実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 人生は短く,しかも,私たちがこの世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。せっかくなら,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送りたいものです。そして,できることなら,幸せなだけでなく,真に人間らしく実り多い,自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な人生を送りたいものです。  私たちの土台を築いているのは,過去の経験,さらに言えば遺伝です。また,私たちが環境から受ける影響もけっして小さくはありません。しかし,それらによってすべてが決定されてしまうわけではありません。私たちは過去の経験や遺伝や環境の奴隷ではありません。私たちには自由意志というものがあるのであり,過去を変えることはできませんが,現在や未来は自分の意志によって変えることが可能です。また,環境を自分の思い通りに変えることはできませんが,自分を変えることは自分の意志次第です。どのような過去を持とうが,どのような環境に置かれようが,人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志さえあるなら,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であると私は信じています。皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!                                                   *なお,このブログの内容のほとんどは,電子書籍(Kindle版『実り多い幸せな人生を送るために』)の形で御覧になることもできます。

人間関係においては,同じ人間同士として,相手の心の中に住む悪人にではなく,善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも,善人と悪人が同居しています。長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています(しかも,両者はコインの裏表のような関係にあります。)。例えば,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。この世の中に,生まれ付きの善人,生まれ付きの悪人などというものは存在しませんし,完全な善人,完全な悪人などというものも存在しません。どのような善人の心の中にも悪人は住んでいますし,どのような悪人の心の中にも善人は住んでいます。善人の真似(まね)をして善人として振る舞い続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をして悪人として振る舞い続けるなら,その人は悪人と呼ばれる,というだけのことです(どちらの生き方が自分にとって得な生き方なのか,幸せな生き方なのかということを,くれぐれも見誤らないようにしたいものです。どれだけ恵まれない境遇に生まれ育ち,身を置こうとも,くれぐれも自暴自棄になって誤った選択をしないようにしたいものです。)。

 しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,「疑心暗鬼を生ず」ということもあり,その他者は悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れてくることができなくなってしまいます。私たちもきっと,周りの人たちからそのような目を向けられ続ければ,善人として振る舞い続けることは難しいのではないでしょうか(善人として振る舞い続けることが馬鹿らしくなり,いっそのこと悪人として振る舞い,自分に対してそのような目を向ける他者に害を与えたり,迷惑を掛けたりしたくなってしまうのではないでしょうか。)。他方,「渡る世間に鬼はなし」とも言うように,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向け,その善人を呼び覚まし,支持し続けるなら,たとえそれまでは悪人と呼ばれていた人であったとしても,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。「鬼にもなれば仏にもなる」,「鬼の中にも仏がいる」,「猫にもなれば虎にもなる」などとも言うように,他者は,私たちの対応次第で悪人にも善人にもなり得るということです。

 そもそも,「魚心あれば水心」,「子供好きは子供が知る」などとも言うように,こちらが心を開いて友好的な態度で接すれば,相手も心を開いて友好的な態度で接してきてくれるため,お互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的な態度で接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的な態度で接してくるため,意味のある対話をすることさえ不可能になってしまう(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。),というのが普通の人間関係なのではないでしょうか(極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,どんなに話をしても分かってもらうことはできません。)。人間関係はお互い様です。どちらか一方だけが悪い,どちらか一方だけが善いなどということは,滅多にありません。

 したがって,悪人ばかりの世の中で暮らしたくないと願うのであれば,また,この世の中で善人として暮らしたいと願うのであれば,「和を以(もっ)て貴しとす」とも言うように,私たちはお互いに,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまうと,関係を修復する機会がなくなり,あとから好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がける必要があるのではないでしょうか。相手の心の中に善人がなかなか見つからない場合でも,将来見つかる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く,同じ人間として共感的に向き合い続けることが大切なのではないでしょうか。相手のためにも,自分のためにも。私たちはお互いに支え合い,助け合わなければ生きていられないのであり,そもそも私たちと他者は一体なのですから,他者を敵と見なして競い合い,足を引っ張り合いながら生きていくのではなく,他者を味方(仲間)と見なして助け合い,幸せを分かち合いながら生きていきたいものです。

 なお,失敗や過ちを犯さない人間なんていませんし,人間が犯す失敗や過ちは,そのほとんどが誰もが犯す可能性のあるものばかりです。たとえ他者が失敗や過ちを犯したとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったように声高に批判したり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりすべきではなく,できる限り寛容になり(いい意味で,「清濁併せ呑(の)み」),「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(「祝婚歌」,吉野弘)という姿勢で対応したいものです(他者が何か失敗や過ちを犯したからといって,そのことを不寛容に責め立てるということは,いつか自分も他者から不寛容に責め立てられるということに他なりません。)。他者を軽んじたり,批判・非難したりするのは,多少の憂さ晴らしにはなるでしょうし,自分が偉くなったようで気持ちがいいかも知れませんが,愛情に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし,厳しく批判・非難するだけでは,相手の成長や更生にはつながらず,むしろ,相手を意固地にさせ,素直に反省することをかえって難しくさせてしまったり,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,相手の成長や更生をかえって困難にさせてしまう危険性が高いと思うからです。もちろん,私たちには自分の意見を自由に表明する権利があるわけですが(「沈黙は金」,「口は災いの元」,「三寸の舌に五尺の身を亡(ほろ)ぼす」,「病は口から入り,禍(わざわい)は口から出る」,「物言えば唇寒し」,「天に唾する」,「物は言いよう」などとも言いますが),その権利の中に他者に害を与える権利は含まれていないはずですし,不正確な情報に基づいて一方的に他者を否定したり,批判・非難したりすることは,極力控えるべきであると思います。また,自分の意見が受け入れられないからといって,他者を恨んだり,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に危害を加えようとしたり(損害を与えようとしたり)するのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。