実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

「どのようにすれば幸せになれるのか」及び「幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか」

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1 どのようにすれば幸せになれるのか

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,自分がすでに十分に幸せであることに気づくことであり,それさえできれば,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても,誰でも幸せになれる。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。

 幸せとは,自分が幸せであることに気づくことである,と言います。私たちは本来,生きているというだけですでに十分に幸せなのに(生きているということは,よくよく考えてみれば,一つの奇跡です。それほどに有り難いことなのですから,私たちは,この世の中に生まれてこれたことや,自分が今ここでこうして生きていられることに対し,心から感謝すべきなのではないでしょうか。),私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに(人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物です。誰の人生であっても,例外はありません。しかし,欲望(執着)やデマに基づく迷信などによって心の目を曇らせさえしなければ,困難や苦労を補って余りあるほどの,あるいは,無限と言ってもいいほどの生きる喜びや幸せを人生に見いだすことが可能なのではないでしょうか。そもそも,困難や苦労があるからこそ生きている実感や手応えも得られるのでしょうし,それらを乗り越えることでこそ達成感や充実感といったものも味わえるのではないでしょうか。),私たちには生まれ付き幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることこそが私たちのデフォルト(基調)なのに(比喩的に言えば,どんなに天気の悪い日でも,雲の上ではいつでも太陽が輝き,青空が広がっているのに),心の目の曇りゆえに,そのことになかなか気づくことができません。しかし,曇りのない眼を取り戻すことによって,そのことに気づき,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに対する感謝の気持ちを忘れさえしなければ,幸運や才能や環境などに恵まれなくても,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても(むしろ,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという勘違い(デマに基づく迷信)こそが,それらに対する執着を生じさせ,私たちの心の目を曇らせ,私たちの心の平安を乱し,ひいては,私たちを,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に追い込み,私たちが幸せになることを難しくさせているのではないでしょうか。),わざわざ「山のあなたの空遠く」に「幸い」を探しに行ったり,目の色を変えて「青い鳥」を探し求めたりしなくても,私たちは誰もが幸せになり,幸せであり続けることができるのではないでしょうか。幸せになるために,他者を競争相手(敵)と見なして足を引っ張り合ったり,パイを奪い合ったりする必要などありませんし,生きていることそれ自体が幸せなのですから,自分から手放さない限り,誰も私たちの幸せを奪い取ることなどできません。幸せとは,そういうものなのではないでしょうか。

 

(2)私たちは幸せであるべきなのであり,幸せになることを人生の最優先課題とし,どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきである。

 きっと死ぬ瞬間には誰もが,様々な執着や不平不満などから解放され,無欲恬淡(むよくてんたん)・春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という心境に達するのではないでしょうか。そして,曇りのない眼や心の平安を取り戻すことによって,生きているということは,ただ生きているというだけで十分に価値のあることだったのだなあ,この世の中に生まれてこれたことは,本当に幸せなことだったのだなあと気づき,感謝する気持ちを新たにするのではないでしょうか(ちなみに,幸せであることと感謝することは,切っても切れない密接な関係にあります。実際,私たちの心は,幸せな時には感謝する気持ちでいっぱいになりますし,何かに対して感謝している時には幸せな気持ちでいっぱいになります。したがって,常に幸せでありたいと願うのであれば,常に何かに対して感謝していればいいということになります。逆に言えば,感謝する気持ちを忘れてしまった人は,幸せになることが難しいということでもあります。)。

 しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生は,すなわち,私たちがこの世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。その人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のために生きているのでしょうか。私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。人生がただ苦しくてつらいだけでのものであったとしたら,たとえどれだけ長生きできたとしても,生きている甲斐(かい)がありません。わざわざこの世の中に生まれてきた甲斐がありません。

 私たちは幸せであるべきなのであり,幸せとは何かということを正しく見極めた上で(この作業をおろそかにし,幸せとは何かということを見誤れば,すべての努力が徒労に終わってしまう危険性があります。),どのようにすれば幸せになり,幸せであり続けることができるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきであると思います。幸せになり,幸せであり続けることをこそ人生の最優先課題とし,幸せになり,幸せであり続けることにこそ最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐべきであると思います。この優先順位を間違えれば,たった一度きりの人生に大きな悔いを残してしまったり,一生を台無しにしてしまったりする危険性さえあるのではないでしょうか。

 

(3)道を踏み外したり,他者に害を与えたりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,私たちは幸せである必要がある。

 不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は(自分が幸せであることに気づけない人間は),「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,すぐに自暴自棄になっては,あるいは,すぐに欲に目を暗ましては,自制心を失い,衝動的に道を踏み外してしまいがちです。また,自分と他者を比較しては,自分より幸せそうに見える他者(社会的(世俗的)に成功しているように見える他者など)を妬んだり,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては勝手に被害感を募らせて他者を恨んだりした挙げ句,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしてしまいがちです(当然のことながら,他者との関係はこじれやすく,他者から疎んじられて孤立してしまいがちです。)。具体的には,心ない発言が相手の心を深く傷つけ,知らぬ間に自分の心をも深く傷つけてしまう可能性があることさえ想像できずに,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して,自分より幸せそうに見える他者を不寛容に責め立て(自分のことは棚に上げたまま,相手に非があると一方的に決め付けては,あるいは,相手の短所や欠点や弱みといった否定的な側面にばかり目を向けては,めくじらを立て,罵詈(ばり)雑言を浴びせ,誹謗(ひぼう)中傷し),見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満,妬みそねみ,恨みつらみといった感情を晴らそうとしがちです。

 したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,世の中は不寛容でとげとげしく殺伐とした暮らしにくい(生きづらい)ものになり,犯罪や争い事なども増えていきます。なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらも,それらを乗り越えて有益無害な人生を送っている人はたくさんいます。

 以上のように,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,自暴自棄になって道を踏み外してしまったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとして他害的な行動に出てしまったりしやすく,その結果,自分をますます不幸な状況に追い込んでしまいがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか(人の道に外れた悪行を繰り返していれば,自分を肯定し続けることが難しくなり,いつしか,自分に嘘(うそ)をつくようになってしまったり,自分を否定し,自分を粗末に扱うようになってしまったりします。)。そのような人生ではなく,常に自分を大切にし,正しい道に踏みとどまりながら(正しい道を歩み続けながら),自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,また,世の中を寛容で和気藹々(わきあいあい)とした温かみや潤いのある暮らしやすいものにするためにも,私たちは幸せである必要があるのではないでしょうか。

 

 

《なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲張り続ける限り,いつまでたっても満足することはできず,不平不満ばかりを募らせては,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまうのが落ちである。

 私たちは,なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 欲望は生の証(あかし)であり,欲望を満たそうとすることは,生き物にとって自然なことですが,人間の欲望は苦しみや悲しみの種でもあります。「欲に頂(いただき)なし」,「欲に底なし」,「持てば持つほど欲が出る」,「千石取れば万石望む」などとも言うように,人間の欲望は,必ずしも本能に基づくものではないだけに,限りがなく,放って置けばとどまる所を知らず,どこまでも肥大化していくからです(肥大化を奨励したり,そそのかしたりするするような働き掛けがあれば,なおさらです。)。したがって,私たちは,たとえそれが世の中の風潮に逆らうことであったとしても,自分の欲望に強い意志を持って意識的にブレーキを掛けない限り,いつまでたっても満足することができません(一時的には,あるいは,多少は満足できたとしても。)。たとえどれだけ多くの物を持っていたとしても,欲張り続ける限り(自分の欲望に必要以上に執着し続ける限り),心が満ち足りるということはありません(持っている物が多く,美衣美食の華美で贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ,自分の欲望を抑えられないという面もあるのかも知れませんが。)。常に不満を抱えたまま,死ぬ瞬間まで,自分の欲望に追い立てられ,振り回される形で,より多くの物を(必要以上の物まで)追い求め続けることになってしまいますし(より多くの物を手に入れれば,心が満ち足り,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,常に無い物ねだりをするようになってしまいますし),常に自分が持っている物を失うことに対する不安を抱えることにもなり,心は貧しいままです。

 挙げ句の果てには,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送る中で,物事が自分の思い通りになることを当たり前と思って感謝する気持ちを忘れ,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致すことができなくなってしまったり,自分の欲望を充足させることを人生の最優先事項とし,その他のことをないがしろにするようになってしまったり,欲に目が暗み,本当に大切なものが見えなくなってしまったり,場合によっては,欲に目を暗ませるがままに道を踏み外してしまったりさえします。

 また,普通の平凡な人生では満足することができず,そのような人生を,無価値な,あるいは,価値の低い人生と見下すようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着しては他者と敵対するようになってしまったり(私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,目の色を変えて財産や地位や権力や名声などを手に入れようとするのでしょうが,それらを手に入れるためには,必死になって他者と競い合う必要があり,必然的に他者を協力相手(味方・仲間)ではなく,競争相手(敵)と見なすようになってしまいます。なお,規律や秩序を保ちつつ安全で平和な世の中を築き,維持していく上において権力は欠かせませんが,権力は腐敗しやすく,権力者が,その権力を私物化し,自分の欲望を満たすために乱用すれば,かえって規律や秩序は乱れ,世の中は危険で争い事に満ちた生活の場になってしまいます。したがって,権力を負託する相手の選択については,くれぐれも間違わないようにしたいものです。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に),結局は,ままならない人生に対する不平不満ばかりを募らせるようになってしまったり(人生はままならないものであるという事実をあるがままに受け入れられない限り,人生は常に期待を裏切られては失望するだけのものになってしまう可能性があります。),人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにしては,他者を恨み,他者を責め立て,運命を呪い,不運を嘆き悲しむような,被害者意識の強い他罰的(他責的)な人間になってしまったりさえします。

 私たちは,自分の欲望の肥大化を放置したまま(自分の欲望にブレーキを掛けることなく)欲張り続けるからこそ,常に不満を抱えたまま,いつしか,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまい(自分が幸せであることに気づけなくなってしまい),また,心の目を曇らせ,心の平安を失い,世の中の肯定的な側面が見えなくなってしまうことにより,人生に生きる喜びや幸せを見いだすことが難しくなり,ひいては,自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。

 

(5)恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになってしまったために,自分が幸せであることに気づけなくなっている人もいる。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになってしまい,また,その後の人生においても,その苦しさやつらさを誰かにしっかり受け止めてもらったり,生きていてよかった,この世の中に生まれてきてよかったと実感できるような体験を味わったりすることができないまま,他者を憎んでは他者に対して心を閉ざし,人生を憎んでは人生を悲観し,自分を憎んでは自分を粗末に扱うようになってしまった人たちがいます。そのような人たちは,世の中の肯定的な側面に目を向けることができず,必然的に,人生に生きる喜びや幸せを見いだしたり,いま自分の目の前にある幸せに気づいたり,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致し,心から感謝したりすることができないため,自分は不幸であると思い込むとともに,自分が幸せであることに気づけなくなってしまいがちです。

 

 

《どのようにすれば自分が幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲張ることをやめれば,満足することが可能になり,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,自分が幸せであることに気づけるようになる。

 私たちは,どのようにすれば自分が幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。

 「足るを知る者は富む」とも言うように,自分の欲望にブレーキを掛けることさえできれば,たとえ必要最小限の物しか持っていなかったとしても,私たちは自分の人生に満足することが可能になります(持っている物が少なく,粗衣粗食の質素でつましい暮らしに慣れているからこそ,自分の欲望を抑えやすいという面もあるのかも知れませんが。)。欲望の奴隷になり,より多くの物を追い求め続けることもなくなりますし(より多くの物を手に入れなければ,心は満たされず,幸せにはなれないと勘違いし,常に無い物ねだりをするようなこともなくなりますし),自分が持っている物を失うことに対する不安からも解放され,心はかえって豊かになります。

 したがって,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,常に小欲知足(痩せ我慢をして大きな満足を諦めるということではなく,自分が持っている物だけで,自分に与えられている物だけで何ら不満を感じることなく満足できるようになるということ)を心がけ,たとえ必要最小限の物しか持っていなかったとしても満足できるように,自分の欲望に自分の意志でブレーキを掛けられようになる必要があるのではないでしょうか(質素でつましい暮らしは,その価値を得心できないまま他者に強制されれば,ただの貧しくて惨めな生活かも知れませんが,足るを知る人が,その価値を十分に納得した上で自分の自由意志で選択するなら,むしろ,自分が持っている物の豊かさや,自分がそれらの物を持っていることの有り難さなどを実感しやすい,心豊かで味わい深いシンプルライフになり得ます。)。

 そして,そのためにも,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を享受しつつも,物事が自分の思い通りになることを当たり前と思うことなく,感謝する気持ちを忘れずに,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さ(より具体的には,この世の中に生まれてこれたことの有り難さ,自分の命を守り,自分が生きることを可能にしてくれている人体や自然や宇宙の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働きの有り難さ,自分の人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助けの有り難さ,人類史上最も豊かで安全で便利な社会で生活できることの有り難さなど)に常に深く思いを致し,その有り難さをしっかり心に刻み付ける必要があるのではないでしょうか(そのためには,その有り難さを痛感する体験を何度も積み重ねる必要があるのかも知れませんが。)。

 また,何を人生の最優先事項とすべきかということを真剣に考えるとともに,普通の平凡な人生の有り難さを再認識し,そのような人生を,無価値な,あるいは,価値の低い人生と見下すようなおごった物の見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されて他者と仲良く助け合えるようになったり,人生は自分の思い通りになるなどといった思い上がった考えを捨て(人生を自分の思い通りにしたいなどと欲張ることなく),人生はままならないものであるという事実をあるがままに受け入れられるように(現状で満足できるように)なったりする必要があるのではないでしょうか。

 私たちは,欲張ることをやめれば(足るを知り,欲望に対する執着を捨て去れば),満足することが可能になり,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,曇りのない眼や心の平安を取り戻して世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになることで,ままならない人生にさえ生きる喜びや幸せを無限に見いだせるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。「生きてるだけで丸儲(まるもう)け」(さんま)と心の底から思えるなら,たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような困難や苦労に見舞われようとも,きっと生きている限りは感謝する気持ちを忘れることなく,「日々是(これ)好日」といった心持ちで,常に満ち足りた気持ちで心安らかに(心豊かに)幸せな人生を送り続けることができるはずです。私たちは,自分が持っていない物(必要以上の物)を欲しがり,自分がそれらの物を持っていないことに不満を募らせるのではなく,自分の命なども含め,自分が持っている物(自分に与えられている物)の豊かさや,自分がそれらの物を持っていることの有り難さ(自分が今ここでこうして生きていられることことの有り難さ)に深く思いを致し,感謝する気持ちを思い出すことによって,持っている物の多寡にかかわらず(たとえ必要最小限の物しか持っていなかったとしても),自分が持っている物だけで満足できるようになる必要があるのではないでしょうか。自分が持っている物の豊かさや,自分がそれらの物を持っていることの有り難さに気づくことさえできれば,きっとそれ以上に欲張ることが恥ずかしくなるはずです。

 なお,自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,自分が持っている物の有り難さを実感する上においても意味のあることであると思いますが(「すき腹にまずい物なし」とも言います。),自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,あくまでも,必要以上に欲張ることなく,自分が持っている物だけで満足できるようになるための手段なのであり,それ自体が目的ではありません。したがって,自分の欲望にブレーキを掛けられるようになり,必要以上に欲張ることなく,自分が持っている物だけで満足できるようになった暁には,あえて自分が持っている物を減らす必要はないのかも知れません。

 

(7)人間の幸不幸は心の持ち方次第であり,どのような境遇にあっても幸せであり続けられるように,自分の心持ちを改めることにこそ,時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,人が羨むような社会的(世俗的)成功を手に入れなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,たとえ,ままならない人生に苦しさやつらさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,場合によっては圧倒されるくらいの幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。また,同じような境遇に生まれ育ち,同じような境遇に身を置きながら,その境遇に満足し,感謝する気持ちを忘れることなく,常に満ち足りた気持ちで心安らかに機嫌よく笑顔で暮らしている人もいれば,その境遇に満足できず,感謝する気持ちを忘れ,常に不満を抱えながら,いらいらと不機嫌に仏頂面で暮らしている人もいます(なお,機嫌の良い人が,周囲の人たちから親しまれやすいだけでなく,周囲の人たちをも愉快な気持ちにさせ,機嫌よくさせる傾向があるのとは逆に,不機嫌な人は,周囲の人たちから疎んじられやすいだけでなく,周囲の人たちをも不愉快な気持ちにさせ,不機嫌にさせる傾向があります。その意味で,不機嫌であるということは一種の迷惑行為,社会人としてのマナー違反であると言えます。真っ当な社会人であることを望むのであれば,他者や社会の役に立ち,他者や社会に益をもたらすことをこそ心がけるべきであり,少なくとも,他者や社会に迷惑を掛けたり,害をもたらしたりするようなことは,できる限り控えるべきなのではないでしょうか。)。「物は考えよう」,「心は持ちよう」などとも言いますが,要するに,人間の幸不幸は,心の持ち方(心構えや心がけ)次第ということなのではないでしょうか。

 すなわち,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けるなどして足るを知るとともに,幸せに対する感度を研ぎ澄まし,日々怠ることなく磨き続けることさえできれば(これは自分の意志や努力次第で十分に可能なことです。),どのような境遇に生まれ育ったとしても,どのような境遇に身を置いていたとして,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,ままならない人生にさえ生きる喜びや幸せを無限に見いだせるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。また,ただ普通に呼吸をしたり,歩いたり,景色を眺めたり,誰かと笑顔を交わしたり,食事をしたり,お風呂に入ったり,音楽を聴いたり,本を読んだり,スーパーで買い物をしたり,スマホで調べ物をしたりすることにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化は自然に抑えられるでしょうし,「仁者は憂えず」とも言うように,たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような困難や苦労に見舞われようとも,それらを試練と受け止め(「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」,「おだやかな海は上手(じょうず)な船乗りを作らぬ」,「若い時の苦労は買ってもせよ」などと,逆境や困難・苦労を前向きに受け止め),乗り越えていくことも可能になるのではないでしょうか。

 もちろん,境遇が私たちに与える影響は決して小さくありませんが,たとえどのような逆境にあろうとも,自分は幸せであると心の底から思えるなら,その人は,他者の目にどのように映ろうとも確かに幸せなのですから(逆に,たとえどのような順境にあろうとも,自分は幸せであると思えないなら(自分は不幸であると思うなら),その人は,他者の目にどのように映ろうとも確かに不幸なのですから),私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇をどのように受け止めるのか,その境遇をどのような心持ち(心構えや心がけ)で生きていくのか,ということなのではないでしょうか。実際,物事の受け止め方や心の持ち方が変わらない限り,境遇がいくら改善されても不幸な状況(自分は不幸であるという思い込み)からなかなか抜け出せないということは,よくあることです。

 そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対にできないのですから,私たちは,たとえどのような逆境にあろうとも,ひねくれたりへこたれたりすることなく,常に感謝する気持ちを忘れずに足るを知り,生きていることそれ自体に幸せを感じられるように,幸せに対する感度を高める方向に自分の心の持ち方を改めることにこそ,限りある大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います(私たちは,とかく他者の境遇を羨んだり,妬んだりしがちですが,本来,困難や苦労を伴わない人生などなく,トータルとしては,誰の境遇にもそれほどの大差はないというのが実態なのではないでしょうか。)。境遇を自分の思い通りに変えようとすることは,無駄な骨折り(「骨折り損」)というだけではなく,境遇を自分の思い通りに変えることに時間やエネルギーを浪費すればするだけ,被害者意識や他罰的(他責的)な傾向を強めるとともに,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込み,曇りのない眼や心の平安を失った末に,自分は不幸であると思い込むようになってしまい,自分が幸せであることに気づくことが難しくなってしまうと思うからです。

 

(8)今この瞬間を疎かにせず,常に心を込めて今を生き,今を楽しみ,今を味わい尽くせるようになるということも,幸せであるための重要なポイントである。

 「心ここに在らざれば,視れども見えず,聴けども聞こえず,食えどもその味わいを知らず」とも言うように,過去(記憶)や未来(想像)に心を奪われたり,他者との勝負や世間の評判に気を散らしたり,内面の物足りなさや憂さを紛らわせるために過剰な刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事に忙殺されたり,氾濫する雑多な情報に心を惑わされたりして心ここに在らずという心理状態で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づくことは難しいのではないでしょうか。人生に稀(まれ)に訪れる派手で目立つ「大きな幸せ」には気づけたとしても,人生の至る所に隠されている(埋もれている)地味で目立たない「小さな幸せ(ささやかな幸せ)」には,なかなか気づけないのではないでしょうか。

 しかし,たとえ訪れたとしても,意外に底は浅く,すぐに色褪(いろあ)せてしまいがちな「大きな幸せ」より,私たちの日常生活に深く根差しているがゆえに決して色褪せることのない「小さな幸せ」をこそ,私たちは大切にすべきなのではないでしょうか。人生の至る所に隠されている無限とも言える「小さな幸せ」に気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためにも,様々な執着や雑念などから解放され,心静かにゆったりと,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致し,心から感謝しつつ,常に心を込めてマインドフルに今(現在)を生き,今を楽しみ,細部に至るまで(「神は細部に宿る」と言います。)丁寧に今を味わい尽くせるようになりたいものです。そして,そのためにも,世の中が無常であることや(世の中は常に変化しており,今この瞬間を味わうことができるのは,たった一度きりです。世の中が常に変化しているということは,ある意味では,一つの救い,一つの希望でもありますが。),人生が短く(「光陰矢の如(ごと)し」,「歳月人を待たず」),命が儚(はかな)いものであることを常に念頭に置きながら生活したいものです(とは言え,無常であることを嘆き悲しんだり,死を無闇に恐れてじたばたしたりする必要はなく,生きている間は悔いが残らないように今この瞬間を,すなわち,人生を精一杯楽しみ,味わい尽くし,死が訪れた際には,それを泰然自若と受け止め,この世の中に生まれてこれたことや,これまで生きてこれたことに対する感謝の気持ちを新たにしつつ,静かに人生の幕を閉じればいいだけのことであるとは思いますが。)。

 また,心の目を曇らせたり,心の平安を失ったりしないためにも,呼吸や歩行や飲食などの行動のみならず,欲望や感情や思考なども含め,今この瞬間に自分が体験していることに対して常に心を開き,関心を払い,自覚的でありたいものです。あるがままの自分を注意深く観察したり,自分の心の声にじっと耳を傾けたり,自分の欲望や感情や思考などの本源(本質)を見極めようと努力したりすることを通じてこそ,私たちは自分というものを,ひいては,人間というものを深く知ることができるのですし,自分の欲望や感情や思考などから適度に距離を置き,それらをある程度は自分の意志によってコントロールすることができるようになることで,それらに振り回されることなく,どのような状況においても心の目を曇らせることなく,心の平安を保つことが可能になると思うからです。

 私たちは現在にしか生きることができないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから(そして,その現在の幸せが継続することによって,自(おの)ずと幸せな未来が切り開かれていくということなのですから),人生を長い目で見ながらも,常にマインドフルであることを心がけつつ,今この瞬間を決して疎(おろそ)かにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントと言えるのではないでしょうか。もちろん,過去の反省を踏まえて,あるいは,将来を見越して現在やるべきことに最善を尽くすということは大切なことですが,後悔や取り越し苦労ばかりして,心ここに在らずという心理状態に陥り,現在やるべきことに手に付かなくなってしまうというのでは,まさに本末転倒です。

 

(9)自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にこそ積極的に目を向け,他者や人生や自分を肯定できるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして,世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになってしまった人が,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面だけではなく,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要があります(世の中に否定的な側面があるのは事実ですが,肯定的な側面があるのも事実です。肯定的な側面に目を向けようとせず,否定的な側面にばかり目を向けるのは,否定的な側面に目を向けようとせず,肯定的な側面にばかり目を向けるのと同じく,余りにも偏った不公平(不公正)な物の見方と言えるのではないでしょうか。人の道に外れた悪行にさえ「反面教師」という側面はあり,老いることや病気になることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあります。実際,私たちは,老いることによって,様々な執着や不平不満などから解放され,曇りのない眼や心の平安を取り戻せるようになりますし,病気になることによって,健康であることの(あるいは,生きていることの)有り難さを痛感し,健康でいられるだけでも(あるいは,生きていられるだけでも)自分の人生に満足できるようになります。すなわち,病気によって小欲知足を学ぶことができます。また,人間の致死率は100パーセントであり,私たちはいつか必ず死にますが,よくよく考えてみれば,死があるからこそ生きる喜びがあるのであり,生きる喜びがあるからこそ私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることや自分がこの世の中に生まれてこれたことに,感謝したり,幸せを感じたりすることができるのではないでしょうか。もちろん,本物の死を体験した人などいないのですから,死んでからのことは誰にも分かりません。死を否定的・悲劇的なものとして捉えること自体が間違っている可能性もあります。)。そして,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分を大切にできるようになることで,まずは,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになる必要があります。

 これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかも知れませんが,私たちの心には本来,バランスを保とうとする(バランスを回復させようとする)力が備わっているのではないでしょうか。例えば,「誰も信じられない。」と思っている人の心の中にも,信じることのできる他者に巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって,いいことなんか何もない。」と思っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちはきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と思っている人の心の中にも,自分をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。大切なことは,そのような気持ち(心の声)をいかに聞き分け,呼び覚まし,強化していくか,ということなのではないでしょうか。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも言うように,人間が大きく変化することは,文字どおり大変なことですが,できないと思えば,どんな簡単なこともできません。できないと思って諦めてしまえば,努力しないで済む分,楽にはなりますが,それでは何も変わりません。弱音を吐くことなく,絶対にできると信じて不退転の決意で(「背水の陣」で)臨めば,「窮すれば通ず」,「案ずるより産むが易(やす)し」という具合に,道は自然に開かれていく場合が多いのではないでしょうか。他者の支えや助けが必要な場合もあるかも知れませんが,人生を切り開いていくのはあくまでも自分なのであり,人生を他者に切り開いてもらうことはできません。「下駄(げた)を預ける」ように人生を他者に預けることはできないのです。

 そもそも,生まれ付き不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるというような境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうのなら,多くの人間にとって幸せであることは儚(はかな)い夢であり,恵まれない境遇にある人間は一生不幸のままということになってしまいます。それでは救いも希望もありません。私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には私たち次第,私たちの心の持ち方次第なのであり,強い意志と勇気を持って自分の心の持ち方を変えることさえできれば(人間は何歳になっても変わることができます。世の中は無常なのであり,変化しない物など何もないのですから。),たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような困難や苦労に見舞われようとも,幸せになり,幸せであり続けることは,誰にでも可能であると私は信じています。

 人生はままならないものであり,「一難去ってまた一難」,「泣きっ面に蜂」,「前門の虎,後門の狼」などとも言うように,人生に困難や苦労は付き物ですが,「明けない夜」や「やまない雨」はありませんし,「(楽あれば苦あり)苦あれば楽あり」,「(楽は苦の種)苦は楽の種」,「冬来りなば,春遠からじ」,「夜明け前が一番暗い」,「禍を転じて福となす」,「禍福は隣り合わせ」,「禍(わざわい)の中に福あり」,「踏まれた草にも花が咲く」,「雨降って地固まる」,「待てば海路の日和(ひより)あり」,「明日は明日の風が吹く」,「命あるところ,希望あり」,「笑う門に福来る」,「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などとも言います。人生に絶望したり,自暴自棄になったりしてはいけないのだと思います。宇宙的な規模で考えれば,私たちの人生など,ほんの一瞬の出来事であり,私たちの悩みなど,砂つぶほどの大きさも重さも有していない場末(僻地)の些事(さじ),あるいは,「コップの中の嵐」なのですから,何事も深刻に考え過ぎない方がいいのではないでしょうか。たった一度きりの人生です。たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,決して人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく(改めて言うまでもなく,人間を信頼するということは,他者のみならず,自分をも信頼するということです。),他者や人生や自分を肯定できるようになるための,生きていることやこの世の中に生まれてきことを肯定し,心から感謝できるようになるための前向きな努力を,「七転び八起き」,「一念(念力)岩をも通す」,「断じて行えば鬼神もこれを避く」といった気持ちで辛抱強く続けていくべきであると思います。私たちは,この世の中を否定し,不幸になるためにではなく,この世の中を肯定し,幸せになるためにこそ生きているのであり,この世の中に生まれてきたのですから(この世の中を肯定できればこそ,この世の中で生きることや,この世の中に生まれてきたことに喜びや幸せを感じることができるのですから,この世の中を肯定できるということは,私たちが幸せであるための必須条件と言えます。)。

 

 

2 幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の共通の願いであるとともに,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人にとっての義務であり,人生の大前提である。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。

 幸せであることは,私たちすべての人間の共通の願いです。年齢も職業も暮らしている国や時代も関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。実際,この道を選べば必ず幸せになれると分かっているときに,あえてその道を選ばない(あえて不幸になる道を選ぶ)人がいるでしょうか。道に迷ったり,道を踏み外してしまったりするのは,どの道を選べば幸せになれるのかが分からないからなのではないでしょうか。他者と競い合って社会的(世俗的)な成功を収め,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないなどと幼い頃から誰かに教え込まれ続け,そのようなデマを鵜呑(うの)みにしてしまっているからなのではないでしょうか。

 また,人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,わざわざこの世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,(3)でも述べたように,不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,すぐに自暴自棄になっては道を踏み外しやすい上に,他者を妬んだり恨んだりしては,他者の足を引っ張ろうとしたり他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちですが(他者の不幸を願い,喜びがちですが),そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであればこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩み続けることができるのであり(道を踏み外すことなく,正しい道に踏みとどまることができるのであり),自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。そのように考えるなら,幸せであることは,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人,特に,対人援助の仕事に従事している社会人にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか。

 幸せであること,すなわち,自分が幸せであることに気づくことを,人生の目標やゴールではなく,人生の大前提とする理由は,おおむね以上のとおりです。

 

 

《幸せであることを大前提として人間はいかに生きるべきなのか》

 

(11)自分を人間的に成長・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,人間として,また,社会人として,自然で真っ当な生き方である。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言ってしまえば,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。

 せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを手に入れることが何かを失うことであるとしても(何事にも一長一短がありますので,何かを手に入れるためには何かを失わざるを得ませんが,自分は何を手に入れるために何を失おうとしているのか,という自覚だけは常に持っていたいものです。),自分を人間的に成長・向上させ続けることによって,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせ,思い残すことのない充実した人生を送りたい,そして,できることなら,そのことを通じて多少なりとも他者や社会の役に立ちたい,他者や社会に益をもたらしたいと願うのは,人間として,また,社会人として,自然なことであり,真っ当なことであると思うからです。何も思い残すことのない充実した有益な人生を送ることができたなら,いつか訪れる死をもきっと安らかな気持ちで迎え入れることができるはずです。

 また,この宇宙や生物が,もとを正せば一つのものから分化・発展したものであることを考えるなら(だからこそ,私たちは,「個」を極めることによって「普遍」に至ることができるのではないでしょうか。),私たちは,この宇宙の,この世の中の一部分なのであり,私たちはこの世の中と無関係に生きることはできません。特に,私たちは他者の支えや助けがなければ生きていられず,その意味で私たちと他者は一体なのですから(「世は相持ち」とも言うように,私たちと他者は持ちつ持たれつの相互依存関係にあるわけですから),互いに仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施す勿(なか)れ」という心構えや心がけで生きるのが(できる限り他者に迷惑を掛けたり害を与えたりしないようにして生きるのが),人間として,また,社会人として,自然で真っ当な生き方であると思うからです。

 私たちが暮らしている社会は,人類史上最も豊かで安全で便利な社会と言えますが,そのような社会で暮らしていると,人間は独りでは(孤立無援の状態では)生きていられないという事実をついつい忘れてしまいがちです(そして,自分の思い通りには生きられない集団生活を嫌い,自分の思い通りに生きられる単独生活を好むようになります。また,私たちは,危機的な状況や困難な状況においては,その必要性もあって,他者を協力相手(味方・仲間)と見なしてお互いに助け合おうとしますが,安全・平和な状況や物事がある程度自分の思い通りになっている状況においては,他者と協力し合う(助け合う)必要性が低下することもあり,むしろ,他者を競争相手(敵)と見なして足を引っ張り合おうとしたり,パイを奪い合おうとしたりするようになってしまいます。)。特に,親の愛情に恵まれずに育った人は,自分は誰にも頼らず,これまで自分独りの力で生きてきたし,これからも自分独りの力で生きていくとの思いが強いかも知れません。しかし,実際には,目に見える直接的なものも目に見えない間接的なものも含め,数知れぬ他者の支えや助けがあればこそ,私たちはこれまで生きてこられたのだし,これからも生きていけるのです。私たちは, 他者を信じ,他者を頼らなければ生きていられないのであり,生きるとは他者を信頼することである,と言っても過言ではありません。

 

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長・向上させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けることであると思います。そして,たとえ何歳になったとしても,たとえどれだけたくさんの経験を積んだとしても,たとえどれだけ大きな社会的(世俗的)成功を収めたとしても,決して慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることだと思います。「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とも言うように,人間的に成長・向上するにつれてますます謙虚になっていくというのが,人間の本来あるべき姿なのではないでしょうか。特に,進歩・発展や変化の激しい現代社会にあっては,まさに「習うは一生」であり,私たちは必然的に常に初心かつ謙虚であらざるを得ないのではないでしょうか。

 自分が人間的に成長・向上する可能性を信じ続けることができなければ,自分を人間的に成長・向上させ続けるための,今日を精一杯生きるためのエネルギーは湧いてきません。また,慢心して謙虚さを失えば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分が無知であることや未熟であることを自覚しての,真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度(日々立ち止まって自分を振り返り,自分が犯した失敗や過ちを素直に認めた上で,それらから学ぶべきことを十分に学び(経験を十分に消化して認識にまで高め),学んだことを決して忘れまいとする態度)といったものを失い,そこで成長や向上は止まってしまいます。当然のことながら,社会の進歩・発展や変化にも取り残されてしまいます。そして,真摯に学ぶ姿勢などを失えば,「思いて学ばざれば即ち殆(あや)うし」とも言うように,独り善がりな傾向を強めるばかりで(「地獄は善意で敷きつめられている」とも言うように,独り善がりな善意・熱意ほど怖いものはありません。当人は善意と信じつつ,間違った行動を無反省に繰り返し,どこまでもエスカレートさせてしまう危険性があるからです(悪意に基づく行動なら,どこかで何らかのブレーキが掛かるものですが。)。しかし,当然のことながら,善意ならば何をやっても許されるということはありません。善意や熱意で何かをする際には,自分が独善に陥っている可能性について徹底的に内省した上で,自分の行動がどのような結果を招いているかということを十分に見極めつつ,慎重の上にも慎重を期し,できる限り慎み深く控え目に行うようにしたいものです。),あとは退歩・退行し(未熟な状態に逆戻りし),堕落する一方になってしまいます(自分に揺るぎない自信や誇りを持ち続けることが,かえって難しくなってしまいます。)。「自慢は知恵の行き止まり」,「自慢高慢馬鹿のうち」などとも言うように,自慢をしない人間の評価が上がりがちであるのとは反対に,自慢をする人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は,それ以上の成長・向上が望めないだけではなく,「御山(おやま)の大将」や「井の中の蛙(かわず)」になってしまう危険性が高いとみんなが知っているからなのではないでしょうか。

 なお,「知る者は言わず,言う者は知らず」と言うように,人間は本来,物事を深く知れば知るほど,それに伴って分からないことも増えてくるため,発言が控え目になり,慎重になっていくのが自然であり(これが真の学問(学び)の有り様(よう)なのではないでしょうか。),実際,「深い川は静かに流れる」とも言うように,人生経験を積んだ(人生について深い知識を有する)思慮深い老人は,人生経験の乏しい(人生について浅い知識しか有していない)思慮の浅い若者に比べて物静かであり,口数が少ないのが普通です。しかし,慢心した人間は,物事を浅くしか知らないにもかかわらず,生半可な知識を得て何でも知っているつもりになってしまうので(自分が無知であるという自覚を失ってしまうので),黙っていることが難しく,とかく知識をひけらかしたり,何事にも口を差し挟もうとしたりしてしまいがちです(影響力のある人が自己顕示的に知ったか振りをすれば,その軽はずみな言動によって世論や多くの人の行動が一時的にせよ誤った方向に導かれてしまう危険性がありますので,有名人が,少なくとも自分が専門とする分野以外について発言する際には,特に,否定的・批判的な発言をする際には,自分の発言が間違っている可能性があることを十分に踏まえた上で,慎重の上にも慎重を期して発言する必要があると思います。)。また,慢心し,何でも知っているつもりになってしまうと,知っていることなど本当は高が知れているのに(大量の知識を頭に詰め込みながら,実り多い幸せな人生を送るために必要な生活の知恵はほとんど身に付けていない,ということはよくある話です。),それ以上知ろうとする意欲を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった退屈なものになってしまいがちです。

 人間は総じて自惚(うぬぼ)れやすく(自分の短所や欠点や弱みにはなかなか目が向きにくく),とかく自分を実際以上に見積もってしまいがちです。その結果,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する(「策士策に溺れる」,「泳ぎ上手は川で死ぬ」,「善く泳ぐ者は溺れ,善く騎(の)る者は堕(お)つ」,「得意なことは 控え目に」(中井久夫)など),人間は得意になっている時ほど失敗する(「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」,「生兵法は怪我(けが)の基(もと)」,「油断は怪我(けが)の基(もと)」,「油断大敵」,「用心は臆病にせよ」,「百里の道は九十九里を半ばとする」,「一病息災」など),災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる(「喉元過ぎれば熱さを忘れる」,「治にいて乱を忘れず」など)といった現象が生じます。人間が生きていくためには,特に無知で未熟な若者が劣等感に押し潰されることなく自信を持って前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要なのかも知れませんが,いい気になって調子に乗れば,いつか必ず大きな痛手を被ることになります(自己評価(自分に対する自分の評価)と他者評価(自分に対する他者からの評価)のズレは社会不適応のサインであるとも言われています。)。致命的な失敗や過ちを避けるためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです。自惚れやすさなども含め,人間の短所や欠点や弱みを抜本的に改善することは,文字どおり大変なことですが,それらを自覚することは比較的容易であり,自覚することによって短所や欠点や弱みに足をすくわれる危険性(自分を過信して痛い目に遭う危険性)は格段に低下すると思うからです。

 人間は自らの経験から様々なことを学びますが,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分一人の狭い経験からだけではなく,より広く,他者の経験や他者が自らの経験から学んだことなどからも学ぶ必要があります(人類がここまで進歩・発展できたのも,私たちの祖先が,自らの経験のみならず,他者の経験などからも学び続け,その成果を誰もが利用できる形で蓄積し続けてくれたからこそです。私たちが様々なことを広く深く学べるのも,また,このような豊かで安全で便利な社会で暮らすことができているのも,先人・後人を問わず,他者のお陰なのですから,他者に対する感謝の気持ちを忘れないようにするとともに,自らが学んだ結果についても,独り占めすることなく,できる限り誰もが利用しやすい形で社会に還元していきたいものです。)。特に,人類の経験や英知の精髄・結晶とも言える古典などの良書を愛読・熟読・精読することは,非常に貴重な学びの機会になり得ます。真理に新しいも古いもなく,むしろ,時の試練に耐えて生き残ったものこそが真理なのでしょうから,「温故知新(故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る)」という精神を忘れないようにしたいものです。なお,「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し」と言うように,学んだことを実生活に取り入れ,日々の生活に役立てられるようにするためには,学んだことを自分の頭で十分に考えて咀嚼(そしゃく)し,消化し,血肉化するという作業が欠かせません(学んだことが単なる知識にとどまっていたのでは,それらが自分の考え方や生き方や心の持ち方などに影響を与えることはほとんどなく,それらを人生に生かすことは難しいと思います。)。「早い者に上手(じょうず)なし」,「急(せ)いては事を仕損じる」,「急がば回れ」,「近道は遠道」などとも言いますので,読書に際しては,効率重視の速読ではなく,熟読・精読をこそ心がけ,読書の途中で立ち止まって考える時間を大切にしたいものです。また,どの国のどの時代のどのような情報にも簡単にアクセスできる便利な時代になりましたが,より多くの情報にアクセスして,より多くの知識を頭に詰め込む(あるいは,クラウド上にため込む)ことにではなく,氾濫する情報の中から自分に本当に必要な情報を見極めた上で,それを生活の知恵としてしっかり体得することにこそ,関心を払い,力を注ぎたいものです。

 

(13)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,好きなことを見つけ,そこに見いだした自分なりの目標や理想に近づくための努力を楽しめるということが重要である。

 「好きこそものの上手(じょうず)なれ」,「下手(へた)は嫌いの証拠」(五味太郎)などと言いますが,私たちは,自分が好きなこと(ほとんどの場合,自分の人生に必要不可欠と感じられること)だからこそ,どのような困難や苦労にもめげることなく,辛抱強く努力し続けることができるのではないでしょうか。そして,長年にわたって怠ることなく努力し続ければこそ(「大器晩成」とも言うように,大きな器が出来上がるまでには,どうしても長い時間が必要です。),才能の有無にかかわらず,上達もし,それに見合った成果も得られ,また,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続け,そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせるとともに,多少なりとも他者や社会の役に立つことができるのではないでしょうか。このように考えるなら,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ,あるいは,自分がやっていることを本当に好きになり,そこに自分が信じることのできる自分なりの目標や理想を見いだし(自分なりとは言っても,「すべての道はローマに通ず」るのでしょうが。),その目標や理想に一歩でも近づくための努力を心から楽しめるということが重要であることが分かります(努力することを楽しいと思えるようになるためには,自分が好きなことに打ち込めることの有り難さに気づけるだけの想像力を持ち,感謝する気持ちを忘れないということも重要であるとは思いますが。)。

 なお,何事も嫌々やったところで意味のある成果を得ることはできず,周囲に迷惑や負担を掛けるとともに,不満やストレスや疲れなどがたまるだけですので(まさに「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」です。),仕事など,自分がやらなければならないことについては(もちろん,反社会的なことや自分の信念に反するようなことは別ですが。),嫌々やるのではなく,是非とも楽しみながらやりたいものです。その気になって全力で前向きに取り組めば,何事にも何らかの楽しさややりがいが見いだせるものです(「石の上にも三年」とも言うように,楽しさややりがいを見いだせるようになるためには,相応の期間,辛抱強く努力する必要があるとは思いますが。)。そして,楽しさややりがいをさらに極めていくことによって,自分がやっていることを本当に好きになっていく,ということはよくあることです。

 自分が本当にやりたいと思える好きなことや,自分なりの目標や理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのが,より一般的であるとは思います。しかし,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,その場限り,その場しのぎになりやすく,困難や苦労に耐えてまで辛抱強く努力し続けるということは難しいのではないでしょうか。自分なりの目標や理想がなければ,自分が目指すべき方向性が定まらず(目的地を定めずに歩き回ることにも,息抜きとしての意味はあるのでしょうが。),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,どこにもたどり着けないまま一生を終えてしまうということにもなりかねませんので(自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせることができないまま,人生に大きな悔いを残してしまう可能性が高いので),人生に自分なりの目標や理想を見いだすことは,やはり重要であると思います。

 人生に掲げる目標や理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達・実現不可能なものであっても一向に構いません(したがって,たとえ何歳になろうとも,目標や理想を掲げるのに遅すぎるということはありません。)。むしろ,すぐに到達・実現できてしまうようなものでは人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,「少年よ大志を抱け」という言葉どおり,目標や理想は,大きければ大きいほど,高ければ高いほどいいとさえ言えます(大きな目標や高い理想を掲げることは,翻って自分の無知さや未熟さを自覚することにもつながりますので,何歳になっても慢心することなく,謙虚さや,真摯に学び,努力する姿勢や,素直に反省する態度などを保ち続ける上においても重要なのではないでしょうか。)。もちろん,自分が掲げた目標や理想に縛られて身動きが取れなくなり,かえって成長・向上にブレーキが掛かってしまうというのでは本末転倒ですので,目標や理想は,状況の変化などに応じてある程度は柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思います。人間が考えることに完璧ということはありません。「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」,「過ちて改めざる是(これ)を過ちという」などとも言いますが,目標や理想についても,いったん掲げた目標や理想にこだわり,固執するのではなく,常に開かれた心で謙虚に見直し,より善い,より人間らしいものに随時修正していくべきであると思いますし,必ずしも目標や理想を一つに限定する必要もないと思います。目標や理想を一つに限定してしまったら,何らかの理由によってその追及ができなくなってしまった場合に,あるいは,その目標や理想を到達してしまった場合に,一時的にせよ,人生の指針を失い,あるいは,自分が進むべき道を見失い,途方に暮れてしまう可能性が高いからです。

 

(14)自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や世間の評判などに気を散らして時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 人間的に成長(成熟)・向上し続けるというのは,自足しつつも(自分の人生に満足しつつも)謙虚さや向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる目標や理想に向かって,あるいは,より善い,より人間らしい生き方を目指して自分が進むべき道を自分の歩幅で一歩ずつ前進し続けるということです(自足してしまったら,そこで成長や向上は止まってしまうと言う人もいますが,行動の原動力は不満のみとは限りません。常に満ち足りた気持ちで暮らしながらも,何歳になっても謙虚さや向上心を失うことなく,自分が信じる目標や理想に向かって邁進(まいしん)し続ける人はいくらでもいるのではないでしょうか。)。他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,功を急いだり,世間から評価されようとして右往左往したり,自分の信念を捻(ね)じ曲げたりする必要などまったくありません(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け,自分の心の声に耳を閉ざしたまま,いつしか,本当の自分を見失ってしまいます。そして,自分が生きている意味や,自分がこの世の中に生まれてきた意味が分からなくなり,やがては,自分を嫌い,自分を憎み,自分を粗末に扱うようになってしまいます。挙げ句の果てには,自暴自棄になり,道を踏み外してしまったり,他者に害をもたらすようになってしまったりさえします。)。他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」,「五十歩百歩」に過ぎませんし,世間の評判や多数者の意見(多数決の結果も含め。)がいつでも正しいとは限りません(「聞いて極楽見て地獄」,「見ると聞くとは大違い」などとも言うように,世間の評判などを鵜呑(うの)みにし,自分の目で確かめたり,自分の頭で考えたり,判断したりすることをやめてしまったら,取り返しのつかない失敗や過ちを犯してしまう危険性さえあります。)。なお,否定的な意見や極端な意見は声高に表明されることが多く(対照的に,肯定的な意見は常識的な意見は普通の声音で表明されることが多く,あえて表明されないことさえ多いものです。),声高に表明された意見には世間の注目が集まりがちであり,特に,その表明者が大きな影響力を持っている場合には,一時的には多数の賛同者を得ることもありますが,大切なのは意見内容の正しさや真っ当さであり,声の大きさや賛同者の数ではありません。判断や行動を誤らないようにするためにも,くれぐれも声の大きさや賛同者の数などに惑わされたり,踊らされたりしないようにしたいものです。

 「十人十色」,「人は人,我は我」,「百人百様」(五味太郎)などとも言うように,人間には人それぞれの生き方があります。思い残すことのない充実した有益な人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を手に入れたりすることよりも(自分が本当にやりたいと思える好きなことに全身全霊で打ち込み,最善を尽くした結果として,それらを手に入れてしまうようなこともあるかも知れませんが,それはあくまでも結果であり,それらを手に入れることを人生の目的にすべきではないと思います。),自分の欲望に打ち克ち,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されることや,本当の自分や自分が進むべき道を見失うことなく,自分の信念を貫いたり,自分が信じる目標や理想に一歩でも近づけるように前進し続けたりすることの方が,よほど重要なのではないでしょうか。実際,財産や地位や権力や名声などをを手に入れたからといって,人生が,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せなものになる保証などどこにもありませんし,むしろ,それらに執着すればするほど,心の目は曇り,心の平安は乱れ,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込む危険性は高まります。そもそも,自分が好きなことに打ち込めるのは,それ自体が喜びであり,幸せなのですから,たとえ財産や地位や権力や名声などを手に入れられなかったとしても,そのことで文句を言ったり,他者を恨んだり,運命を呪ったりすべきではなく,むしろ,自分が好きなことに打ち込めることの有り難さに心から感謝すべきであると思います。自分が好きなことに打ち込めている人が,財産や地位や権力や名声などまで手に入れようとするのは,欲張り過ぎというものです。「二兎(にと)を追う者は一兎をも得ず」,「欲はふたつでも身はひとつ」(五味太郎)と言うとおりだと思います。

 「勝ち組」,「負け組」などという言葉もありますが,人生の目的は他者と競い合って人が羨むような社会的(世俗的)成功を手に入れることではありません。また,改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと心の豊かさはまったく別のことです。経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,経済的に貧しいことをことさら悲惨なもの,恥ずべきものとして捉え,忌み嫌う風潮は(経済的な豊かさばかりに大きな価値を置き,経済的な豊かさばかりを必死になって追い求める風潮は),いったい何に由来するのでしょうか。このような風潮が,結局は,経済的に貧しい人たちは不幸であるという迷信を蔓延(はびこ)らせる結果につながっているように思います。そもそも,生きているということは,それ自体に大きな値打ちのある有り難いことなのであり(生きているということは,一つの奇跡です。この世の中にこれ以上の奇跡があるでしょうか。),他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません(したがって,子供たちに対する大人たちの在り方としても,大人たちは子供たちをあるがままに受け入れ,その存在価値を認めてあげればいいのであって,子供たち同志に優劣を競わせたり,自分たちの物差しで子供たちを評価したりすることは極力控えるべきであると思います。)。命の目方はみんな同じです。人間は生きているだけで十分に値打ちがあるのであり,生きている人間の間に存在価値の差などあり得ません。生きていることそれ自体に幸せを感じ,心から感謝できるようになるなら,このことは実感としてよく理解できるはずです。

 私たちと他者は,お互いに支え合い,助け合ってこそ生きていられるのであり,その意味で,私たちと他者は一体なのですから,本来は勝ちも負けもないはずです。また,世間の評判など,そのほとんどは,ちょっとしたことですぐに手のひら返しに変わってしまうような無責任でいい加減なものです。私たちは自惚(うぬぼ)れやすく,自分は世間から評価され,期待されている,自分がいなくなったら世間が困り,悲しむなどと勘違いしがちですが,実際には,世間は私たちに対して関心さえほとんど持っていませんし,私たちがいなくなっても世間は何も困らずに回っていきます(地球も回り続けます。)。そのような世間に評価されないからといって落ち込んだり,評価されたからといって有頂天になったりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか。毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要などまったくありません(むしろ,毀誉褒貶に一喜一憂しないでいられるだけの図太さや鈍感さを身に付ける必要があります。)。特に,他者の短所や欠点や弱みを指摘して平気で悪口を言えるということは,「目糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑う」,「青柿が熟柿弔う」などの類いであり,自分の短所や欠点や弱みが見えていないということ,すなわち,心の目が曇っていてあるがままの現実を見ることができていないことの,あるいは,他者の長所や美点や強みを認めるだけの器量(余裕)がないことの証左なのですから(「名人は人を誹(そし)らず」と言います。),そのような他者の言葉を真に受ける必要などまったくなく,「屁(へ)の河童(かっぱ)」くらいに思っていればいいのではないでしょうか。人に褒められたり,好かれたりすれば嬉(うれ)しくなる(逆に,人に貶(けな)されたり,嫌われたるすれば悲しくなる)のが人情ですし,日本人は世間の評判などを過度に気にしやすい国民であるとも言われていますが,評価において重要なことは,評価してくれる人の数ではなく質です。なお,「出る杭(くい)は打たれる」,「大木は風に折られる」,「山高ければ谷深し」,「誉れは謗(そし)りの基(もと)」,「美人はつらいよ」(五味太郎)などと言うように,称賛されたり,脚光を浴びたりすることが多くなればなるほど,誹謗(ひぼう)中傷されたり,罵詈(ばり)雑言を浴びせられたり,足を引っ張られたりすることも多くなるのが世の常ですし(そもそも,人間は誰しも,長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面の両面を備えているわけですから,称賛されるだけなどということは絶対にあり得ません。),調子に乗れば後で必ず痛い目を見ることになりますので,心の平安を乱されることなく,自分が好きなことに打ち込み,自分が信じる目標や理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けたい,そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせるとともに,他者や社会の役にも立ち,思い残すことのない充実した有益な人生を送りたいと願うのであれば,「能ある鷹(たか)は爪を隠す」,「大賢は愚なるが如(ごと)し」,「君子危うきに近寄らず」,「触らぬ神に祟(たた)りなし」などとも言うように,なるべく目立たないように慎み深く控えめに生きるのが(人知れず黙々と努力するのが),最も賢明な生き方と言えるのではないでしょうか(社会というものはきっと,表舞台で脚光を浴びているような人たちによってではなく,そのように舞台裏で日夜人知れず黙々と努力している人たち(「縁の下の力持ち」たち)によってこそ支えられているのだと思います。)。それでもなお,世間から評価されるような事態に至ってしまった場合には,他者から羨ましがられたり妬まりたりしないように細心の注意を払いつつ,「耳の楽しむ時は慎むべし」と言うとおり,一段と気を引き締めて慎み深く控えめに生きる必要があるのではないでしょうか。

 「負けるが勝(かち)」,「負けて勝つ」,「逃げるが勝ち」,「三十六計逃げるに如(し)かず」,「損して得取れ」,「大賢は大愚に似たり」,「人は見かけによらぬもの」,「人の噂(うわさ)も七十五日」,「和して同ぜず」などとも言いますが,人生において他者との勝ち負けや世間の評判など,取るに足りないことです。もちろん,人間が生きていく上において世の中に適応することは欠かせませんし,私たちが,自分が好きなことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせることができるのも,その他のことを他者が分担し,負担してくれているおかげなのですから,いついかなるときであっても他者に対する感謝の気持ちや世間に対する関心を失ってはいけませんし,困っている人や苦しんでいる人に対する支援や協力は進んで行うべきであると思います。また,自分を過信して独善に陥らないようにするためにも,自分の内外に対して常に心を開き,自分の心の声や他者の言葉(特に耳が痛いと感じられる言葉)に謙虚に耳を傾ける姿勢を保ち続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負や世間の評判を気にする余り,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ損なってしまったり,あるいは,諦めてしまったり,自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることを後回し,先延ばしにしてしまったり,本当の自分や自分が進むべき道(自分が信じる目標や理想)を見失ってしまったりしたのでは,自分が生きている意味や,自分がこの世の中に生まれてきた意味がなくなってしまい,人生に大きな悔いを残すことになりかねません。

 人生は短く,しかも,私たちがこの世の中において生きることのできるチャンスは,たった一度きりなのですから,心の目を曇らせることなく,心の平安を保ち続けるためにも,他者との勝ち負けや世間の評判などは余り気にせず,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけることや,そこに見いだした自分なりの目標や理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることや,勇気を持って自分の信念を貫き通すこと(自分が本当に納得することのできる,自分に恥じることのない生き方を貫き通すこと)などにこそ,気持ちを集中し,限りある大切な時間やエネルギーを使いたいものです。

 

(15)人生が行き詰まってしまった場合には,その原因や責任は自分にあると考え,自分を変えることなどによって行き詰まりを打開しようとするのが賢明である。

 人生が行き詰まると,私たちは,それを他者や運命のせいにしがちですが,恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,恨み言や泣き言をいくら言ったところで,他者や運命を自分の思い通りにすることなど絶対にできないからです。

 確かに,人生の行き詰まりには,他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかも知れませんし,行き詰まりを打開すべく自ら努力するよりも,他者を恨んだり,他者を責め立てたり,運命を呪ったり,不運を嘆き悲しんだりしている方が楽かも知れません。自分のプライドも傷つかないで済みます。しかし,人生はままならないものであるとは言え,人生の主人公はあくまでも自分なのですから,その主導権(自分の人生を自分の努力によって切り開いていく権利,自分の人生をどのような心構えや心がけで生きていくかを自分で決める権利など)だけは,決して手放すべきではないと思います。

 「天は自ら助くる者を助く」,「蒔(ま)かぬ種は生えぬ」,「ためない貯金はたまらない」(五味太郎)などとも言います。人生の行き詰まりを本気で打開したいと願うのであれば,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(少なくとも,自分にもある)と考えを改めた上で(プライドは一時的に大きく傷つくでしょうが,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にはないと考えている限り,その行き詰まりを自分の努力によって打開しようとはなかなか思えないものです。),自分(自分の考え方や生き方や心の持ち方など)を変えることによって,あるいは,自分がやるべきことに最善を尽くすことによって人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,人生を他者任せ,運命任せにするのではなく,自分の努力によって(自分にできること一つ一つに全力で取り組むことによって)切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な(現実的な)生き方と言えるのではないでしょうか。

 なお,私たちは世の中を構成している一部分なのであり,私たちと世の中は切っても切れない密接な関係にあるわけですから,構成員である私たち一人一人がより善い方向に変わっていくことによって,世の中がより善い方向に変わっていく可能性は十分にあると思います。世の中をより善い方向に変えていきたいのなら,まずは,私たち一人一人がより善い方向に変わっていく必要があるのではないでしょうか。

 

 

《どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのか》

 

(16)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にすることなどに加え,まずは自分自身が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも,私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じられるからこそ他者を信じられるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分と折り合えるからこそ他者と折り合えるのであり,自分自身が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うことができるのではないでしょうか。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にし,自分を信じ,自分を理解し,自分と折り合うとともに,まずは自分自身が幸せであるということが重要であると思います。

 世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者の幸せのために何かをしたいと考えている人もいるかも知れませんが,自分を大切にできない人が本当の意味で他者を大切にできるとは思えません。また,一見自己犠牲的に見える行動の裏には,何らかの見返りや報酬(例えば,相手からの感謝や世間からの称賛など)を求める気持ちが隠されていることが多いものですし,その行動が,たとえ何ら見返りや報酬を求めないものであったとしても,他者の幸せを犠牲することで幸せになれた人は,そのことを本当に心の底から喜べるでしょうか(改めて言うまでもなく,子供と親は,基本的には一心同体であり,子供の幸せは親の幸せでもあるわけですから,子供の幸せを願って無償で行われる親の行動は,自己犠牲的な行動には該当しません。)。

 自分が幸せであることと利己的であることは(他者のために自分の幸せを犠牲にすることと利他的であることは),まったく別のことです。幸せであることに人数制限などなく,心の持ち方次第で誰でも幸せになれるのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが自分の幸せを犠牲にする必要などまったくありません。他者の幸せを本気で願うのであれば,自分の幸せを犠牲にしてでも他者を幸せにしたいなどと考えたり,行動したりすべきではないと思います。そのような恩着せがましい考えや行動は,相手にとっては大きな重荷であり,実際は迷惑なだけかも知れません。

 

(17)人間関係においては,同じ人間同士として,相手の心の中に住む悪人にではなく,善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも,善人と悪人が同居しています。長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています(しかも,長所は見方を変えれば短所にもなり得るように,多くの場合,両者はコインの裏表のような関係にあります。)。例えば,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。この世の中に,生まれ付きの善人,生まれ付きの悪人などというものはいませんし,完全な善人,完全な悪人などというものもいません。どのような善人の心の中にも悪人は住んでいますし,「鬼の中にも仏がいる」とも言うように,どのような悪人の心の中にも善人は住んでいます。善人の真似(まね)をして善人として振る舞い続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をして悪人として振る舞い続けるなら,その人は悪人と呼ばれる,というだけのことです(どちらが自分にとって得な生き方なのか,幸せな生き方なのかということを,くれぐれも見誤らないようにしたいものです。どれだけ恵まれない境遇に生まれ育ち,身を置こうとも,くれぐれも自暴自棄になって誤った選択をしないようにしたいものです。)。

 善人と悪人の,どちらが前面に出るかを決めるのは,最終的には本人の意志次第ですが,周りの人たちが及ぼす影響も決して小さくありません。実際,「人を見たら泥棒と思え」とばかりに,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,「疑心暗鬼を生ず」ということもあり,その他者は,悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れてくることができなくなってしまいます。私たちも,周りの人たちからそのような目を向けられ続ければ,善人として振る舞い続けることは難しいのではないでしょうか。善人として振る舞い続けることが馬鹿らしくなり,いっそのこと悪人として振る舞い,自分に対してそのような目を向けてくる人たちに仕返しをしたくなってしまうのではないでしょうか。逆に,「渡る世間に鬼はなし」とも言うように,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向け続け,その善人を呼び覚ますことができるなら,その他者は,たとえそれまでは悪人として振る舞い続けていたとしても,善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。「鬼にもなれば仏にもなる」,「猫にもなれば虎にもなる」などとも言うように,他者は,私たちの対応次第で,悪人にも善人にもなり得るということです。

 そもそも,「思えば思われる」,「魚心あれば水心」,「子供好きは子供が知る」などとも言うように,こちらが心を開いて友好的な態度で接すれば,相手も心を開いて友好的な態度で接してきてくれるため,お互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的な態度で接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的な態度で接してくるため,意味のある対話をすることさえ不可能になってしまう(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,「馬耳東風」,「暖簾(のれん)に腕押し」,「糠(ぬか)に釘(くぎ)」,「豆腐に鎹(かすがい)」,「石に灸(きゅう)」であり,どんなに話をしても分かってもらうことはできません。),というのが普通の人間関係なのではないでしょうか。人間関係はお互い様です。どちらか一方だけが悪い,どちらか一方だけが善いなどということは,滅多にありません。

 したがって,悪人ばかりの世の中で暮らしたくないと思うのであれば,また,この世の中で善人として暮らしたいと思うのであれば,「和を以(もっ)て貴しとす」とも言うように,私たちはお互いに,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまえば,関係を修復する機会がなくなり,あとから好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がける必要があるのではないでしょうか。相手の心の中に善人がなかなか見つからない場合でも,将来見つかる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く向き合い続けることが大切なのではないでしょうか。相手のためにも,自分のためにも。私たちはお互いに支え合い,助け合わなければ生きていられないのであり,そもそも,私たちと他者は一体なのですから,他者を敵と見なして競い合い,足を引っ張り合いながら生きていくのではなく,他者を味方(仲間)と見なして助け合い,幸せを分かち合いながら生きていきたいものです。

 なお,失敗や過ちを犯さない人間はいませんし,人間が犯す失敗や過ちは,そのほとんどが,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。「水清ければ魚棲(す)まず」,「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如(ごと)し」などとも言います。たとえ他者が失敗や過ちを犯したとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立てたり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりするのではなく,他者に対しては,同じ人間同士として常に共感的に,「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(吉野弘)という精神・姿勢を忘れることなく,できる限り寛容かつ友好的な対応を心がけたいものです(他者が失敗や過ちを犯したからといって,そのことを不寛容に責め立てるということは,いつか自分も他者から不寛容に責め立てられるということに他なりません。)。他者を軽んじたり,非難したりするのは,多少の憂さ晴らし(鬱憤晴らし)にはなるでしょうし,自分が偉くなったようで気持ちがいいかも知れませんが,愛情や真心に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし,厳しく非難するだけでは,相手の反省や更生にはつながらず,むしろ,かえって相手を意固地にさせ,素直に反省することを難しくさせてしまったり,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,成長や更生を困難にさせてしまったりする危険性が高いと思うからです。もちろん,私たちには自分の意見を自由に表明する権利があるわけですが(「口は災いの元」,「三寸の舌に五尺の身を亡(ほろ)ぼす」,「病は口から入り,禍(わざわい)は口から出る」,「雉子(きじ)も鳴かずば打たれまい」,「天に唾する」,「物言えば唇寒し」,「物は言いよう」,「物も言いようで角が立つ」,「沈黙は金」,「言わぬは言うにまさる」,「言わぬが花」,「おしゃべりは口のおなら」(五味太郎)などとも言いますが),その権利の中に他者を誹謗(ひぼう)中傷したり,他者に罵詈(ばり)雑言を浴びせたりする権利は含まれていないはずですし,不正確な情報に基づいて一方的に他者を否定したり,非難したりすることは,極力控えるべきであると思います。また,自分の意見が受け入れられないからといって,他者を恨んだり,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に危害を加えようとしたり(損害を与えようとしたり)するのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。

 

(18)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生に満足できているということとともに,自分が進むべき道が定まっているということが重要である。

 私たちは,自分の人生に満足できていないからこそ,また,自分が進むべき道(自分が信じることのできる自分なりの目標や理想)が定まっていないからこそ,他者の暮らし向きや動向が気になるのであり,自分と他者を比較しては他者との勝負にこだわり,他者を競争相手(敵)と見なしてパイを奪い合うようになってしまうのではないでしょうか。そして,挙げ句の果てには,他者を妬んでは他者の足を引っ張ったり,自分を不幸であると哀れんでは卑屈になったり,自分が不幸であることを他者のせいにしては他者を恨んだり(総じて人間は,「隣の芝生は青い」,「隣の花は赤い」,「隣の飯は旨(うま)い」,自分の荷物が一番重い,と感じてしまいがちな生き物です。),逆に,他者を見下しては他者を軽んじたり,おごり高ぶっては居丈高になったり(自分の卑屈さを打ち消すかのように),自分の成功を自分だけの手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任(本人だけの責任)であると決め付けて他者を切り捨てたりしてしまうのではないでしょうか。

 したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助けがあればこそ自分は生きていられるという事実を正しく認識した上で(もちろん,私たちも,仕事などを通じて他者の支えや助けになっています。),常に満ち足りた気持ちで暮らせるように自分の心の持ち方を改めること(幸せに対する感度を高めることによって,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになること)とともに,人生の指針(自分が進むべき道)を明確化すべく,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ,そこに自分が信じることのできる自分なりの目標や理想を見いだし,それらを見失わないようにすることが重要であると思います。足るを知り,自分の人生に満足できている人や,自分が信じる目標や理想に向かって自分が進むべき道を邁進(まいしん)している人にとっては,自分と他者を比較することや,他者との勝負に勝つことなど,きっとどうでもいいことであるに違いありません。

 

(19)不幸な状況にある他者が幸せになるための手助けをすることは,他者と支え合い,助け合ってこそ生きていられる私たち人間にとっての,当然の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして,世の中の否定的な側面にばかり目を向けるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分を粗末に扱うようになってしまった挙げ句,自分は不幸であると思い込むようになり,そのような状況からなかなか抜け出せなくなってしまっている人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分を大切にできるようになることを通じて自分が幸せであることに気づけるように,そのような人たちの苦しさやつらさを共感的に理解することに努めるなど,慎み深く自分にできる限りの手助けをしたいものです。

 他者の不幸は,「対岸の火事」ではありません。「明日は我が身」,「昨日は人の身,今日は我が身」です。私たちは,他者と支え合い,助け合ってこそ生きていられるのであり,私たちと他者は持ちつ持たれつの相互依存関係,言わば一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係にあるわけですから,不幸な状況からなかなか抜け出せずにいる他者が幸せになるための手助けをすることは,たまたま幸運に恵まれるなどして,一足先に幸せな人生を送ることができている人間にとっての,当然の務めであると思います。それは決して,優越感を味わいながら,あるいは,見返りや報酬(感謝されたり,称賛されたりすること)を期待しながら行うようなことではなく(そのような気持ちで行われる手助けは,手助けを行う当人のプライドを高める役には立ちますが,相手のプライドを深く傷つけ,その相手が自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする意志や勇気や自信や意欲を,かえってくじいてしまう危険性があります。),当たり前のこととして,あるいは,自分の方が幸運に恵まれていることなどでの負い目を感じながら行うべきことであると思います。「情けは人の為(ため)ならず」,「ひとつの情け,ふたつのよろこび」(五味太郎)などとも言うように,他者を大切にし,他者を益する行動は,回り回っていつかは必ず自分を大切にし,自分を益することにつながってくるはずです(逆に,「人を呪わば穴二つ」とも言うように,他者を粗末に扱い,他者を害する行動は,回り回っていつかは必ず自分を粗末に扱い,自分を害することにつながってくるはずです。)。それ以上の見返りや報酬を求めるのは,欲張り過ぎというものです。

 

 

3 未来を担う子供たちに対する大人の務めとは何か

 

《未来を担う子供たちに対する大人の務めとは何か》

 

(20)自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 「子供は親の背中を見て育つ」,「子は親を写す鏡」,「子供は大人の鏡」,「子供に勝る宝なし」などと言います。未来を担う子供たちに対しては,思い通りに支配・管理しようとするのではなく(そもそも,相手が誰であろうとも,他者を自分の思い通りに支配・管理することなど絶対にできません。他者を自分の思い通りに支配・管理しようとすれば,大きな反発を招き,抵抗・反抗されるだけです。また,子供たちには,失敗する権利,すなわち,失敗から学ぶ権利がありますが,失敗から様々なことを学べるのは,それが自分の自由意志や責任に基づいてなされた場合に限ります。他者から強制された行動によって失敗したところで,それを自分の失敗と受け止めることはできないでしょうし,集団行動に基づく失敗は,たとえその集団に自分が所属していたとしても,必ずしも自分の自由意志に基づく行動であるとは限らず,また,責任の所在があいまいであるため,十分な学びの機会にはなり得ません。),自分の生き様を通して,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。そもそも,「われのできぬことを ひとにさせるな」(中井久夫)と言うように,たとえそれが自分の子供であったとしても,自分にできないことを他者に求めるべきではありませんし,当人が気持ちいいだけの建前的な説教より,どうしても本音がにじみ出ざるを得ない生き様にこそ,より大きな感化力や説得力があるのではないでしょうか。

 大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝する気持ちを忘れることなく足るを知ることや,自分が信じる目標や理想に向かって自分が進むべき道を前進し続けることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことなどよりも,自分の欲望を肥大化させるがままに,他者を競争相手(敵)と見なし,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが曇りのない眼や心の平安を保ちつつ,真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるように思います。私たちが暮らしている社会の進歩・発展には,確かに目を見張るものがありますが,社会の進歩・発展に伴って,自分は幸せであると思っている人は,本当に増えているのでしょうか。むしろ,近年に至っては,自分は不幸であると思っている人ばかりが増えつつあるのではないでしょうか。もし,そうだとしたら,これまでの延長線上に社会が進歩・発展し続けることに,また,そのような社会において社会的(世俗的)な成功を収めることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。実り多い幸せな人生を送るという観点からは,社会はむしろ退歩・衰退しつつあるとさえ言えのではないでしょうか。子供たちが実り多い幸せな人生を送ることを本当に願うのであれば,まずは大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者たちが,目先の損得ばかりを考えるのではなく,拝金主義などの偏った価値観を改めた上で,「どのようにすれば幸せになれるのか(私たちはどのようにすれば生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送ることができるのか)」,「人間はいかに生きるべきなのか(真に人間らしく実り多い人生を送るために私たちはいかに生きるべきなのか)」といった人生の根本問題を真剣に考え,より実り多い,より幸せな生き方を本気で模索し,探究する必要があるのではないでしょうか。これまでの延長線上に社会を進歩・発展させ続けるのではなく,いったん立ち止まり,誰もが実り多い幸せな人生を送ることのできる社会の実現(私たちの考え方や生き方や心の持ち方などを変えることも含め)を目指して必要な軌道修正を図った上で,また歩き始めればいいのではないでしょうか。

 改めて言うまでもなく,お金は,人生の手段であるに過ぎず,目的ではありません。私たちは生きるためにお金を稼いでいるのであり,お金を稼ぐために生きているのではありません。確かに,生きていくのにお金は欠かせませんが,「起きて半畳寝て一畳」,「千石万石も米五合」などとも言うように,贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ,人間が生きていくのに必要なお金など,高が知れています。それなのに,なぜ私たちは,必要以上のお金を手に入れようと毎日あくせくし,また,必要以上のお金が手に入らないからといって不平不満ばかりを募らせてしまうのでしょうか。お金は,生きていくのに必要な程度の額,できればそれに多少上乗せした程度の額があればそれで十分なのではないでしょうか。「地獄の沙汰も金次第」とは言いますが,拝金主義に染まれば,物事はすべて金銭的価値によって評価されるようになってしまいます。お金を手に入れることが人生の主たる目的になり,私たちは金の亡者になってしまいます。お金に目を暗ませて平気で道を踏み外すようにってしまう危険性さえあります。そして,金銭以外の価値を見失えば,普通のつましい暮らしに生きる喜びや幸せを感じたり,生きていることそれ自体に価値を見いだしたりすることができなくなってしまいます。しかし,普通のつましい暮らしに生きる喜びや幸せを感じられるようになることにこそ,生きていることそれ自体に価値を見いだせるようになることにこそ,真の幸せは存在するのではないでしょうか。

 「お金で買えない物など何もない」と言う人もいますが,お金では買えない物(私たちの命,その命を守り,私たちが生きることを可能にしてくれている人体や自然や宇宙の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働き,私たちの人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助け,自分が今ここでこうして生きていられることを感謝する気持ち,自分が信じることのできる自分なりの目標や理想,他者との一体感,自分の人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志,曇りのない眼や心の平安,人生の真理など)こそが,本当に価値のある大切な物なのではないでしょうか。生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるなら,私たちはきっと,自分にとって本当に必要な物とそれ以外の物(本当には必要でない物)との見分けがつくようになるはずです。