実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(17)他者との関係においては,同じ人間同士として,相手の心の中に住む悪人にではなく,善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも,善人と悪人が同居しています。長所と短所,美点と欠点,強みと弱みなど,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています(しかも,長所は見方を変えれば短所にもなり,短所は見方を変えれば長所にもなるように,多くの場合,両者はコインの裏表のような関係にあります。)。例えば,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,場合によっては他者を傷つけたり,場合によっては他者を癒したりするのと,まったく同じです。生まれ付きの善人,生まれ付きの悪人などというものはいませんし,完全な善人,完全な悪人などというものもいません。どのような善人の心の中にも悪人は住んでいますし,「鬼の中にも仏がいる」とも言うように,どのような悪人の心の中にも善人は住んでいます(自分自身を振り返れば簡単に分かることです。)。善人の真似(まね)をして,善人として振る舞い続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をして,悪人として振る舞い続けるなら,その人は悪人と呼ばれるというだけのことです。自分にとって,どちらが本当に得な(幸せな)生き方なのかということを,くれぐれも間違わないようにしたいものです。たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,くれぐれも自暴自棄になって間違った生き方(みすみす自分が損をするような不幸な生き方)を選択をしないようにしたいものです。

 善人と悪人の,どちらが前面に出るかを決めるのは,最終的には本人ですが,周りの人たちが及ぼす影響も決して小さくありません。実際,「人を見たら泥棒と思え」とばかりに,私たちが相手の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,「疑心暗鬼を生ず」ということもあり,その相手は,私たちの目の前に悪人としてしか立ち現れてくることができなくなってしまいます。私たちも,周りの人たちからそのような目を向けられ続ければ,善人として振る舞い続けることは難しいのではないでしょうか。善人として振る舞い続けることが次第に馬鹿らしくなり,いっそのこと悪人として振る舞い,自分に対してそのような目を向けてくる人たちに仕返しをしたくなってしまうのではないでしょうか。逆に,「渡る世間に鬼はなし」ということを信じ,私たちが相手の心の中に住む善人に目を向け続け,その善人を呼び覚ますことができるなら,その相手は,たとえそれまでは悪人として振る舞い続けていたとしても,私たちの目の前に善人として立ち現れてくることが可能になります。「鬼にもなれば仏にもなる」,「猫にもなれば虎にもなる」などとも言うように,他者は,私たちの対応次第で,悪人にも善人にもなり得るということです。

 そもそも,「思えば思われる」,「魚心あれば水心」,「子供好きは子供が知る」などとも言うように,こちらが心を開いて友好的な態度で接すれば,相手も心を開いて友好的な態度で接してきてくれるため,お互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的な態度で接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的な態度で接してくるため,意味のある対話をすることさえ不可能になってしまうというのが,普通の人間関係なのではないでしょうか(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。友好的な関係にある者同士の議論は,心を一つにして物事をより善いものにすることが主たる目的になりやすいため,総じて実り多いものになりがちですが,他方,敵対的な関係にある者同士の議論は,相手を打ち負かすことだけが目的になりやすいため,総じて不毛なものになりがちです。極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,「馬耳東風」,「暖簾(のれん)に腕押し」,「糠(ぬか)に釘(くぎ)」,「豆腐に鎹(かすがい)」,「石に灸(きゅう)」であり,どれだけ話しても分かってもらうことはできません。)。人間関係はお互い様です。どちらか一方だけが悪い,どちらか一方だけが善いなどということは,滅多にありません。

 したがって,悪人だらけの世の中で暮らしたくない,この世の中で善人として暮らしたい,他者(さらに言えば,他国)との間に友好的かつ協調的な関係を築きたいと望むのであれば,「和を以(もっ)て貴しとす」とも言うように,私たちはお互いに,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向け,すぐに相手を嫌いになってしてしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまえば,関係を修復する機会がなくなり,後から好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,できる限り相手を好きになることをこそ心がけるべきなのではないでしょうか。相手の心の中に善人がなかなか見つからない場合でも,将来見つかる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く相手と向き合い続けることが大切なのではないでしょうか。そもそも,私たちは他者の支えや助けがなければ生きていられないのであり,その意味で,私たちと他者は本来一体なのですから,他者を敵と見なして足を引っ張り合い,パイを奪い合いながら生きていくのではなく,他者を味方(仲間)と見なして助け合い,幸せを分かち合いながら生きていきたいものです。

 なお,失敗や過ちを犯さない人間はいませんし,人間が犯す失敗や過ちは,そのほとんどは,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。「水清ければ魚棲(す)まず」,「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如(ごと)し」などとも言います。たとえ他者が失敗や過ちを犯したとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立てたり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりするのではなく,「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(吉野弘)という精神・姿勢を忘れることなく,罪は罪として,その償いはしてもらい,その責任は取ってもらいながらも,相手の人間的な成長や更生の可能性を信じて粘り強く,同じ人間同士として(同じような失敗や過ちを犯す可能性のある者同士として)できる限り共感的かつ寛容な態度で向き合い続けることをこそ心がけたいものです(他者が失敗や過ちを犯したからといって,そのことを不寛容に責め立てるということは,いつか自分も他者から不寛容に責め立てられるということに他なりません。)。なお,他者を軽んじたり,厳しく非難したりすることは,多少の憂さ晴らし(鬱憤晴らし)にはなるでしょうし,自分が偉くなったようで気持ちがいいかも知れませんが,どれだけ正しいことを言ったとしても,愛情や真心に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし(自分の気持ちを相手に伝えたいと本気で思うのであれば,こちらの愛情や真心が相手に伝わるような口の利き方や物の言い方を心がける必要があります。),厳しく非難したり罰したりするだけでは相手の反省や成長・更生を促すことにはつながらず,かえって反発を招き,相手を意固地にさせ,素直に反省することを難しくさせてしまったり,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,人間的な成長や更生を困難にさせてしまったりするだけです(結果的に,相手に同じような失敗や過ちを何度も繰り返させてしまい,それらによる社会的損失を増大させてしまうことになります。)。

 もちろん,私たちには自分の意見を自由に表明する権利があるわけですが(「口は災いの元」,「口は禍(わざわ)いの門」,「舌は禍いの根」,「三寸の舌に五尺の身を亡(ほろ)ぼす」,「病は口から入り,禍(わざわい)は口から出る」,「雉子(きじ)も鳴かずば打たれまい」,「天に唾する」,「物言えば唇寒し」,「物は言いよう」,「物も言いようで角が立つ」,「沈黙は金」,「言わぬは言うにまさる」,「言わぬが花」,「おしゃべりは口のおなら」(五味太郎)などとも言いますが),その権利の中に他者を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)したり,他者に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたりする権利は含まれていないはずですし,心無い一言が,相手の心を取り返しがつかないくらいに深く傷つけてしまう危険性があることを十分に認識した上で,不正確な情報に基づいて一方的に他者を否定したり,非難したりするようなことは,極力控えるべきであると思います。また,改めて言うまでもなく,自分の意見が受け入れられないからといって,他者を恨んだり,他者に危害を加えたりするのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。