実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(20)自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 「子供は親の背中を見て育つ」,「子は親を写す鏡」,「子供は大人の鏡」,「子供に勝る宝なし」,「子に過ぎたる宝なし」などと言います。未来を担う子供たちに対しては,大人の思い通りに支配・管理しようとするのではなく,自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めなのではないでしょうか。「われのできぬことを ひとにさせるな」(中井久夫)とも言うように,たとえそれが自分の子供であったとしても,自分にできないことを他者に求めるべきではありませんし,している本人が気持ちいいだけの一方的かつ一面的(建前的)な説教などより,本音がにじみ出ざるを得ない生き様にこそ,大きな説得力や感化力(子供たちの心を大きく動かすだけの力)があると思うからです。もちろん,そこから何を学ぶかは,子供たちの自由であり,子供たちの主体性に任せるべきであると思いますが。

 そもそも,相手が誰であろうと,他者を自分の思い通りに支配・管理することなど絶対にできません。他者を自分の思い通りに支配・管理しようとすれば,大きな反発や抵抗を招くだけです。また,子供たちには,失敗する権利,すなわち,自分の失敗から様々なことを学ぶ権利がありますが,失敗から様々なことを学べるのは,その失敗が自分の自由意志や責任に基づいたなされた行動の結果である場合に限られます。他者から強制された行動によって失敗したところで,それを自分の失敗と受け止めることはできないでしょうし,素直に反省することは難しく,したがって,十分な学びの機会にはなり得ません。集団行動に基づく失敗も,たとえその集団に自分が所属していたとしても,必ずしも自分の自由意志に基づく行動であるとは限らず,また,責任の所在があいまいであるため,それを自分の失敗と受け止めることは難しく,十分な学びの機会にすることは困難なのではないでしょうか。

 大人が,幸せや人生について真剣に考えようとせず,自分が今ここでこうして生きていられることに対する感謝の気持ちを忘れることなく,足るを知ることや,自分が信じる大きな目標や高い理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことなどよりも,自分の欲望を肥大化させるがままに,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることなどを高く評価し続ける限り,子供たちが曇りのない眼や心の平安を保ちつつ実り多い幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるように思います。確かに,私たちが暮らしている社会の進歩・発展や生活水準の向上には目を見張るものがありますし,肥大化した私たちの欲望(生きていくのに必要のない物まで手に入れようと欲張る気持ち)が,社会の進歩・発展や生活水準の向上の主たる原動力になってきたことは否めませんが,社会の進歩・発展や生活水準の向上に伴って,自分は幸せであると実感できている人は,本当に増えているのでしょうか。むしろ,近年に至っては,自分は幸せであると実感できている人は減少傾向にあるのではないでしょうか。もし,社会の進歩・発展や生活水準の向上と私たちの幸福度が比例しないのだとしたら,これまでの延長線上に社会が進歩・発展し,生活水準が向上し続けることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。

 社会の進歩・発展や生活水準の向上に伴って私たちの欲望はますます肥大化しますが,当然のことながら,欲望が肥大化すれば,その分だけ満足を得ることは難しくなります。欲望が肥大化すればするだけ,私たちは満足から遠ざかることになり,むしろ,不平不満ばかりを募らせては,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまう危険性は高まります。また,社会の進歩・発展や生活水準の向上ばかりを必死になって追い求め続ければ,心の豊かさや自然環境などを犠牲にしてしまうことにもなりかねません。消極的で後ろ向きな印象を与えるかも知れませんが,私たちは,自分の欲望にブレーキを掛け,自分の欲望を減らし(自分をできるだけ無欲に近づけ),自分の人生に満足できるようになった後にこそ,より善い,より人間らしい社会の実現を目指して努力や工夫を重ねるべきなのではないでしょうか。

 子供たちが実り多い幸せな人生を送ることを本当に願うのであれば,まずは大人が,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,拝金主義などの偏った価値観を改めた上で,目先の損得ばかりを考えるのではなく,「どのようにすれば幸せになれるのか(どのようにすれば生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることができるのか)」,「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか(幸せであることを大前提として,どのように生きれば真に人間らしく実り多い人生を送ることができるのか)」といった人生の根本問題を改めて真剣に考え,より実り多い,より幸せな生き方を本気で模索し,探究する必要があるのではないでしょうか。手遅れになる前に,ここらへんでいったん立ち止まり,誰もが心豊かに実り多い幸せな人生を送ることのできる,しかも,自然環境にかかる負荷の少ない持続可能性の高い社会の実現を目指して必要な軌道修正(私たちの心の持ち方や考え方や生き方などを変えることも含め。)を図る必要があるのではないでしょうか。

 なお,社会における経済格差は,平和が続く限り,とめどなく拡大していく傾向があると言われていますが,これが動かしようのない真実であるとするなら,私は,戦争などが繰り返される経済格差の小さい社会ではなく,経済格差の大きな平和な社会で暮らすことを望みます。この世の中に,命以上に価値のある大切な物はなく,また,たとえどのような経済格差社会に暮らそうとも,心の持ち方次第で,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であると信じているからです。しかし,経済格差の小さい平和な社会というものは,本当に実現し得ないものなのでしょうか。社会の仕組みを変える実質的な決定権を持っている人たち(経済格差社会の上に位置する人たち)が経済格差の是正を本気で望むなら(それを期待することは,なかなか難しいかも知れませんが。),経済格差の小さい平和な社会の実現は,少なくとも,「健康で文化的な最低限度の生活」が保証された平和な社会の実現は,決して不可能ではないと私は信じています。

 改めて言うまでもなく,お金は,あくまでも人生の手段であるに過ぎず,目的ではありません。私たちは生きていくためにお金を稼いでいるのであり,お金を稼ぐために生きているのではありません。確かに,生きていくのにお金は欠かせませんが,「起きて半畳寝て一畳」,「千石万石も米五合」などとも言うように,贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ,人間が生きていくのに(衣食住を確保するのに)必要なお金など,本当は高が知れているのではないでしょうか。それなのに,なぜ私たちは,必要以上のお金を手に入れようとして毎日あくせくしたり,必要以上のお金が手に入らないからといって不平不満ばかりを募らせてしまったりするのでしょうか。お金は,生きていくのに最低限必要な程度の額,できればそれに多少上乗せした程度の額があればそれで十分なのではないでしょうか。

 「地獄の沙汰も金次第」とは言いますが,拝金主義に染まれば,物事はすべて金銭的価値によって評価されるようになってしまいます。お金を手に入れることが人生の主たる目的になり,私たちは金の亡者になってしまいます。お金に目を暗ませて平気で道を踏み外すようにってしまう危険性さえあります。そして,金銭以外の価値を見失えば,普通のつましい生活に生きる喜びや幸せを感じたり,生きていることそれ自体に大きな価値を見いだしたりすることができなくなってしまいます。しかし,普通のつましい生活に生きる喜びや幸せを感じられるようになることの中にこそ,生きていることそれ自体に大きな価値を見いだせるようになることの中にこそ,真の幸せは存在するのではないでしょうか。

 「お金で買えない物など何もない」と言う人もいますが,お金では買えない物,具体的には,私たちの命,その命を守り,私たちが生きることを可能にしてくれている大自然(人体や宇宙を含む。)の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働き,私たちの人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的又は間接的な支えや助け,自分が今ここでこうして生きていられることを感謝する気持ち,自分が信じることのできる自分なりの大きな目標や高い理想,他者との一体感,自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志,曇りのない眼や心の平安,人生の真理などこそが,本当に価値のある大切な物なのではないでしょうか。本当に価値のある大切な物は,決してお金では買えない,という事実に気づけないということは,すなわち,お金では買えない物の有り難さに気づけないということは,不幸以外の何物でもないと思います。