実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(7)人間の幸不幸は心の持ち方次第であり,どのような境遇にあっても幸せであり続けられるように,自分の心持ちを改めることにこそ,時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,人が羨むような社会的成功を手に入れなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,たとえ,ままならない人生に苦しさやつらさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,場合によっては圧倒されるくらいの幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。また,同じような境遇に生まれ育ち,同じような境遇に身を置きながら,その境遇に満足し,感謝する気持ちを忘れることなく,常に満ち足りた気持ちで心安らかに機嫌よく笑顔で暮らしている人もいれば,その境遇に満足できず,感謝する気持ちを忘れ,常に不満を抱えながら,いらいらと不機嫌に仏頂面で暮らしている人もいます(なお,機嫌の良い人が,周囲の人たちから親しまれやすいだけでなく,周囲の人たちをも愉快な気持ちにさせ,機嫌よくさせる傾向があるのとは逆に,不機嫌な人は,周囲の人たちから疎んじられやすいだけでなく,周囲の人たちをも不愉快な気持ちにさせ,不機嫌にさせる傾向があります。その意味で,不機嫌であるということは一種の迷惑行為,社会人としてのマナー違反であると言えます。真っ当な社会人であることを望むのであれば,他者や社会の役に立ち,他者や社会に益をもたらすことをこそ心がけるべきであり,少なくとも,他者や社会に迷惑を掛けたり,害をもたらしたりするようなことは,できる限り控えるべきなのではないでしょうか。)。「物は考えよう」,「心は持ちよう」などとも言いますが,要するに,人間の幸不幸は,心の持ち方(心構えや心がけ)次第ということなのではないでしょうか。

 すなわち,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けるなどして足るを知るとともに,幸せに対する感度を研ぎ澄まし,日々怠ることなく磨き続けることさえできれば(これは自分の意志や努力次第で十分に可能なことです。),どのような境遇に生まれ育ったとしても,どのような境遇に身を置いていたとして,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,ままならない人生にさえ生きる喜びや幸せを無限に見いだせるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。また,ただ普通に呼吸をしたり,歩いたり,食事をしたり,景色を眺めたり,誰かと笑顔を交わしたり,お風呂に入ったり,音楽を聴いたり,本を読んだり,スーパーで買い物をしたり,スマホで調べ物をしたりすることにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化は自然に抑えられるでしょうし,「仁者は憂えず」とも言うように,たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような困難や苦労に見舞われようとも,それらを試練と受け止め(「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」,「おだやかな海は上手(じょうず)な船乗りを作らぬ」,「若い時の苦労は買ってもせよ」などと,逆境や困難・苦労を前向きに受け止め),乗り越えていくことも可能になるのではないでしょうか。

 もちろん,境遇が私たちに与える影響は決して小さくありませんが,たとえどのような逆境にあろうとも,自分は幸せであると心の底から思えるなら,その人は,他者の目にどのように映ろうとも確かに幸せなのですから(逆に,たとえどのような順境にあろうとも,自分は幸せであると思えないなら(自分は不幸であると思うなら),その人は,他者の目にどのように映ろうとも確かに不幸なのですから),私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇をどのように受け止めるのか,その境遇をどのような心持ち(心構えや心がけ)で生きていくのか,ということなのではないでしょうか。実際,物事の受け止め方や心の持ち方が変わらない限り,境遇がいくら改善されても不幸な状況(自分は不幸であるという思い込み)からなかなか抜け出せないということは,よくあることです。

 そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対にできないのですから,私たちは,たとえどのような逆境にあろうとも,ひねくれたりへこたれたりすることなく,常に感謝する気持ちを忘れずに足るを知り,生きていることそれ自体に幸せを感じられるように,幸せに対する感度を高める方向に自分の心の持ち方を改めることにこそ,限りある大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います(私たちは,とかく他者の境遇を羨んだり,妬んだりしがちですが,本来,困難や苦労を伴わない人生などなく,トータルとしては,誰の境遇にもそれほどの大差はないというのが実態なのではないでしょうか。)。境遇を自分の思い通りに変えようとすることは,無駄な骨折り(「骨折り損」)というだけではなく,境遇を自分の思い通りに変えることに時間やエネルギーを浪費すればするだけ,被害者意識や他罰的(他責的)な傾向を強めるとともに,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込み,曇りのない眼や心の平安を失った末に,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまい,自分が幸せであることに気づくことが難しくなってしまうと思うからです。