実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(9)自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にこそ積極的に目を向け,他者や人生や自分を深く愛せるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして,世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになってしまった人が,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面だけではなく,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要があります(世の中の否定的な側面にばかり焦点を当て,報道する傾向のあるマスコミの影響もあり,私たちは総じて,世の中の否定的な側面にばかり目を向けてしまいがちです(私たち人間に限らず,生き物には,自分の生存を脅かすような出来事に注意を向けやすく,そのような出来事を記憶にとどめやすい傾向がありますが。)。しかし,世の中に否定的な側面があるのは事実ですが,肯定的な側面があるのも事実です。実際,私たちが暮らしている世の中は,人類史上最も豊かで安全で便利な世の中と言えます。肯定的な側面に目を向けようとせず,否定的な側面にばかり目を向けるのは,否定的な側面に目を向けようとせず,肯定的な側面にばかり目を向けるのと同じく,余りにも偏った不公平な物の見方と言えるのではないでしょうか。人の道に外れた悪行にさえ,「反面教師」という側面はあり,老いることや病気になることや死ぬことにさえ,肯定的な側面はあります。実際,私たちは,老いることによって,他者を競争相手(敵)と見なして他者と競い合い,他者とパイを奪い合うような生き方よりも,他者を協力相手(味方・仲間)と見なして他者と助け合い,幸せを分かち合うような生き方の方が大切であるということを,実感として理解できるようになりますし,病気になることによって,健康であることの(あるいは,生きていることの)有り難さを痛感し,健康でいられるだけでも(あるいは,生きていられるだけでも)自分の人生に満足できるようになります。すなわち,小欲知足を学ぶことができます。また,人間の致死率は100パーセントであり,私たちはいつか必ず死にますが,よくよく考えてみれば,死があるからこそ生きる喜びがあるのであり,生きる喜びがあるからこそ私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることや自分がこの世の中に生まれてこれたことに,感謝したり,幸せを感じたりすることができるのではないでしょうか。もちろん,本物の死を体験した人などいないわけですから,死んでからのことは誰にも分かりません。死を否定的・悲劇的なものとして捉えること自体が間違っている可能性も否定はできません。)。そして,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分を大切にできるようになることで,まずは,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになる必要があります。

 これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかも知れませんが,私たちの心には本来,偏った不健全な物の見方や考え方や生き方を,よりバランスの取れた健全なものに変えようとする力(「自然治癒力」のようなもの)が備わっているのではないでしょうか。例えば,「誰も信じられない。」と思っている人の心の中にも,信じることのできる他者に巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって,いいことなんか何もない。」と思っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちはきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と思っている人の心の中にも,自分をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。大切なことは,そのような気持ちをいかに呼び覚まし,強化していくか,ということなのではないでしょうか。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも言うように,人間が大きく変化することは,文字どおり大変なことですが,できないと思えば,どんな簡単なこともできません。できないと思って諦めてしまえば,努力しないで済む分,楽にはなりますが,それでは何も変わりません。弱音を吐くことなく,絶対にできると信じて不退転の決意(「背水の陣」)で臨めば,「窮すれば通ず」,「案ずるより産むが易(やす)し」という具合に,道は自然に開かれていく場合が多いのではないでしょうか。他者の支えや助けが必要な場合もあるかも知れませんが,自分の人生を切り開いていくのはあくまでも自分なのであり,自分の人生を他者に切り開いてもらうことはできません。「下駄(げた)を預ける」ように自分の人生を他者に預けることはできないのです。

 そもそも,生まれ付き不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるというような境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうなら,多くの人間にとって幸せであることは儚(はかな)い夢であり,恵まれない境遇にある人間は一生不幸のままということになってしまいます。それでは救いも希望もありません。私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には私たち次第,私たちの心の持ち方次第なのであり,強い意志と勇気を持って自分の心の持ち方を変えることさえできれば(人間は何歳になっても変わることができます。世の中は無常なのであり,この世の中に変化しない物など何もないのですから。),たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,幸せになり,幸せであり続けることは,誰にでも可能であると私は信じています。

 人生は本来ままならないものなのであり,「一難去ってまた一難」,「泣きっ面に蜂」,「前門の虎,後門の狼」などとも言うように,人生に困難や苦労は付き物ですが,「明けない夜」や「やまない雨」はありませんし,「(楽あれば苦あり)苦あれば楽あり」,「(楽は苦の種)苦は楽の種」,「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」,「冬来りなば,春遠からじ」,「夜明け前が一番暗い」,「禍(わざわい)を転じて福となす」,「禍(わざわい)の中に福あり」,「禍福は隣り合わせ」,「禍福は糾(あざな)える縄の如(ごと)し」,「踏まれた草にも花が咲く」,「雨降って地固まる」,「待てば海路の日和(ひより)あり」,「明日は明日の風が吹く」,「命あるところ,希望あり」,「笑う門に福来る」,「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などとも言います。人生に絶望したり,自暴自棄になったりしてはいけないのだと思います。宇宙的な規模で考えれば,私たちの一生など,ほんの一瞬の出来事ですし,私たちの悩み事など,砂粒ほどの大きさも重さも有していない場末(僻地)の些事(さじ),あるいは,「コップの中の嵐」なのですから,何事も深刻に考え過ぎない方がいいのではないでしょうか。

 人生は,すなわち,私たちがこの世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,決して人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく(改めて言うまでもなく,人間を信頼するということは,他者のみならず,自分をも信頼するということです。),他者や人生や自分を深く愛せるようになるための,生きていることやこの世の中に生まれてきことを肯定し,心から感謝できるようになるための前向きな努力を,「七転び八起き」,「一念(念力)岩をも通す」,「断じて行えば鬼神もこれを避く」といった気持ちで辛抱強く続けていくべきであると思います。私たちは,この世の中を否定し,不幸になるためにではなく,この世の中を肯定し,幸せになるためにこそ生きているのであり,この世の中に生まれてきたのですから。この世の中を肯定できればこそ,この世の中で生きていることや,この世の中に生まれてきたことに喜びや幸せを感じることができるのですから,この世の中を肯定できるということは,私たちが幸せであるための必須条件と言えます。