実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 人生は,すなわち,この世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。せっかくなら,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送りたいものです。そして,できることなら,幸せなだけでなく,真に人間らしく実り多い,自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な人生を送りたいものです。私たちの土台を築いているのは過去の経験,さらに言えば遺伝であり,また,私たちが環境から受ける影響もけっして小さくはありませんが,それらによってすべてが決定されてしまうわけではありません。私たちは過去の経験や遺伝や環境の奴隷ではありません。私たちには自由意志というものがあるのであり,過去を変えることはできませんが,現在や未来は自分の意志によって変えることが可能であり,また,環境を自分の思い通りに変えることはできませんが,自分を変えることは自分の意志次第で可能です。どのような過去を持とうが,どのような環境に置かれようが,人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志さえあるなら,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であると私は信じています。皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように! *なお,このブログの内容のほとんどは,電子書籍(Kindle版『実り多い幸せな人生を送るために』)の形で御覧になることもできます。

「私たちはどのようにすれば幸せであることができるのか」及び「幸せであることを大前提として私たちはいかに生きるべきなのか」

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1 私たちはどのようにすれば幸せであることができるのか

 

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,幸せであることに気づくことであり,幸せであることに気づくことさえできれば,誰でも幸せであることができる。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが私たちの「デフォルト(基調)」なのに(例えるなら,どんなに天気の悪い日でも雲の上には青空が広がっているのに),そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,「山のあなたの空遠く」に幸せを探し求めたり,追い求めたりするまでもなく,誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要などないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという思い込みこそが,それらに対する執着を生じさせ,ひいては私たちを不平不満・自暴自棄・妬みそねみ・恨みつらみ・失意失望といった心理状態に追い込み,私たちが幸せであることを難しくさせているのではないでしょうか。)。幸せに定員などなく,幸せであるために他者を競争相手(敵)と見なして先を争ったり,席を奪い合ったりする必要などないのだと。

 

(2)私たちは幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきである。

 きっと誰もが死ぬ瞬間には,ほとんど無欲,無邪気に近い状態になり,様々な執着や不平不満などから解放され,世の中を曇のない眼であるがままに見られるようになることもあり,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれてきたことは,本当に幸せなことだったんだなあと気づき,感謝する気持ちを新たにするのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きしたとしても,その人生が苦しいだけで幸せを感じられるものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありません。私たちは幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐべきであり,幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきであると思います。

 

(3)道を踏み外したり,人に害をなしたりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送るためにも,幸せである必要がある。

 自分は不幸であると思い込んでる人間は,「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,すぐにやけを起こしては自制心を失い,衝動的に道を踏み外しやすい上に,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者と敵対しては他者の足を引っ張ったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちです(なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらもそれらを乗り越え,幸せな人生を送っている人はたくさんいると思います。)。そして,多くの場合,相手の心を深く傷つけてしまう可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を不寛容に責め立て(自分のことは棚に上げたまま他者に非があると勝手に決め付けて),見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満や恨みつらみの感情などを多少なりとも晴らそうとします(したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,犯罪や非行が増えるとともに,世の中は不寛容でとげとげしいものになり,争い事なども増えていきます。)。その結果,自分をますます不幸で孤立無援な状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまうわけですが,せっかくなら,そのような有害無益な人生ではなく,自分を大切にしながら正しい道を歩めるような,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

 

《私たちはなぜ幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲望の肥大化に歯止めを掛けない限り心は貧しいままであり,不平不満ばかりを募らせては,いま自分の目の前にある幸せに気づくとさえ難しくなってしまう。

 私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。欲望は生の証(あか)しであり,それを満たそうとすることは生物にとって自然なことであると思います。しかし,人間の欲望は苦しみの種でもあり,必ずしも本能に基づくものではないだけに,放っておけば際限なく肥大化する傾向があり,欲望の肥大化に意識的に歯止めを掛けない限り,満ち足りるということが難しくなってしまいます。たとえどんなに多くのものを持っていたとしても,欲望の肥大化に歯止めを掛けることができなければ,私たちは満足することができず(持っているものが多く,贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ節制できないという面もあるかもしれませんが),また,多くのものを持つことでに幸せを感じ取る感度(感受性)が鈍ってしまうため,持っているものの有り難さも実感できず,心は貧しいままです。挙げ句の果てには,より多くのものを持てば心が満たされ,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,ますます多くのものを欲しがるようになってしまいがちです。そして,この過度に豊かで便利な暖衣飽食の生活を当たり前と思い(人間はどのような状況にも慣れると言いますが,どのような恵まれた状況にもすぐに慣れ,それ以上を求めるようになってしまいます。),今ここでこうして生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れてしまいがちです。さらには,普通の平凡な人生を無価値な人生と見なすようなおごったものの見方をするようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着して他者と敵対し,競い合うようになってしまったり(財産などを手に入れるためには,他者と競い合う必要があり,必然的に他者を競争相手(敵)と見なすようになってしまうのではないでしょうか。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に)人生に対する不平不満ばかりを募らせては被害的になり,人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにして他者を恨み,他者を責め立て,不運を嘆き,運命を呪うようになってしまったりしまいがちです。その結果として,私たちは,自分は不幸であると思い込むようになるとともに,心の眼を曇らせて(心の平安を失い)世の中の肯定的な側面が見えなくなってしまうことにより,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか(経済成長というものが,人間の欲望を肥大化させること抜きには不可能なものであるとしたら,私たちは経済成長を手に入れるために自分たちが幸せであることを犠牲にしていることになります。)。

 

(5)恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまったために,幸せであることに気づけなくなっている人たちもいる。

 あるいは,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまい,その後の人生においても,そのつらさを誰かにしっかり受け止めてもらったり,生まれてきてよかったと実感できるような体験を味わったりすることができないまま他者を憎んで他者に対して心を閉ざし,人生を憎んで人生を悲観し,自分自身を憎んで自分自身をないがしろにするようになってしまったために,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れるとともに,幸せであることに気づけなくなっている人たちもいるのではないでしょうか。

 

 

《私たちはどのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲望の肥大化に歯止めを掛けることで心は豊かになり,感謝する気持ちを思い出すとともに生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになる。

 私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。たとえ少しのものしか持っていなくても,欲望の肥大化に歯止めを掛けることができるなら,私たちは満足することができ(持っているものが少なく,簡素な生活に慣れているからこそ節制できるという面もあるかもしれませんが),また,持っているものが少ないことで幸せを感じ取る感度(感受性)が鋭くなるため,持っているものの有り難さも実感でき,心は豊かになります。したがって,私たちは,より多くのものを持てば心が満たされ,幸せになれるという勘違いを正した上で,小欲知足(痩せ我慢をして大きな満足を無理に諦めるということではなく,小さな満足で心が十分に満たされるということ)を心がけ,欲望の肥大化を自分の意思で自制できるようになる必要があるのではないでしょうか(簡素な生活は,他者に強制されればただの貧しい生活かもしれませんが,自由意志に基づいて選択した場合には,心豊かな生活(シンプルライフ)になり得ます。)。そして,この過度に豊かで便利な暖衣飽食の生活を当たり前と思うことなく(節度を持って享受しつつ),今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ち(「ありがとう」という感謝の言葉の真意)を胸いっぱいに思い出す必要があるのではないでしょうか。さらには,普通の平凡な人生を無価値な人生と見なすようなおごったものの見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになったり,不平不満や被害感を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,人生はままならないものであるという事実を謙虚に受け入れられるように(あまり欲張らずに現状で満足できるように)なったりする必要があるのではないでしょうか。その結果として,私たちは,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,曇りのない眼(心の平安)を取り戻して世の中の肯定的な側面にも目を向けられるようになることで,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのだと思います。

 

(7)幸不幸を決めるのは,最終的には私たちの心持ち次第なのであり,心持ちを変え,幸せを感じ取る感度を上げることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,大きな成功を手に入れたり,特別な人生を送ったりしなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,あるいは,困難や苦労が付き物のままならない人生につらさや悲しさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇に置かれていても,いつも満ち足りていて上機嫌な人もいれば,いつも不満を抱えていて不機嫌な人もいるように(なお,不機嫌な人は,不機嫌であることによって周囲から疎んじられやすいだけではなく,周囲をも不機嫌にさせてしまいがちであり,不機嫌であるということは,一種の迷惑行為,極端に言えば犯罪行為と言えるのではないでしょうか。),物事の受け止め方を変えることさえできれば,すなわち,強い意志と勇気を持って欲望の肥大化を自制するなどして自分の心の持ちよう(心構えや心がけ)を変え,そのことによって幸せを感じ取る感度を上げ,日々怠ることなくその感度を研ぎ澄ますことさえできれば(これは自分の意志次第で十分に可能なことです。),自分が生まれ育った境遇や,自分が現在置かれている境遇とは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,普通の平凡な人生にさえ無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになり,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか(ただ水を飲んだり,息を吸ったりというささいな事柄にさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化は自然に抑えられ,また,どのような逆境にあっても押し潰されることはなく,むしろ,逆境を試練として受け止め,前向きに乗り越えていけるのではないでしょうか。)。もちろん,境遇が私たちに与える影響はけっして小さくはありませんが,私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇をいかに受け止めるかということなのではないでしょうか(物事の受け止め方が変わらない限り,境遇がいくら変わっても不幸な状況から抜け出せないということも多いのではないでしょうか。)。そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対に不可能なのですから(境遇に対して私たちにできることは,これ以上悪くならないように,多少なりとも善くなるようにと願い,自分なりに心がけることくらいなのではないでしょうか。),私たちは,どのような境遇に置かれようが,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れることなく,常に自足し,生きていることそれ自体に幸せを感じられるように,自分の心持ちを変えることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。

 

(8)今この瞬間をおろそかにせず,心を込めて今を生き,細部に至るまで丁寧に人生を味わい尽くせるようになるということも,幸せであるための重要なポイントである。

 なお,過去(記憶)や未来(空想)に心を奪われたり,他者との勝負や世間の評価に気を散らしたり,過剰な刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事に忙殺されたりして上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づくことは難しいのではないでしょうか。人生にまれに訪れる派手で盛大な(意外に底の浅い)幸せには気づけたとしても,人生に隠されている無限の地味でささやかな(意外に底の深い)幸せには,なかなか気づけないのではないでしょうか。したがって,いま自分の目の前にある幸せを見逃すことなく,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,様々な雑念から解放され,生きている実感や自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さを心静かに噛(か)み締めながら,心を込めて(マインドフルに)今を生き,今を楽しみ,細部に至るまで丁寧に人生を味わい尽くせるようになる必要があると思います(「神は細部に宿る」と言います。)。そして,そのためにも,世の中が無常であることや,人生が短く,命がはかないものであることを常に念頭に置きながら生活する必要があると思いますし(とはいえ,無常であることを嘆いたり,死を恐れてじたばたしたりする必要はなく,たった一度の人生に悔いが残らないよう,生きている間は一瞬一瞬を大切にしながら人生を味わい尽くし,死が訪れた際には従容と死を受け入れ,感謝しながら人生を閉じればよいだけのことだとは思いますが),呼吸をはじめ,今この瞬間に自分が体験していることに対して常に注意を払い,心を開き,自覚的である必要があると思います(自覚的であることを通じて,私たちは自分というものを深く知ることができ,ひいては人間というものを深く知ることができると同時に,自分の欲望や感情に振り回されることなく,欲望や感情から適度に距離を置き,どのような状況においても心の眼を曇らせることなく,心の平安を保つことも可能になります。)。私たちは現在にしか生きられないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから,人生を長い目で見つつも,生きている今この瞬間をけっしておろそかにしない,ということが,幸せであるための重要なポイントなのではないでしょうか。

 

(9)幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にも広く目を向け,他者や人生や自分自身を肯定できるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人たちが幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面のみならず,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあるのではないでしょうか。例えば,人間の致死率は100パーセントですが,死があるからこそ生きる喜びもあり,生きる喜びがあるからこそ自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちも自然に湧いてくるのではないでしょうか。),他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになる必要がある思います(私たちの心にはバランスを回復させようとする自己治癒的な力が自然に備わっており,「誰も信じられない。」と言っている人の心の中にも,信じることのできる他者と巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって何も良いことなんかない。」と言っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちがきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と言っている人の心の中にも,自分自身をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。要は,そのような気持ちをいかに呼び覚まし,強化するかということだと思います。)。これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかもしれませんが,できないと思って諦めてしまえば,どんなに簡単なこともできません。諦めれば,努力する必要がなくなり,その意味では楽になりますが,それでは何も変わりません。けっして諦めないという決意を固め,本気で取り組めば,「案ずるより産むが易(やす)し」という具合に道が開かれてくることも多いのではないでしょうか(孤立無縁の状況では,そのような覚悟や気力はなかなか生じないかもしれませんが,道を切り開くのはあくまでも本人であり,誰かが本人の代わりに道を切り開くことはできません。)。そもそも生まれつき不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるという境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうのなら,多くの場合,幸せであることは儚(はかな)い夢であり,不幸な人間は死ぬまで不幸なままということになってしまいます。幸不幸を決めるのは,最終的には本人次第であり,自分を変えることさえできれば(他者の支援や協力が必要な場合もあるかもしれませんが,人間は何歳になってもきっと変わることができます。),幸せであることは誰にでも可能なことであると私は信じています。人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物ですが,人生に絶望してはいけないのだと思います(宇宙規模で考えれば,私たちの人生は一瞬の出来事であり,私たちの悩みは砂つぶほどの重量も有してはいないのですから,物事はあまり深刻に受け止め過ぎない方がいいのではないでしょうか。)。たった一度きりの人生です。どのような逆境にあろうと,幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こすことなく,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,自分がこの世の中に生まれてきたことを肯定し,感謝できるようになるための前向きな努力を,「一念(一心)岩をも通す」という気持ちで忍耐強く続けていく必要があるのだと思います。

 

 

2 幸せであることを大前提として私たちはいかに生きるべきなのか

 

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の願いであると同時に,道を踏み外すことなく,有益な人生を送ることを願う人間にとっての義務であるとさえ言える。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。幸せであることは,すべての人間の願いです。性別も職業も暮らしている国や時代も関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,自分は不幸であると思い込んでる人間は,すぐにやけを起こしては道を踏み外しやすい上に,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者と敵対しては他者の足を引っ張ったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであると感じられるからこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,幸せであることは,有益な人生を送ることを願う人間にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか(対人援助・対人サービスの仕事に従事している人間にとっては,まさに義務と言えるのではないでしょうか。)。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

 

《幸せであることを大前提として私たちはいかに生きるべきなのか》

 

(11)自分を人間的に成長・向上させ続けながら,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合って生きるのが,人間としての自然な生き方である。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。結論を先に言えば,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けながら,自分の幸せを慎み深く(自分が幸せであることの負い目を感じつつ)他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても(何を得るために何を失おうとしているのかという自覚は常に必要であると思いますが),自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を人間的に成長・向上させ続け,思い残すことのない充実した人生を送りたいと望むのは,人間として自然なことだと思うからです(思い残すことのない充実した人生を送ることができれば,安らかな気持ちで死を迎えることができるのではないでしょうか。)。また,宇宙や生物や人類が,もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは宇宙全体,生物全体,人類全体の一部分なのであり,すなわち,私たちと世界,私たちと他者は一体なのであり,私たちは他者と無関係に生きていくことはできません。豊かで安全な社会で生活していると,独りでは生きていけないという事実をつい忘れてしまいがちですし,恵まれない境遇に生まれ育った人は,自分は誰にも頼らずに独りで生きてきたとの思いが強いかもしれませんが,実際には目に見えない間接的なものも含め,数知れぬ他者の協力や支援があってこそ私たちは今ここでこうして生きていられるのです(なお,人間にとっては,自分のことを大切に思い,理解してくれる他者がそばにいてくれることほど,有り難く,心強いことはないのではないでしょうか。)。その事実を正しく認識しさえすれば,他者と敵対して他者の幸せを妬み,他者と張り合い,他者を蹴落とすことに血道を上げるのではなく,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れることなく,自分がどのような境遇に置かれようとも,自分の幸せのみならず他者の幸せをも願いつつ,常に他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という心構えで生きるのが,人間としての自然な生き方であると思うからです。

 

《私たちはどのようにすれば自分を人間的に成長・向上させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の成長・向上の可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。重要なのは,自分で自分を見限ることなく,何歳になっても自分の成長・向上の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,何歳になっても初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長・向上の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長・向上させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分の無知さや未熟さを自覚しての真摯に学び,努力する姿勢や自省する態度(いったん立ち止まり,日々の経験をしっかり振り返り,失敗(過ち)を失敗として素直に認めた上で,失敗などから学ぶべきことを十分に学び(経験を認識にまで高めて十分に消化し),それらを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,独り善がりになるとともに,そこで成長・向上は止まってしまうと思うからです(自慢する人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は柔軟性や向上心を失い,それ以上の成長・向上が望めないとみんなが知っているからなのではないでしょうか。)。人間は,何でも分かったつもりになってしまうと,本当は分かっていることなど高が知れているのに,それ以上学ぼうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった退屈で深みのないものになってしまいがちです。加えて,人間は自惚(うぬぼ)れやすく,すぐに危機感を失ってしまいがちですが,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する,安心している時にこそ怪我(けが)をする,災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,などとも言います。人間が生きていくためには,特に若い人が自信を持って前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要なのかもしれませんが,いい気になると,ろくなことはありません。致命的な失敗を避けるためにも,せめて人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです(弱点や欠点は,それを根本的に改善することは難しくても,自覚することは比較的容易であり,自覚することによって弱点や欠点に足をすくわれる危険性は格段に低下すると思うからです。)。なお,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の狭い経験からだけではなく,他者の経験から広く学ぶことも欠かせません。特に,人類の経験の精髄とも言える古典を読むことは,自分を人間的に成長・向上させ,人生をより良く生きる上での重要なヒントになると思います。

 

(13)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,好きなことに巡り合い,そこに理想を見いだし,その理想に近づくための努力を楽しめるということも重要である。

 また,私たちは,好きなこと(自分の人生にとって必要性や実用性が感じられること)だからこそ困難や苦労に耐え,怠ることなく励み努めることができるのであり,怠ることなく励み努めればこそ上達もし,人間的に成長(成熟)・向上することもできるわけですから,自分が本当にやりたい好きなことに巡り合い(あるいは,自分がやっていることを好きになり),そこに自分が信じることのできる理想を見いだし,その理想に近づくための努力を心から楽しいと思えるということも重要であると思います(嫌々やったところで得られるものは何もなく,疲弊するだけですので,やらなければならないことについては,嫌々やるのではなく,そこに何らかの楽しさを見いだし,前向きに取り組むように努力する必要があるのではないでしょうか。)。なお,その際に掲げる理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません。むしろ,簡単に到達できてしまうようなものでは,人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,理想は高ければ高いほどよいとさえ言えます(自分が本当にやりたいことや理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのがより一般的であるとは思いますが,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,なかなか本気にはなれませんし,行き当たりばったりになりやすく,困難や苦労に耐えて常に前進し続けるということは難しいのではないでしょうか。)。自分が信じることのできる理想がなければ,自分が進むべき方向性が定まらず(目的地を定めずに散策することにも,息抜きとしての意味はあるのでしょうが),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,自分の可能性を十分に花開かせることができないまま人生に悔いを残してしまう可能性が高いので,理想を持つことは重要であると思いますが,自らが掲げた理想に縛られて身動きが取れなくなり,かえって成長・向上が止まってしまうというのでは意味がありませんので,理想は成長・向上に応じてある程度柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思いますし,必ずしも理想を一つに限定する必要はないとも思います。

 

(14)自分が信じる理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や世間の評価などを気にして大切な時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 なお,人間的に成長(成熟)・向上するというのは,自足しつつも向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる理想に向かって一歩一歩着実に前進するということです。他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,世間から良い評価を得ようとして右往左往したりする必要など全くありません。十人十色と言うように,人間には人それぞれの生き方があるのであり,自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を得たるすることよりも(それらはあくまでも結果として後からついてくるものであり,それらを手に入れたからといって人生がより良いものになるとは限りません。),強い自制心を持って自分自身に打ち克ち,困難や苦労にめげることなく自分が信じる理想に一歩でも近づくことの方がよっぽど重要なのではないでしょうか。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,人生の目的は他者と競い合って大きな成功を手に入れることではありませんし,改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと人生の豊かさはまったく別のことです(経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,貧乏であることをことさらに悲惨なものとして捉え,忌避する傾向は,いったい何に由来するのでしょうか。)。そもそも生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません(生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるならば,このことは実感としてよく理解できると思います。)。他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎません。また,世間は私たちが思っているほどには私たちを必要としていませんし,私たちに関心や期待を持っていませんので,毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要などありません。世間から悪口を言われたからといって(あるいは,評価されないからといって)落ち込んだり,世間から褒められたからといって自惚(うぬぼ)れたりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか(世間から評価されればうれしくなるのが人情ですが,評価において重要なことは,評価してくれる人の数ではなく質です。なお,褒められることが多くなれば,悪口を言われることも多くなるのがこの世の常ですし,褒められて調子に乗れば,必ず後で痛い目に合うことになりますので,おだてには乗らないよう細心の注意を払う必要があると思います。)。「負けるが勝ち」,「大賢は大愚に似たり」などとも言うように,人生において他者との勝負や世間の評価など,取るに足りないことです。もちろん,社会に適応するということは誰にとっても重要なことですし,私たちがやりたいことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせることができるのも,その他のことを数知れぬ他者が負担・分担してくれているおかげであり,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失ってはいけませんし,他者に対する支援や協力は進んで行うべきであるとは思います。また,独善に陥らないようにするためにも心を常に内外に対して開き,自分の心の声や他者の言葉に謙虚に耳を傾ける姿勢を維持し続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負にこだわるあまり自分が信じる理想に向かって前進することを後回しにしてしまったり,世間の評価に振り回されて,あるいは,流行に踊らされて自分の信念をねじ曲げるようになってしまったりしたのでは(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け続けた末に自分が本当にやりたいことが分からなくなってしまったり,いつしか逆恨み的に自分自身を憎み,自分自身を蔑み,自分自身をないがしろにするようになってしまったりしかねません。),元も子もありません。心の平安を保つためにも,他者との勝負や世間の評価などあまり気にせず,自分がやるべきことに心を集中し,自分が進むべき道を前進し続けることにこそ大切な時間やエネルギーを費やすべきであると思います。

 

(15)人生が行き詰まった際には,その原因や責任は自分にあると考え,自分を変えることによって人生の行き詰まりを打開しようとするのが賢明である。

 また,人生が行き詰まった際に,その原因や責任を他者や運命に押し付けて恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても人生の行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,他者や運命を自分の思い通りにすることなどで絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかもしれませんし,自分で努力するよりは他者を恨んだり,不運を嘆いたりしている方が楽かもしれませんが,人生の主人公はあくまでも自分なのであり,その主導権は絶対に手放すべきではないと思います。「天は自ら助くる者を助く」と言う諺(ことわざ)もありますが,人生の行き詰まりを本気で打開したいと望むのであれば,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(自分にもある)と考え方を改め,自分を変えることによって人生の行き詰まりを打開しようと方が,すなわち,人生を自分の力で主体的に切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。なお,私たちと世界は一体なのですから,世界の一部である私たち一人一人がより良い方向に変わっていくことによって,世界がより良いものに変わっていく可能性は十分にあると思います。

 

《私たちはどのようにすれば慎み深く自分の幸せを他者と分かち合うことができるのか》

 

(16)自分の幸せを他者と分かち合うためには,まずは自分を大切にし,自分に対して心を開き,自分を理解するとともに,自分が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分に対して心を開けるからこそ他者に対して心を開けるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分が幸せであるからこそ自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。したがって,自分の幸せを他者と分かち合うためには,まずは自分を大切にし,自分に対して心を開き(心のバランスを保つためにも,自分に嘘(うそ)をつくことなく自分の心の声にきちんと耳を傾けることが大切です。),自分を理解するとともに,自分が幸せであるということが重要であると思います。なお,世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者の幸せのために何かをしたいという人がいるかもしれませんが,自己犠牲的な行動の背景には,何らかの見返りを求める気持ちが存在している可能性が高いですし,そもそも自分を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にするということができるのでしょうか。たとえ,その自己犠牲的な行動が何ら見返りを求めないものであったとしても(例えば,子供に対する親の犠牲的行動のように),他者を犠牲することによって幸せになれた人は,そのことを心の底から喜ぶことができるでしょうか。幸せに定員などないのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが犠牲になる必要などまったくなく,他者の幸せを本気で願うのであれば,他者の幸せのために自分の幸せを犠牲にすべきではないと思います。

 

(17)対人関係においては,できる限り相手を信じて寛大になり,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになれるように心がけるべきである。

 また,誰の心の中にも例外なく善人(善意,肯定的な側面)と悪人(悪意,否定的な側面)が同居しています。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,癒される機会もなくなってしまいます。この世の中に,完全な善人,完全な悪人などというものは存在しません。どんな善人の心の中にも悪人は住んでいますし,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいます。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,その他者は悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れることができません。他方,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。他者は,私たちの対応次第で善人にも悪人にもなりえます。こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれ,互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるため,対話することさえ不可能になってしまう,というのが普通の人間関係なのではないでしょうか。極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても分かってもらえますが,他方,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,どんなに話をしても分かってもらうことはできません。したがって,対人関係においては,できる限り相手を信じて寛大になり(人間が犯す罪は,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。他者に非があったとしても,憂さ晴らし的に責め立てるべきではないし,たとえ他者の非を責めることがあったとしても,「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちだけは忘れないようにしたいものです。),相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(多くの場合,いったん嫌いになってしまえば,あとから好きになることはほぼ不可能です。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がけることが重要であり,善人がなかなか見当たらない場合でも,将来善人になる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて長い目で見るということが重要であると思います。私たちはみんな同じ人間なのであり,せっかくなら,他者に対して心を閉ざし,他者と敵対して孤立無縁の状況で生きていくよりは,他者に対して心を開き,他者と仲良く助け合いながら生きていきたいものです。

 

(18)自分の幸せを他者と分かち合うためには,他者に対する感謝の気持ちを忘れることなく,足るを知るとともに自分が信じることのできる理想を持つことが重要である。

 さらに,私たちは,自分の人生に満足することができないからこそ,あるいは,自分が進むべき道が明らかでないからこそ,自分と他者を比較したり,他者を競争相手(敵)と見なして競い合ったりしたくなるのであり,挙げ句の果てには,他者の幸せを妬んで足を引っ張ろうとしたり,自分を不幸であると哀れんで卑屈になったり,自分の不幸を他者のせいにしては他者を恨んでしつこく責め立てたり(総じて私たちは,隣の芝生は青い,隣の花は赤い,自分の荷物が一番重いと思いがちです。),逆に,他者を見下して軽んじたり,おごり高ぶって居丈高になったり,自分の成功を自分だけの手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任であると決めて他者を切り捨てたりしてしまうのではないでしょうか。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていくためには,自分の人生や自分の幸せが数知れぬ他者の支援や協力によってこそ成り立っているという事実を正しく認識した上で,他者に対する感謝の気持ちを忘れることなく,足るを知るとともに自分が信じることのできる理想を持つことが重要であると思います。自足し,自分が進べき道が明らかな人にとっては,自分と他者を比較することや,他者との勝負に勝つことなどどうでもいいことであるに違いありません。

 

(19)不幸な状況から抜け出せないでいる人たちが幸せになるための支援や協力をすることは,すでに幸せを手に入れている人間にとっての最低限の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分自身をないがしろにするようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないでいる人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,彼ら,彼女らが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて感謝する気持ちを思い出すとともに,幸せであることに気づけるようになり,また,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていけるように,慎み深く自分にできる限りの支援や協力をしたいものです。「情けは人の為(ため)ならず」とも言いますし(私たちは,世界と一体であり,他者と一体なのですから,他者の幸せを願って行われる支援や協力は,必然的に世界の幸せや私たち自身の幸せにつながっていくはずです。),不幸な状況に置かれている他者が幸せになるための支援や協力をすることは,数知れぬ他者の支援や協力によってすでに幸せを手に入れている人間にとっての,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間にとっての最低限の務めであると思うからです。

 

(20)自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 なお,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。しかし,大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝して足るを知ることや,自分が信じる理想に向かって前進し続けることや,他者と仲良く助け合って生きることなどよりも,他者を競争相手(敵)と見なし,他者と競い合ってより多くの財産を手に入れることなどを高く評価し続ける限り,子供たちが心の平安を保ちつつ,真に実り多い,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるような気がします。まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,「私たちはどのようにすれば幸せであることができるのか」,「私たちはいかに生きるべきなのか」といったことを真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない,回りくどく無意味な作業に感じられるかもしれませんが),その上で拝金主義等の偏った価値観や生き方をより健全なものに改める必要があるのではないでしょうか。

 

 

2020年4月18日更新