実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(9)自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にこそ積極的かつ意識的に目を向け,他者や人生や自分を深く愛せるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして,世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになってしまった人が,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面だけではなく,世の中の肯定的な側面にも広く公平に目を向けられるようになる必要があります。そして,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分を大切にできるようになることで,まずは,いま自分の目の前にある幸せに気づいたり,人生に生きる喜びや希望を見いだしたりできるようになる必要があります。

 これは,「言うは易(やす)く行うは難し」であるかも知れませんが,私たちの心には本来,バランスを保ち,バランスを回復させようとする力,偏った不健全な物の見方や考え方や生き方を,よりバランスの取れた健全なものに変えようとする力(「自然治癒力」のようなもの)が備わっているのではないでしょうか(バランスを回復させようとする際に,しばしば振り子のように,反対側に振れ過ぎてしまうことがある点には留意が必要ですが。)。例えば,「誰も信じられない。」と思っている人の心の中にも,信じることのできる他者に巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって,いいことなんか何もない。」と思っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちはきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と思っている人の心の中にも,自分をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。大切なことは,そのような気持ちをいかに呼び覚まし,強化していくか,ということなのではないでしょうか。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも言うように,人間が大きく変化することは,文字どおり大変なことですが,できないと思えば,どんな簡単なこともできません。できないと思って諦めてしまえば,努力しないで済む分,楽にはなりますが,それでは何も変わりません。弱音を吐くことなく,絶対にできると信じて不退転の決意(「背水の陣」)で臨めば,「窮すれば通ず」,「案ずるより産むが易(やす)し」という具合に,道は自然に開かれていく場合が多いのではないでしょうか。他者の支えや助けが必要な場合もあるかも知れませんが,自分の人生を切り開いていくことができるのは自分だけです。

 そもそも,生まれ付き不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるというような境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうなら,多くの人間にとって幸せは儚(はかな)い夢であり,恵まれない境遇にある人間は一生不幸のままということになってしまいます。それでは救いも希望もありません。私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には私たち次第,私たちの心の持ち方次第なのであり,強い意志を持って自分の心の持ち方を変えることさえできれば(人間は何歳になっても変わることができます。世の中は無常なのであり,この世の中に変化しない物など何もないのですから。),たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,幸せになり,幸せであり続けることは,誰にでも可能であると私は信じています。

 また,生物には,危険を回避して生き延びるべく,自分の生存を脅かすような出来事や情報に注意を向けやすく,それらを記憶にとどめやすい傾向があることに加え,世の中の否定的な側面を強調して報道する傾向のあるマスコミの影響もあり,私たちは総じて,世の中の否定的な側面にばかり目を向けてしまいがちですが,改めて言うまでもなく,世の中には肯定的な側面もあります。肯定的な側面に目を向けようとせず,否定的な側面にばかり目を向けるのは,否定的な側面に目を向けようとせず,肯定的な側面にばかり目を向けるのと同じく,余りにも偏狭で不公平な物の見方と言えるのではないでしょうか。人の道に外れた悪行にさえ,「反面教師」という側面はあり,老いることや病気になることや死ぬことにさえ,肯定的な側面はあります(最近では,社会の高齢化が大きな問題になっていますが,長生きは本来慶賀すべきことですし,社会が高齢化するにつれて戦争や犯罪は減少するとも言われています。)。実際,私たちは,老いることによって,自分の欲望にブレーキを掛けられるようになるとともに(足るを知り,様々な執着や不平不満などから解放されるとともに),他者を競争相手(敵)と見なして足を引っ張り合ったり,パイを奪い合ったりするような生き方よりも,他者を協力相手(味方・仲間)と見なして助け合ったり,幸せを分かち合ったりするような生き方の方が大切であるということを,実感として理解できるようになりますし,病気になることによって,健康であることの,あるいは,生きていることの有り難さを痛感し,健康でいられるということだけで,あるいは,生きていられるということだけで幸せを感じられるようになります。すなわち,小欲知足を学ぶことができます。また,人間の致死率は100パーセントであり,私たちはいつか必ず死にますが,よくよく考えてみれば,死があるからこそ生きる喜びがあるのであり,生きる喜びがあるからこそ私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることや自分がこの世の中に生まれてこれたことに対し,感謝したり,幸せを感じたりすることができるのではないでしょうか。もちろん,生きている人間の中に本物の死を経験したことのある人間などいないのですから,死んでからのことは誰にも分かりませんし,死を否定的・悲劇的なものとして捉えること自体が間違っている可能性も否定はできません。

 人生は本来ままならないものなのであり,「一難去ってまた一難」,「前門の虎,後門の狼」,「泣きっ面に蜂」,「踏んだり蹴ったり」,「転べば糞(くそ)の上」などとも言うように,人生に困難や苦労は付き物ですが,「明けない夜」や「やまない雨」はありませんし,「(楽あれば苦あり)苦あれば楽あり」,「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」,「冬来りなば,春遠からじ」,「禍(わざわい)を転じて福となす」,「禍(わざわい)の中に福あり」,「禍福は隣り合わせ」,「禍福は糾(あざな)える縄の如(ごと)し」,「踏まれた草にも花が咲く」,「雨降って地固まる」,「夜明け前が一番暗い」,「待てば海路の日和(ひより)あり」,「明日は明日の風が吹く」,「命あるところ,希望あり」,「笑う門に福来る」などとも言います。人生に絶望したり,自暴自棄になったりしてはいけないのだと思います。宇宙的な規模で考えれば,私たちの一生など,ほんの一瞬の出来事ですし,私たちの悩み事など,砂粒ほどの大きさも重さも有していない場末(僻地)の些事(さじ),あるいは,「コップの中の嵐」なのですから,何事も深刻に考え過ぎない方がいいのではないでしょうか。

 人生は,すなわち,私たちがこの世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,決して人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく(改めて言うまでもなく,人間を信頼するということは,他者のみならず,自分をも信頼するということです。),他者や人生や自分を深く愛せるようになるための,生きていることやこの世の中に生まれてきことを肯定し,心から感謝できるようになるための前向きな努力を,「七転び八起き」,「一念(念力)岩をも通す」,「断じて行えば鬼神もこれを避く」などといった気持ちで辛抱強く続けていくべきであると思います。私たちは,この世の中を否定し,不幸になるためにではなく,この世の中を肯定し,幸せになるためにこそ生きているのであり,この世の中に生まれてきたのですから。この世の中を肯定できればこそ,この世の中で生きていることや,この世の中に生まれてきたことに喜びや幸せを感じることができるのですから,この世の中を肯定できるということは,私たちが幸せであるための必須条件と言えるのではないでしょうか。