慢心し,謙虚に学ぶ姿勢などを失えば,「思いて学ばざれば即ち殆(あや)うし」とも言うように,独善に陥る危険性が高まりますが,「地獄への道は善意で敷き詰められている」とも言うように,独り善がりな善意や熱意ほど怖いものはありません。なぜなら,善意(熱意)に基づく行動は,たとえそれが間違った行動(例えば,体罰)であったとしても,自分は善いことをしている(相手のために体罰を行なっている)という意識が強すぎるため,当事者はその間違いに気づくことが難しく,また,善意に基づく行動であるだけに他者も意見を言いにくく,結果的に,ブレーキがまったく掛からないまま無反省に繰り返されたり,どこまでもエスカレートされてしまったり(体罰の結果,相手に重傷を負わせてしまったり,相手を死に至らせてしまったり)する危険性が高いからです。むしろ,悪意に基づく行動であれば,当事者に自分は悪いことをしている,自分の行動は間違っているという自覚が多少なりともあるため,どこかで何らかのブレーキが働くものです。改めて言うまでもなく,善意に基づく行動であれば何をやっても許されるというものではありません。人助けなど,善意で何かを行う際には,自分が独善に陥っている可能性について徹底的に内省した上で,また,その行動が間違っている可能性があることを十分に認識した上で,自分の行動がどのような結果をもたらしているかということを冷静に見守り,見届けつつ,できる限り慎み深く行うことを心がけたいものです。善意に基づいて何かを行うということは,基本的には素晴らしいことであると思いますが,その行動を本当に意味のあるものにするためにも,善意に基づく行動には大きな落とし穴があるということを,決して忘れないようにしたいものです。