報にも簡単にアクセスできる便利な時代になりましたが,より多くの情報にアクセスし,より多くの知識を頭に詰め込む,あるいは,クラウド上に貯め込むことにではなく,氾濫する情報の中から自分にとって本当に必要な情報(より善く,より人間らしく生きるために本当に必要な情報)を見つけ出し,絞り込み,それらを単なる知識としてではなく,生活の知恵としてしっかり身に付けることにこそ,関心を払い,力を注ぎたいものです。生活の知恵として体得できる情報には限りがあると思いますし,私たちが,より善く,より人間らしく生きるために,それほど多くの情報は必要ないと思うからです。