実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

「どのようにすれば人間は幸せであることができるのか」・「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか」

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1 どのようにすれば人間は幸せであることができるのか

 

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,幸せであることに気づくことである。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが人間の「デフォルト(基調)」なのに(例えるならば,どんなに天気の悪い日でも雲の上には青空が広がっているのに),そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,幸せを探し求めたり,追い求めたりするまでもなく,人間は誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要などないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などに執着すればするほど,不平不満や被害感を募らせ,恨みつらみの感情をこじらせることになり,幸せであることは困難になってしまうのではないでしょうか。)。幸せに定員などなく,幸せであるために他者と競い合ったり,席を奪い合ったりする必要などないのだと。

 

(2)幸せであることに,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎる。

 きっと誰もが,死ぬ瞬間には,ほとんど無欲に近い状態になり,様々な執着や不平不満などから解放されて心の平安を取り戻し,あるがままの人生を謙虚に受け入れられるようになることで,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれてきたことは,本当に幸せなことだったんだなあ,と気づき,感謝の気持ちを新たにするのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きしたとしても,その人生が幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありません。私たちは,幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきであると思います。

 

(3)道を踏み外すことなく,有益な人生を送るためにも,幸せである必要がある。

 自分は不幸であると錯覚している人間は,「(道を踏み外しても)失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,やけを起こしては自制心を失い,衝動的に道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちです。そして,多くの場合,銃弾で与えるよりも深刻な,取り返しのつかない傷を相手に与える可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を不寛容に(自分のことは棚に上げて)意地悪く非難し,見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満や恨みつらみの感情を多少なりとも晴らし,自分の不幸を一時的にせよ紛らわせようとします(したがって,自分は不幸であると錯覚している人間が増えれば増えるほど,世の中は不寛容なものになり,争い事が増えていきます。)。その結果,自分をますます不幸で惨めな孤立した状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまうわけですが,せっかくなら,そのような無益で有害な人生ではなく,自分自身を大切にしながら正しい道を歩めるような,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

 

《なぜ幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲望を際限なく肥大化させれば,いま自分の目の前にある幸せに気づくとさえ難しくなってしまう。

 私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。人間の欲望には切りがなく,欲望の肥大化を自制しない限り,私たちが満ち足りるということはあり得ません。たとえ多くのものを持っていたとしても,欲望の肥大化を自制できなければ,私たちは満足することができず,持っているものの有り難さも実感できず,不平不満ばかりが募ります(持っているものが多く,簡素で清貧な生活に慣れていないからこそ,欲望の肥大化を自制することができなくなってしまうのかもしれませんが)。にもかかわらず,私たちは,より多くのものを持てば満たされ,幸せになれると勘違いし,欲望を際限なく肥大化させてしまいがちです。この豊かで便利な暖衣飽食の生活を当たり前と思い(人間はどのような状況にも慣れると言うように,どれだけ恵まれた状況にもすぐに慣れてしまいます。),今ここでこうして生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れてしまいがちです。そして,普通の平凡な人生を生きるに値しない無価値な人生であると見なすようなおごったものの見方をするようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着して他者と敵対するようになってしまったり,思い上がった末に人生は何でも自分の思い通りになるはずだと勘違いして人生に対する不平不満ばかりを募らせては被害的になり,人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにして他者を恨み,他者を責め立て,不運を嘆き,運命を呪うようになってしまったりしまいがちです。その結果として,私たちは,心の平安を失い,心の眼を曇らせ,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。

 

(5)いま自分の目の前にある幸せに気づけないのは,世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまったためかもしれない。

 あるいは,恵まれない境遇に生まれ育ち,現在もそのような境遇に置かれるなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者を憎んで他者に対して心を閉ざし,人生を憎んで人生を悲観し,自分自身を憎んで自分自身をないがしろにするようになってしまったために,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れるとともに,心の平安を失い,心の眼を曇らせ,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのかもしれません。

 

 

《どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲望の肥大化を自制し,足るを知ることで,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになる。

 私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。たとえ少しのものしか持っていなくても,欲望の肥大化を自制できるならば,私たちは満足することができ,持っているものの有り難さも実感でき,不平不満を募らせることはありません(持っているものが少なく,簡素で清貧な生活に慣れているからこそ,欲望の肥大化を自制できるのかもしれませんが)。したがって,私たちは,より多くのものを持てば満たされ,幸せになれるという勘違いを正し,欲望の肥大化を自制できるようになる必要があるのではないでしょうか。この豊かで便利な暖衣飽食の生活を当たり前と思うことなく,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ち(「ありがとう」という感謝の言葉の真意)を思い出す必要があるのではないでしょうか。そして,足るを知る(欲張らずに現状に満足できるようになる)ことで,自分は不幸であるという錯覚から目を覚ますとともに,普通の平凡な人生を無価値と見なすようなおごったものの見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになったり,不平不満や被害感を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,ままならない人生を泰然と受け止められるようになったりする必要があるのではないでしょうか。その結果として,私たちは,心の平安や曇りのない眼を取り戻し,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのだと思います。

 

(7)どのような環境・境遇に置かれても常に自足し,幸せであり続けられるように,自分の心持ちを変えることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,大きな成功を手に入れなくても),いつもと変わらない単調な生活を送っていても,あるいは,困難や苦労が付き物のままならない人生に悲しさやつらさを感じていたとしても,ふとした瞬間に幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような環境・境遇に置かれていても,不平不満をほとんど感じることなく,楽しそうに機嫌よく生きている人もいれば,不平不満に凝り固まり,つまらなそうに不機嫌に生きている人もいるように(なお,不機嫌な人は周囲をも不機嫌にしがちであり,機嫌が悪いというのは一種の犯罪行為と言えるのではないでしょうか。),物事の受け止め方を変えることさえできれば,すなわち,強い意志と勇気を持って自分の心持ち(心構えや心がけ)を変えることによって幸せを感じ取る感度を上げることさえできれば(これは自分次第で十分に可能なことです。),自分が置かれている環境・境遇とは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,普通の平凡な人生にさえ無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになり,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか(ただ水を飲んだり,息を吸ったりということにさえ深い幸せを感じられるようになれば,悲しい出来事やつらい出来事の捉え方も変わり,必要以上に深刻・重大に受け止めることはなくなるのではないでしょうか。)。もちろん,環境や境遇が人間に与える影響はけっして小さくありませんが,人間の幸不幸を決めるのは,最終的には環境や境遇ではなく,その環境や境遇をいかに受け止めるかということなのではないでしょうか。そもそも,環境や境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対に不可能なのですから,私たちは,どのような環境・境遇に置かれても常に自足し,幸せであり続けられるように,自分の心持ちを変えることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。

 

(8)生きている今この瞬間をけっしておろそかにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントである。

 また,過去(記憶)や未来(予想)に心を奪われたり,他者との勝ち負けや他者からの評価に気を散らしたり,目先の刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事にせかされたりして上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づき,生きていることそれ自体に幸せを感じるということは難しいのではないでしょうか。人生にまれに訪れる派手で目立つ大きな(意外に底の浅い)幸せには気づけたとしても,人生に隠されている無限の地味で目立たない小さな(意外に底の深い)幸せにはなかなか気づけないのではないでしょうか。したがって,いま自分の目の前にある幸せを見逃すことなく,ありきたりな日常生活や普通の平凡な人生にさえ無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになり,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,様々な雑念から解放され,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや生きている実感を十分に噛(か)み締めながら,心静かに心を込めて今この瞬間を生き,今この瞬間を楽しみ,細部に至るまで丁寧に人生を味わい尽くせるようになる必要があると思います。そして,そのためにも,人生が短く無常なものであることや,命のはかなさを常に念頭に置きながら生活する必要があると思いますし(とはいえ,死を恐れてじたばたする必要はなく,生きている間は人生を思う存分に味わい尽くし,死が訪れた際には従容と死を受け入れ,感謝しながら人生を閉じればよいだけのことだと思います。),今この瞬間に自分が体験していることにしっかり関心を払い,注意を集中できるようになる必要があると思います。人間は現在にしか生きられないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから,生きている今この瞬間をけっしておろそかにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントなのではないでしょうか。

 

 

(9)幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人が,幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面のみならず,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあるのではないでしょうか。例えば,人間の致死率は100パーセントですが,死があるからこそ生きる喜びというものもあるのではないでしょうか。),他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになる必要がある思います(「他人なんか誰も信じられない。」と言っている人の心の中にも,信じることのできる他者と巡り会いたいという気持ちはきっと残されていますし,「生きていたって何も良いことなんかない。」と言っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちがきっと残されていますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と言っている人の心の中にも,自分自身をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されています。)。これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかもしれませんが,できないと思って諦めてしまえば,どんなに簡単なこともできませんし,逆に,できると思って本気で取り組めば,「案ずるより産むが易(やす)し」という結果になることも多いのではないでしょうか。そもそも,生まれつき不幸な人間などいませんし,このようなに生まれ育てば,あるいは,このような環境・境遇に置かれれば必ず不幸になるという環境・境遇などありません。幸不幸を決めるのは,最終的には本人次第であり,自分を変えることさえできれば(人間は何歳になってもきっと変わることができます。),幸せになることは誰にでも可能なことであると私は信じています(でなければ,ほとんどの場合,不幸な人間は死ぬまで不幸のままということになってしまいます。)。人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物ですが,人生に絶望してはいけないのだと思います。どんな逆境に置かれようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こすことなく,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,自分がこの世の中に生まれてきたことを肯定し,感謝できるようになるための前向きな努力を,「一念(一心)岩をも通す」という気持ちで忍耐強く続けていく必要があるのだと思います。

 

 

2 幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか

 

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の究極的な願いであると同時に,有益な人生を送ろうと願う人間にとっての義務でもある。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。幸せであることは,すべての人間の究極的な願いです。性別も職業も経済状態も社会的な立場も知名度も暮らしている国や時代もまったく関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,自分は不幸であると錯覚している人間は,やけを起こしては道を踏み外しやすい上に,自分が不幸なだけではなく,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちですが,そのような無益で有害な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,「(道を踏み外すことによって)今の幸せを失いたくない」という思いもあり,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,幸せであることは,有益な人生を送ることを願う人間にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は以上のとおりです。

 

 

《幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか》

 

(11)私たちは,自分を人間的に成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合って生きるべきである。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。結論を先に言えば,自分を人間的に成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く(自分が幸せであることの負い目を感じつつ)他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても(何を得るために何を失おうとしているのかという自覚は常に必要であると思いますが),自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を人間的に成長させ続け,思い残すことのない充実した人生を送りたいと望むのは,人間として自然なことだと思うからです(思い残すことのない充実した人生を送ることさえできれば,安らかな気持ちで死を迎えることができるのではないでしょうか。)。また,宇宙や生物や人類が,もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは宇宙全体,生物全体,人類全体の一部分なのであり,すなわち,私たちと他者は一体なのであり,私たちは他者と無関係に独りで生きていくことなどできません。安全で豊かな社会で生活していると,人間は独りでは生きていけない,という事実をつい忘れてしまいがちですし,恵まれない境遇に生まれ育った人は,自分は誰にも頼らずに独りで生きてきたとの思いが強いかもしれませんが,実際には,私たちは数知れぬ他者の協力や支援があってこそ今ここでこうして生きていられるのです(なお,人間にとっては,自分のことを大切に思い理解してくれる他者がそばにいてくれることほど有り難く,心強いことはないのではないでしょうか。)。そのことを正しく認識しさえすれば,他者を恨むのではなく他者に感謝し,他者と敵対するのではなく他者と仲良く助け合い,他者の幸せを妬み,他者を不幸に追い込もうとするのではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うような有益な人生を送りたいと願うのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という無害な人生を送りたいと願うのが,人間として自然なことであると思うからです。

 

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長させ続けるためには,自分を見限ることなく,また,けっして慢心しないということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)させ続けることができるのでしょうか。重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分の成長の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,みずみずしい好奇心や感受性,自分の無知さや未熟さを自覚しての真摯に学ぶ姿勢や自省する態度(いったん立ち止まり,日々の体験を振り返り,失敗(過ち)を失敗として素直に認めた上で,失敗などから学ぶべきことを学び,それらを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,独り善がりになるとともに,そこで成長は止まってしまうと思うからです。人間は,何でも分かったつもりになってしまうと,本当は分かっていることなど高が知れているのに,それ以上学ぼうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった退屈で深みのないものになってしまいがちです。加えて,人間は自惚(うぬぼ)れやすく,すぐに危機意識を失ってしまいがちですが,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する,安心している時にこそ怪我(けが)をする,災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,などとも言います。大きな失敗を避けるためにも,せめて人間は自惚れやすいという自覚だけは常に持っていたいものです(人間の弱点や欠点というものは,それを根本的に改善することは困難ですが,自覚することは比較的容易であり,自覚することによって弱点や欠点に足をすくわれる危険性は格段に低下するからです。)。

 

(13)自分を人間的に成長させ続けるためには,好きなことに出会い,そこに理想を見いだし,その理想に近づくための努力を楽しめるということも重要である。

 また,私たちは,好きなことだからこそ困難や苦労にも耐え,怠ることなく励み努めることができるのであり,怠ることなく励み努めればこそ上達もし,人間的に成長することもできるわけですから,自分が本当にやりたい好きなことに出会い,そこに自分が信じることのできる理想を見いだし,その理想に一歩でも近づくための努力を心から楽しいと思えるということも重要であると思います。なお,その際に掲げる理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません。むしろ,簡単に到達できてしまうようなものでは,人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,理想は高ければ高いほどよいとさえ言えます(理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であるとは思いますが)。自分が信じることのできる理想がなければ,自分が進むべき方向が定まらず,ただ彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,自分の可能性を十分に花開かせることができないまま人生を終えることになってしまう可能性が高いので,理想を持つことは重要であると思いますが,自らが掲げた理想に縛られて身動きが取れなくなってしまうのでは意味がありませんので,理想は成長に応じてある程度柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思いますし,必ずしも理想を一つに限定する必要はないのではないかとも思います。

 

(14)人間的に成長するというのは,自分が信じる理想に向かって前進するということであり,他者との勝負や世間の評価などは取るに足りないことである。

 なお,人間的に成長するというのは,自足しつつも常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる理想に向かって一歩一歩着実に前進するということであり,他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,世間から良い評価を得ようとして自分の信念をねじ曲げたり,自分に嘘(うそ)をついたりする必要などまったくありません(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避けた末に自分が本当にやりたいことが分からなくなってしまったり,いつしか逆恨み的に自分自身を憎み,自分自身を蔑み,自分自身をないがしろにするようになってしまったりしかねません。)。そもそも人間は十人十色であり,人それぞれの個性的な生き方があるのであり,人生の目的は他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れることでも,世間から評価され,名声を得ることでもなく(それらは,あくまでも後からついてくる結果であるにすぎません。),強い自制心を持って自分自身に打ち克ち,自分を人間的に成長させ続け,自分の可能性を十分に花開かせることであり,世間の評価に振り回されたり,流行に踊らされたりして自分が進むべき道を見失うことなく,自分が信じる理想に一歩でも近づくことだからです。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎません。生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが(そもそも世間は,私たちが自惚(うぬぼ)れているほどには私たちに関心や期待を持っていませんので,毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂したり,右往左往したりする必要などまったくなく,世間から評価されないからといって落ち込んだり,世間から評価されたからといって自惚(うぬぼ)れたりすることは,けっして賢明なことではないと思います。),その値打ちに何ら変わりはありません(生きていることそれ自体に幸せを感じられるならば,このことは実感として理解できるのではないでしょうか。)。「負けるが勝ち」,「大賢は大愚に似たり」などとも言いますし,他者との勝負や世間の評価など,人生においては取るに足りないことであり,そのようなことにこだわるのは時間やエネルギーの浪費であると思います。もちろん,私たちが,自分が信じる道を歩み続けることができるのは,他者の支援や協力があってこそであり,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失ってはいけませんし,他者に対する支援や協力は進んで行うべきであり,また,独善に陥らないようにするためにも他者の言葉に謙虚に耳を傾ける姿勢を維持し続けることは大切なことであると思いますが。

 

(15)人生が行き詰まった際には,その原因や責任は自分にあると考え,自分を変えることによって人生の行き詰まりを打開しようとすることが賢明である。

 また,人生が行き詰まった際に,その原因や責任を他者や運命に押し付けて恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても人生の行き詰まりを打開することはできません。なぜならば,他者や運命を自分の思い通りに変えることなどで絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に原因や責任がある場合も不運な場合もあるかもしれませんが,人生の行き詰まりを本気で打開したいと望むのであれば,人生はままならないものであるという事実をしっかり認識した上で,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(自分にもある)と考え方を改め,自分を変えることによって人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,自分の力で人生を切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。人生の主人公(責任の主体)はあくまでも自分なのであり,その主導権(責任)は絶対に手放すべきではないと思います。

 

 

《どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのか》

 

(16)自分の幸せを他者と分かち合うためには,まずは自分を大切にし,自分に対して心を開き,自分を理解し,自分が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分に対して正直に心を開けるからこそ他者に対して正直に心を開けるのであり,自分を理解できるからこそ他者を理解できるのであり,自分が幸せであるからこそ自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。したがって,まずは自分を大切にし,自分に対して心を開き(自分に嘘(うそ)をつくことなく自分の心の声にきちんと耳を傾け),自分を理解し,自分が幸せであるということが重要であると思います(幸せに定員などないのですから,自分が幸せであるせいで誰かが不幸になるなどということはあり得ません。)。なお,世の中には,自分を犠牲にしてでも他者のために何かしたいという人がいるかもしれませんが,自分を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にするということができるでしょうか。その他者は,本当にそのような犠牲を喜ぶでしょうか。

 

(17)対人関係においては,相手の心の中に住む悪人(否定的な側面)にではなく,善人(肯定的な側面)にこそ積極的に目を向けるべきである。

 また,誰の心の中にも例外なく善人(肯定的な側面)と悪人(否定的な側面)が同居しています。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのと全く同じです。完全な善人,完全な悪人などというものは,この世の中に存在しませんし,こちらの対応次第で相手は善人にも悪人にもなり得るのではないでしょうか。言い換えれば,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいますし,どんな善人の心の中にも悪人は住んでいるということです。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,その他者は私たちの目の前に悪人として立ち現れざるを得ませんし,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。こちらが相手を信じ,心を開いて友好的に接すれば,相手もこちらを信じ,心を開いて友好的に接してきてくれ,互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが相手を疑い,心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手もこちらを疑い,心を閉ざしたまま敵対的に接してくるため,対話することさえ不可能になってしまう,というのが普通の人間関係なのではないでしょうか。私たちはみな同じ人間なのであり,他者と敵対して生きていくのではなく,もっと寛容になり(たとえ他者を非難することがあったとして,「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちをけっして忘れることなく),それぞれがより善人になれるように互いに仲良く助け合って生きていくべきであり,対人関係においては,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向け,すぐに相手を嫌いになってしまうのではなく,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,その善人を引き出すように,その善人が自分の前に立ち現れてくるように,できる限り相手を好きになれるように他者と対応することが重要であり,善人がなかなか見当たらない場合でも,将来善人になる可能性(潜在的な肯定的側面)は信じるということが重要なのだと思います。

 

(18)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていくためには,他者に対する感謝の気持ちを忘れないということが重要である。

 さらに,他者に対する感謝の気持ちを忘れ,他者を敵と見なして競い合おうとするからこそ,私たちは,他者を妬んだり,自分を哀れんで卑屈になったり,自分の不幸を他者のせいにして他者を恨んで責め立てたり(総じて人間は,隣の芝生を青いと思いがちであり,自分の荷物が一番重いと思いがちです。),逆に,他者を見下したり,おごり高ぶって居丈高になったり,自分の幸せを自分の手柄として他者を軽んじたりするのではないでしょうか。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていくためには,自分の人生や自分の幸せが数知れぬ他者の支援や協力によってこそ成り立っていることを正しく認識し(安全で豊かな社会で生活していると,つい忘れてしまいがちですが,私たちはけっして自分独りで生きていくことはできません。),他者に対する感謝の気持ちを忘れないということが重要であると思います。そもそも人間は,自分の人生に満足できないからこそ他者の人生が羨ましく,妬ましくなるのであって,足るを知り,自足している人間は,自分と他者を比較しようとはしないのではないでしょうか。

 

(19)不幸な状況に置かれている他者が幸せになるための支援や協力をすることは,すでに幸せを手に入れている人間の最低限の務めである。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分自身をないがしろにするようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないという人が少なくありません。特にそのような人たちに対しては,そのような人たちが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて感謝の気持ちを思い出すとともに,いま目の前にある幸せに気づけるように,そして,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていけるように,慎み深く自分にできる支援や協力をしたいものです。「情けは人の為(ため)ならず」とも言いますし,不幸な状況に置かれている人が幸せになるための支援や協力をすることは,数しれぬ他者の支援や協力によってすでに幸せを手に入れている人間の,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間の最低限の務めであると思うからです。

 

(20)自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 なお,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。しかし,大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝して足るを知ることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きることなどよりも,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが心の平安を保ちつつ,真に実り多い,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるような気がします。まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,「どのようにすれば人間は幸せであることができるのか」,「人間はいかに生きるべきなのか」といったことを真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない,回りくどく煩わしいいだけの作業のように感じられるかもしれませんが),その上で自分の価値観や生き方をより健全なものに改める必要があるのではないでしょうか。

 

 

 「実り多い幸せな人生を送るために」という人生の最重要テーマについて,様々な名言をヒントにしながら(名言には多くの真理が含まれていますが,改めて言うまでもなく,真理は誰のものでもなく,みんなのものなのであり,その真理に他者より早く気づいたからといって,その人が独り占めできるものではありません。),私なりに真剣に考え,確信するに至ったところの要点は,現時点においてはおおむね以上のとおりです。今後も私の理解度・成熟度の進展に応じて所要の修正を加えていきたいと思っていますが,多少なりとも皆様の御参考になれば幸いです。

 なお,私がこのように考え,確信するに至った根拠を示してもらいたい,もう少し具体的に説明してもらいたい,と思われる方は,「実り多い幸せな人生に関する名言」,「幸せに関する名言」,「人生に関する名言」及び「幸せに関する覚え書き」を御参照ください。

 

 あなたの人生が,実り多い,生きる喜びに満ちた幸せなものでありますように

 

 

2020年3月7日更新