実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

「どのようにすれば幸せになれるのか」及び「幸せであることを大前提として,人間はいかに生きるべきなのか」

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1 どのようにすれば幸せになれるのか

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,自分が幸せであることに気づくことであり,それさえできれば,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても,誰でも幸せになれる。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。

 幸せとは,自分が幸せであること(自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さ)に気づくことである,と言います。私たちは,本当は生きているというだけですでに十分に幸せなのに(生きているということは,よくよく考えてみれば一つの奇跡であり,心から感謝すべきことなのではないでしょうか。),私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに,私たちには生まれ付き幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることこそが私たちのデフォルト(基調)なのに(比喩的に言えば,どんなに天気の悪い日でも雲の上では太陽が輝き,青空が広がっているのに),そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づき,その気づきに伴う感動を忘れさえしなければ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても(むしろ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという勘違いこそが,それらに対する執着を生じさせ,ひいては,私たちの心の目を曇らせ,私たちの心の平安を奪い,私たちを不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に追い込み,私たちが生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることを難しくさせているのではないでしょうか。),特別な才能などなくても,わざわざ「山のあなたの空遠く」に「幸い」を探しに行かなくても,誰でも幸せになれるのだと。幸せに定員などなく,幸せになるために他者を競争相手(敵)と見なして先を争そったり,席を奪い合ったりする必要などないのだと。自分から手放さない限り,誰も私たちの幸せを奪い取ることなどできないのだと。

 

(2)私たちは幸せであるべきであり,幸せになることをこそ人生の最優先課題とし,どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきである。

 きっと死ぬ瞬間には誰もが,無欲恬淡(むよくてんたん)の境地に至り,様々な執着や不平不満などから解放されるのではないでしょうか。そして,曇りのない眼や心の平安を取り戻すことによって,生きているということは,ただ生きているというだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれてきたことは,本当に幸せなことだったんだなあと気づき,感謝する気持ちを新たにするのではないでしょうか(感謝することと幸せであることは,切っても切れない密接な関係にあります。実際,私たちの心は,幸せである時には感謝する気持ちでいっぱいになりますし,何かに対して感謝する時には幸せな気持ちでいっぱいになります。したがって,常に幸せでいたいと願うのであれば,常に何かに対して感謝していればいいということになります。)。

 しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。たとえどれだけ長生きできたとしても,人生の大半が苦しくてつらいだけでのものであったとしたら,この世の中にせっかく生まれてきた甲斐(かい)がありません。

 私たちは幸せであるべきであり,どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ真剣に考え,実践すべきであると思います。幸せになることをこそ人生の最優先課題とすべきであり,幸せになることにこそ最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐべきであると思います。この優先順位を間違えれば,一生を台無しにしてしまう危険性さえあるのではないでしょうか。

 

(3)道を踏み外したり,他者に害を与えたりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,私たちは幸せである必要がある。

 不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,ささいなことで自暴自棄になっては自制心を失い,衝動的に道を踏み外してしまいがちです。

 また,自分と他者を比較しては幸せそうな他者(社会的に成功しているように見える他者)を妬んだり,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては勝手に被害感を募らせて他者を恨んだりした挙げ句,他者の足を引っ張ったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしてしまいがちです。より具体的には,心ない発言が相手の心(魂)を深く傷つけ,知らぬ間に自分の心をも深く傷つけてしまう可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して,幸せそうな他者を不寛容に責め立て(自分のことは棚に上げたまま,相手に非があると一方的に決め付けては,あるいは,相手の短所や欠点や弱みといった否定的な側面にばかり目を向けては,罵詈(ばり)雑言を浴びせ,誹謗(ひぼう)中傷し),見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満,妬みそねみ,恨みつらみといった感情を晴らそうとしがちです(したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,世の中はとげとげしく不寛容で暮らしにくい(生きづらい)生活の場になり,犯罪や争い事なども増えていきます。なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらもそれらを乗り越え,幸せな人生を送っている人はたくさんいます。)。

 以上のように,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,自縄自縛的に自分をますます不幸な状況に追い込み,他者をも不幸な状況に巻き込みがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。たった一度きりの人生なのですから,そのような人生ではなく,自分を大切にしながら正しい道を歩みつつ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送れるようになりたいものです。

 

《なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲張り続ける限り,いつまでたっても満足することはできず,不平不満ばかりを募らせては,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまう。

 私たちは,なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 欲望は生の証(あか)しであり,それを満たそうとすることは,生き物にとって自然なことであると思います。しかし,人間の欲望は苦しみや悲しみの種でもあります。人間の欲望は,必ずしも本能に基づくものではないだけに切りがなく,放置すれば際限なく肥大化する傾向があります。

 したがって,欲望の肥大化に意識的に(強い意志を持って)歯止めを掛けない限り,満ち足りるということが難しくなってしまいます。たとえどれだけ多くの物を持っていたとしても,欲張り続ける限り(欲望に執着し続ける限り),私たちはいつまでたっても満足することができません(持っている物が多く,美衣美食の贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ,自分の欲望を抑えられないという面もあるかも知れませんが。)。持っている物の有り難さも実感できず,心は貧しいままです。

 挙げ句の果てには,より多くの物を持てば心が満ち足り,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,常に無い物ねだりをするようになってしまいがちです。そして,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送る中で,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思って感謝する気持ちを忘れ,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに思いを致すことができなくなってしまったり(人間は,どのような境遇にもすぐに慣れてしまう生き物ですが,そのような適応能力の高さゆえに,どのような恵まれた境遇にもすぐに慣れ,飽き足りなくなり,より恵まれた境遇を求めるようになってしまいます。),欲望を充足させることを人生の最優先事項とし,その他のことをないがしろにするようになってしまったり(欲に目がくらみ,本当に大切なものが見えなくなってしまったり)しがちです。また,普通の平凡な人生では満足することができず,そのような人生を無価値な人生と見なすようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着しては他者と敵対するようになってしまったり(私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,目の色を変えて財産などを手に入れようとするのでしょうが,財産などを手に入れるためには,必死になって他者と競い合う必要があり,必然的に他者を仲間(味方)ではなく,競争相手(敵)と見なすようになってしまいます。なお,規律や秩序を保ちつつ安全で安心な世の中を築き,維持していく上において権力は欠かせませんが,権力は腐敗しやすく,権力者が,その権力を私物化し,自分の欲望を満たすために乱用すれば,かえって規律や秩序は乱れ,世の中は危険で不安に満ちた生活の場になってしまいます。したがって,権力を負託する相手の選択については,くれぐれも間違わないようにしたいものです。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に)ままならない人生に対する不平不満ばかりを募らせるようになってしまったり(人生はままならないものであるという事実を受け入れられない限り,人生は常に期待を裏切られては失望するだけのものになってしまう可能性があります。),人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにしては他者を恨み,不運を嘆き悲しむようになってしまったりしがちです。

 私たちは,自分の欲望の肥大化を放置したまま(自分の欲望に歯止めを掛けることなく)欲張り続けるからこそ,自分は不幸であると思い込むようになり,その結果,心の目を曇らせ,心の平安を失い,世の中の肯定的な側面が見えなくなってしまうことにより,いま自分の目の前にある幸せ(その多くは「ささやかな幸せ」と呼ばれるものですが。)に気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。

 

(5)恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまったことから,自分が幸せであることに気づけなくなっている人たちもいる。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,その後の人生においても,そのつらさや悲しさを誰かにしっかり受け止めてもらったり,生きていてよかった,この世の中に生まれてきてよかったと実感できるような体験を味わったりすることができないまま,他者を憎んでは他者に対して心を閉ざし,人生を憎んでは人生を悲観し,自分自身を憎んでは自分自身をないがしろにするようになってしまったために,世の中の肯定的な側面に目を向けることが難しく,必然的に,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致し,心から感謝すことが難しく,自分は不幸であると思い込むようになるとともに,自分が幸せであることに気づけなくなってしまっている人たちもいます。

 

《どのようにすれば自分が幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲張ることをやめれば満足することが可能になり,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになるとともに,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになる。

 私たちは,どのようにすれば自分が幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。

 たとえ少しの物しか持っていなくても,自分の欲望に歯止めを掛けることさえできれば,私たちは満足することが可能になります(持っている物が少なく,粗衣粗食の簡素な生活に慣れているからこそ自分の欲望を抑えやすいという面もあるかも知れませんが。)。持っている物の有り難さも実感でき,心はかえって豊かになります。

 したがって,私たちは,より多くの物を持てば心が満たされ,幸せになれるという勘違いを正した上で,小欲知足(痩せ我慢をして大きな満足を諦めるということではなく,新たに多くの物を手に入れなくても,自分が持っている物だけで,自分に与えられている物だけで何ら不満を感じることなく十分に満足できるということ)を心がけ,たとえ必要最小限の物しか持っていなくても満足できるように欲望の肥大化を自制できるようになる必要があるのではないでしょうか(簡素で無欲・小欲な生活は,他者に強制されれば,ただの貧しく惨めな生活かも知れませんが,足るを知り,自分の自由意志で選択するなら,むしろ生きている有り難みを実感しやすい心豊かなシンプル・ライフになり得るのではないでしょうか。)。

 そのためにも,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を享受しつつも,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思うことなく,感謝する気持ちを忘れずに,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さを深く心に刻む必要(より具体的には,自分が生活している社会の驚くべき豊かさや安全さや便利さ,自分の人生を成り立たせてくれている数知れぬ他者の直接的・間接的な支えや助け,自分の命を守り,自分が生きることを可能にしてくれている宇宙や人体の神秘的とさえ言える精妙な仕組みや働きなどに深く思いを致す必要)があるのではないでしょうか。そして,何を人生の最優先事項とすべきかということを真剣に考えるとともに,普通の平凡な人生の有り難さに気づき,そのような人生を無価値な人生と見なすようなおごったものの見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになったり,人生はままならないものであるという事実をあるがままに受け入れられるように(欲張らずに現状で満足できるように)なったりする必要があるのではないでしょうか。

 私たちは,欲張ることさえやめれば(欲望に対する執着を捨てさえすれば)満足することが可能になり,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,曇りのない眼や心の平安を取り戻して世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになることで,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。「生きてるだけで丸儲(まるもう)け」と思っている人間は,どのような逆境にあっても,どのような困難や苦労に見舞われても,きっと感謝する気持ちを忘れることなく,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送り続けることができるはずです。私たちは,自分が持っていない物(必要以上の物)を欲しがり,それらを持っていないことに不満を募らせるのではなく,持っている物が多かろうと少なかろうと,自分がそれらの物を持っていることの有り難さに気づき,その気づきに伴う感動を忘れることなく,心から感謝し続けられるようになることで,自分が持っている物だけで(たとえ必要最小限の物しか持っていなかったとしても)満足できるようになる必要があるのではないでしょうか。

 なお,自分が持っている物だけで満足できるようになるための訓練として,自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,自分が持っている物の有り難さ(自分がそれらの物を持っていることの有り難さ)に気づく上においても大いに意味のあることであると思いますが,自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,あくまでも,自分が持っている物だけで満足できるようになるための手段なのであり,それ自体が目的なのではありません。自分の欲望に歯止めを掛けることによって物(不必要な物)に対する執着を捨て去り,自分が持っている物だけで十分に満足できるようになった暁には,あえて自分が持っている物をできる限り減らして生活し続ける必要などないのかも知れません。

 

(7)幸不幸は心の持ち方次第であり,どのような境遇にあっても幸せであり続けられるように,自分の心持ちを改めることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,人が羨むような社会的成功を手に入れなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,たとえままならない人生に苦しさや悲しさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,場合によっては圧倒されるくらいの幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。また,同じような境遇にあっても,常に満ち足りた気持ちで上機嫌に暮らしている人もいれば,常に不満を抱えながら不機嫌に暮らしている人もいます(なお,上機嫌な人が,周囲の人たちから親しまれやすいだけでなく,周囲の人たちをも上機嫌にさせる傾向があるのとは逆に,不機嫌な人は,周囲の人たちから疎んじられやすいだけでなく,周囲の人たちをも不機嫌にさせる傾向があります。その意味で,不機嫌であるということは一種の迷惑行為,社会人としてのマナー違反であると言えます。真っ当な社会人であることを望むのであれば,他者や社会の役に立ち,他者や社会に益をもたらすことをこそ心がけるべきであり,少なくとも,他者や社会に迷惑を掛けたり,害を与えたりすることは極力避けるべきなのではないでしょうか。)。

 要するに,人間の幸不幸は,心の持ち方(心構えや心がけなど)次第なのではないでしょうか。すなわち,自分の心の持ち方を改め,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けるなどして幸せに対する感度を研ぎ澄まし,日々怠ることなく磨き続けることさえできれば(これは自分の意志や努力で十分に可能なことです。),生まれ育った境遇や,現在自分が身を置いている境遇とは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては普通の平凡な人生にさえ生きる喜びや幸せを無限に見いだせるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。

 ただ普通に呼吸をしたり,食事をしたり,歩いたりということにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化は自然に抑えられ,「仁者は憂えず」と言うように,どのような逆境にあっても,どのような困難や苦労に見舞われても,感謝する気持ちを忘れることなく,それらを試練と受け止め(「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」,「おだやかな海は上手(じょうず)な船乗りを作らぬ」と,逆境や困難・苦労を前向きに捉え),乗り越えていくことが可能になるのではないでしょうか。もちろん,境遇が私たちに与える影響は決して小さくありませんが,どのような境遇にあろうとも,自分は幸せであると感じているなら,その本人は,他者の目にどのように映ろうとも幸せなのですから,私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇を私たちがいかに受け止めるかということなのではないでしょうか。実際,心の持ち方や物事の受け止め方が変わらない限り,自分が身を置く境遇がいくら変わっても不幸な状況(自分は不幸であるという思い込み)からなかなか抜け出せないという例はよく見かけます。

 そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど不可能なのですから,私たちは,どのような境遇にあろうとも,ひねくれたりへこたれたりすることなく,常に感謝する気持ちを忘れずに足るを知り,生きていることそれ自体に幸せを感じられるように,自分の心持ちを改めることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。境遇を自分の思い通りに変えようとすることは,無駄な骨折り(骨折り損)というだけではなく,境遇を自分の思い通りに変えることに大切な時間やエネルギーを浪費すればするだけ,被害感や他罰的(他責的)な傾向を強めるとともに,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込み,自分は不幸であると思い込むような結果になってしまうと思うからです(自分は不幸であると思い込むようになるということは,不幸になるということと同じことです。)。

 

(8)今この瞬間を疎かにせず,常に心を込めて今を生き,今を楽しみ,今を味わい尽くせるようになるということも,幸せであるための重要なポイントである。

 過去(記憶)や未来(想像)に心を奪われたり,他者との勝負や世間の評判に気を散らしたり,内面の物足りなさや憂さを紛らわせようとして過剰な刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事に忙殺されたり,雑多な情報に心を惑わされたりして上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づくことは難しいのではないでしょうか。人生にまれに訪れる大きな(派手で目立つけれども意外に底の一時的な)幸せには気づけたとしても,人生に隠されている無限とも言える小さな(地味で目立たないけれども意外に底の深い永続的な)幸せには,なかなか気づけないのではないでしょうか。

 したがって,いま自分の目の前にある幸せを見逃すことなく,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,様々な執着や雑念などから解放され,心静かにゆったりと,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さを十分に噛(か)み締めながら,常に心を込めてマインドフルに今を生き,今を楽しみ,細部に至るまで(「神は細部に宿る」と言います。)丁寧に今を味わい尽くせるようになる必要があると思います。

 そして,そのためにも,世の中が無常であることや(世の中に変化しないものは何もありませんが,これは一つの希望でもあります。),人生が短く(「光陰矢の如(ごと)し」,「歳月人を待たず」),命が儚(はかな)いものであることを常に念頭に置きながら生活する必要があると思います。とは言え,無常であることを嘆き悲しんだり,死を恐れてじたばたしたりする必要はなく,生きている間は,思い残すことがないように人生を大いに楽しみながら実り多い幸せな人生を送り,死が訪れた際には,それを泰然自若と受け止め,この世の中に生まれてこれたことや,これまで生きてこれたことに対する感謝の気持ちを新たにしつつ静かに人生の幕を閉じればよいだけのことであるとは思いますが。

 また,呼吸や飲食や歩行などの行動のみならず,欲望や感情や思考なども含め,今この瞬間に自分が体験していることに対して常に心を開き,関心を払い,自覚的である必要があると思います。なお,あるがままの自分を注意深く観察したり,自分の心の声にじっと耳を傾けたりすることを通じてこそ,私たちは自分というものを,ひいては,人間というものを深く知ることができるのであり,自分の欲望や感情や思考に振り回されることなく,それらから適度に距離を置き,どのような状況においても心の目を曇らせることなく,心の平安を保つことが可能になるのではないでしょうか。

 私たちは現在にしか生きることができないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから(そして,その幸せな状態がいつまでも続くことによって,自(おの)ずと幸せな未来が切り開かれていくということなのですから),人生を長い目で見つつも,今この瞬間を決して疎(おろそ)かにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントなのではないでしょうか。もちろん,過去の反省を踏まえて,あるいは,将来を見越して現在やるべきことに最善を尽くすということは大切なことですが,後悔や取り越し苦労ばかりして,心ここに在らずという状態で現在やるべきことが手に付かなくなってしまうというのでは,本末転倒であると思います。

 

(9)自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にも広く目を向け,他者や人生や自分自身を肯定できるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人たちが,自分が幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面だけではなく(世の中に否定的な側面があるのは事実ですが,肯定的な側面があるのも動かしようのない事実です。否定的な側面ばかりに目を向けるのは,肯定的な側面ばかりに目を向けるのと同じく,余りにも偏った公平性(公正性)を欠いたものの見方と言えるのではないでしょうか。),世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要があります(老いることや病気になることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあります。例えば,人間の致死率は100パーセントであり,人間は必ず死にますが,死があるからこそ生きる喜びがあり,生きる喜びがあるからこそ私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに感謝したり,生きていることやこの世の中に生まれたきたことに幸せを感じたりすることができるのではないでしょうか。死自体についても,誰も経験したことがないわけですから,それが否定的なものであるか肯定的なものであるかは誰にも分かりません。)。そして,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることで,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになる必要があります。

 これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかも知れませんが,私たちの心には本来,バランスを回復させようとする自然治癒力が備わっているのだと思います。「誰も信じられない。」と思っている人の心の中にも,信じることのできる他者に巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって,良いことなんか何もない。」と思っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちがきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と思っている人の心の中にも,自分をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。要は,そのような気持ちをいかに呼び覚ますか(そのようなかすかな声をいかに聞き分けるか)ということであると思います。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも言うように,人間が大きく変化することは,文字どおり大変なことであると思います。しかし,できないと思えば,どんな簡単なこともできません。できないと思って諦めてしまえば,努力しないで済む分,楽にはなりますが,それでは何も変わりません。決して諦めないという覚悟を固め,本気で取り組めば,「窮すれば通ず」,「案ずるより産むが易(やす)し」というふうに,道は自然に開かれていく場合が多いのではないでしょうか。他者の支えや助けが必要な場合もあるかも知れませんが,人生を切り開いていくのはあくまでも本人なのであり,誰かが本人の代わりにその人の人生を切り開いていくことはできません。他者に下駄を預けることはできないのです。

 そもそも,生まれ付き不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるというような境遇など絶対にありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうのなら,多くの人間にとって幸せであることは儚(はかな)い夢であり,多くの場合,いま不幸な人間は死ぬまで不幸ということになってしまいます。幸不幸を決めるのは,最終的には本人次第,本人の心の持ち方次第なのであり,強い意志と勇気を持って自分を変えることさえできれば(人間は何歳になっても変わることができます。世の中は無常なのであり,変わらないもは何一つないのですから。),どのような境遇にあろうとも幸せになることは誰にでも可能なことであると私は信じています。

 人生はままならないものであり,「前門の虎,後門の狼」,「一難去ってまた一難」といった具合に人生に困難や苦労は付き物ですが,「明けない夜」や「やまない雨」はありませんし,「冬来りなば,春遠からじ。」,「禍(わざわい)を転じて福となす」,「心頭滅却すれば火もまた涼し」とも言います。人生に絶望したり,自暴自棄になって人生を粗末にしたりしてしまってはいけないのだと思います。宇宙的な規模で考えれば,私たちの人生は一瞬の出来事であり,私たちの悩みは砂つぶほどの大きさも重さも有していない場末(僻地)の些事(さじ),あるいは,「コップの中の嵐」なのですから,何事も深刻に受け止め過ぎない方がいいのではないでしょうか。たった一度きりの人生です。どのような逆境にあろうとも,どのような困難や苦労に見舞われようとも,幸せになることを諦めることなく,すなわち,決して人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく(改めて言うまでもなく,人間を信頼するということは,他者のみならず,自分自身をも信頼するということです。),他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,自分がこの世の中に生まれてきことや自分が今ここでこうして生きていることを肯定し,心から感謝できるようになるための前向きな努力を,「七転び八起き」,「念力(一念)岩をも通す」,「断じて行えば鬼神もこれを避く」といった気持ちで忍耐強く続けていくべきなのではないでしょうか。私たちは,人間や人生を否定し,不幸になるためにではなく,人間や人生を肯定し,幸せになるためにこそこの世の中に生まれてきたのであり,生きているのですから。

 

2 幸せであることを大前提として,人間はいかに生きるべきなのか

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の願いであるとともに,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人にとっての義務であり,人生の大前提である。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。

 幸せ(幸せであること)は,私たちすべての人間の共通の願いです。性別も年齢も職業も暮らしている国や時代も関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。実際,この道を選べば必ず幸せになれると分かっているときに,あえてその道を選ばない人がいるでしょうか。道に迷ったり,道を踏み外してしまったりするのは,どの道を選べな幸せになれるのかが分からないからなのではないでしょうか。さらに言えば,財産や地位や権力や名声などを手に入れ,社会的な成功を収めなければ幸せになれないと教え込まれ,鵜呑(うの)みにしてしまっているからなのではないでしょうか。

 人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,(3)でも述べたように,不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,ささいなことで自暴自棄になっては道を踏み外しやすい上に,他者を妬んだり恨んだりしては,他者の足を引っ張ったり他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり(道を踏み外すことなく,踏みとどまることができるのであり),自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。そのように考えるなら,幸せであることは,有益無害な人生を送ることを願う真っ当な社会人(特に,対人援助・対人サービスの仕事に従事している社会人)にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか。

 幸せであることを,人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

《幸せであることを大前提として,人間はいかに生きるべきなのか》

 

(11)自分を人間的に成長・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,人間として自然で真っ当な生き方である。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。

 結論を先に言えば,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。

 せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを手に入れることが何かを失うことであるとしても(自分は何を手に入れるために何を失おうとしているのか,ということだけは常に自覚していたいものです。),自分を人間的に成長・向上させ続けることによって,自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送りたい,そして,できることなら,そのことを通して他者や社会の役に立ちたい(他者や社会に益をもたらしたい)と願うのは,人間として自然なことであり,真っ当なことであると思うからです。思い残すことのない充実した人生を送ることができれば,いつか訪れる死をも安らかな気持ちで迎え入れることができるのではないでしょうか。

 また,宇宙や生物や人類が,本(もと)を正せば一つのものから分化・発展したものであることを考えるなら(だからこそ,「個」を極めることによって「普遍」に至ることが可能なのではないでしょうか。),私たちは宇宙全体の,生物全体の,人類全体の一部分なのであり(宇宙,生物,人類というシステムの一部分なのであり),すなわち,私たちは世の中の一部分なのであり,私たちは世の中と無関係に独りで生きていくことはできません。特に,人類は,言わば運命共同体なのですから,自分が幸せであることを本気で願うのであれば,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも本気で願い,喜び,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施す勿(なか)れ」という心構えや心がけで生きるのが(できる限り他者に害を与えたり迷惑を掛けたりしないようにして生きるのが),人間として自然で真っ当な生き方であると思うからです。

 豊かで安全で便利な社会で生活していると,独り(孤立無援の状態)では生きていけないという事実をついつい忘れてしまいがちですし,恵まれない境遇に生まれ育った人は,自分は誰にも頼らず,これまで自分独りの力で生きてきたし,これからも自分独りの力で生きていくとの思いが強いかも知れませんが,実際には,目に見える直接的なものも目に見えない間接的なものも含め,数知れぬ他者の支えや助けがあればこそ,私たちはこれまで生きてこられたのだし,これからも生きていきていけるのです。私たちは, 他者を信じ,他者を頼ることができるからこそ生きていられるのであり,生きるとは,他者を信頼することである,とさえ言えます。

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長・向上させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,何歳になっても自分の成長・向上の可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。

 重要なのは,自分で自分を見限ることなく,何歳になっても自分の成長・向上の可能性を信じ続けることであると思います。そして,決して慢心することなく,何歳になっても初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることだと思います。「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」と言うように,人間は本来,成長・向上するにつれてますます謙虚になっていくべきなのではないでしょうか。

 自分の成長・向上の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長・向上させ続けるためのエネルギーは湧いてきません。また,慢心して謙虚さを失えば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分の無知や未熟を自覚しての真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度(日々立ち止まって自分を振り返り,自分が犯した失敗や過ちを素直に認めた上で,それらから学ぶべきことを十分に学び(経験を十分に消化して認識にまで高め),学んだことを決して忘れまいとする態度)といったものを失い,そこで成長・向上は止まってしまいます。そして,独り善がりな傾向ばかりを強めるとともに(独り善がりな善意・熱意ほど怖いものはありません。),世の中に適応することも難しくなり,あとは退行・退歩し(未熟な状態に逆戻りし),堕落する一方となってしまいます。「自慢は知恵の行き止まり」,「自慢高慢馬鹿のうち」とも言われるように,自慢をしない人間の評価が上がりがちであるのとは対照的に,自慢をする人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は柔軟性や向上心を失いやすく,それ以上の成長・向上が望めないだけではなく,独善に陥り,退化・退歩・堕落する一方となってしまう可能性が高いとみんなが知っているからなのではないでしょうか。

 なお,「知る者は言わず,言う者は知らず」と言うように,人間は本来,物事を深く知れば知るほど,それに伴って分からないことも増えてくるため,寡黙になっていくはずです。実際,人生経験を積んだ(人生について深い知識を有する)老人は,人生経験の乏しい(人生について浅い知識しか有していない)若者に比べて口数が少ないのが普通です。しかし,慢心した人間は,物事を浅くしか知らないにもかかわらず,生半可な知識を得て何でも知っているつもりになってしまうので,黙っていることが難しくなり,とかく知識をひけらかしたり,何事にも口を挟もうとしたりしてしまいがちです(影響力のある人が自己顕示的に知ったか振りをすれば,その発言によって世論が一時的にせよ誤った方向に導かれてしまう危険性がありますので,有名人が,少なくとも自分が専門とする分野以外について発言する際には,特に,否定的・批判的な発言をする際には,自分の発言が間違っている可能性があることを十分に認識した上で,慎重の上にも慎重を期して発言する必要があると思います。)。また,何でも知っているつもりになってしまうと,知っていることなど本当は高が知れているのに(大量の知識・情報を頭に詰め込みながら,実り多い幸せな人生を送るために必要な知識・情報はほとんど身に付けていない,ということもよくある話です。),それ以上知ろうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった退屈なものになってしまいがちです。

 人間は総じて自惚(うぬぼ)れやすく(自分の短所や欠点や弱みにはなかなか目が向きにくく),とかく自分を実際以上に見積もりがちですが,そのような自惚れやすさは,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する(「策士策に溺れる」,「泳ぎ上手は川で死ぬ」といったように。),人間は得意になっている時ほど失敗する(「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」,「治にいて乱を忘れず」,「生兵法は怪我(けが)の基(もと)」,「油断は怪我(けが)の基(もと)」,「油断大敵」,「百里の道は九十九里を半ばとする」などと言われる所以(ゆえん)です。),災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる(「備えあれば憂いなし」とは言うものの。),などといった現象を生じさせる原因にもなっています。人間が生きていくためには,特に若い人が劣等感に押し潰されることなく自信を持って前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要なのかも知れませんが,いい気になれば,必ず後で足をすくわれることになります(「自己評価(自分に対する自分の評価)」と「他者評価(自分に対する他者からの評価)」のズレは社会不適応のサインであるとも言われています。)。致命的な失敗や過ちを避けるためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです。短所や欠点や弱みは,それを根本的に改善することは難しくても,自覚することは比較的容易であり,自覚することによって短所や欠点や弱みに足をすくわれる危険性は格段に低下すると思うからです。

 自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の狭い経験から学ぶだけではなく,広く他者の経験から学ぶことも欠かせません。特に,人類の経験や英知の精髄・結晶とも言えるような良書(古典など)を愛読・熟読・精読することは,非常に貴重な学びの機会になり得ます。真理に古いも新しいもなく,むしろ,時の試練に耐えて生き残ったものこそが真理なのでしょうから,「温故知新」という精神を忘れないようにしたいものです。なお,「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」と論語にもあるように,学んだことを体得し,実生活において役立てられるようにするためには,学んだことを自分の頭で十分に考えて咀嚼(そしゃく)し,消化するということが欠かせません。「早い者に上手(じょうず)なし」とも言いますので,書物を読むに際しては,速読ではなく,熟読・精読を心がけ,読書の途中で立ち止まって考える時間をこそ大切にしたいものです。

 

(13)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,好きなことを見つけ,そこに見いだした自分なりの目標や理想に近づくための努力を楽しめるということが重要である。

 「好きこそものの上手(じょうず)なれ」と言いますが,私たちは,自分が好きなこと(多くの場合,自分の人生を切り開いていく上において不可欠と感じられること)だからこそ,困難や苦労にめげることなく努力し続けることができるのではないでしょうか。そして,長い期間にわたって怠ることなく努力し続ければこそ,才能の有無にかかわらず,上達もし(それに見合った成果を残すことも可能になり),人間的に成長(成熟)・向上することもできるのだと思います。そのように考えるなら,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が本当にやりたいと思える好きなことを見つけ,あるいは,自分がやっていることを本当に好きになり,そこに自分なりの目標や理想を見いだし(自分なりとは言っても,「すべての道はローマに通ず」るわけですが。),その目標や理想に近づくための努力を心から楽しめるということが重要であることが分かります(努力することを楽しいと思えるようになるためには,自分が好きなことに打ち込んでいられることの有り難さに気づけるだけの想像力を持ち,感謝する気持ちを忘れないということも重要であると思いますが。)。

 何事も嫌々やったところで意味のある成果はほとんど得られず,周囲に迷惑を掛け,不満や疲れやストレスがたまるだけですので(まさに「骨折り損のくたびれもうけ」です。),やらなければならないことについては,嫌々やるのではなく,全力で取り組むことによって,そこに何らかの楽しさや喜びを見いだし,少しでも好きになれるように努力・工夫する必要があるのではないでしょうか。努力や工夫をさらに極めることで,そこにやりがいや生きがいを見いだせるようになり,それが自分が本当にやりたいと思う好きなことになっていくということはよくあることです。

 なお,自分が本当にやりたいことや,自分なりの目標や理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのがより一般的であるとは思います。しかし,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,その場限り,その場しのぎになりやすく,困難や苦労に耐えて常に前進し続けるということは難しいのではないでしょうか。自分が信じることのできる目標や理想がなければ,自分が目指すべき方向性が定まらず(目的地を定めずに散策することにも,息抜きとしての意味はあるのでしょうが。),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,自分の可能性を十分に花開かせることができないまま人生に悔いを残してしまう可能性が高いので,目標や理想を持つことは重要であると思います。

 掲げる目標や理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません。むしろ,簡単に到達できてしまうようなものでは,人生の指針にはなりませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,「少年よ大志を抱け」という言葉どおり,目標や理想は高ければ高いほど,遠ければ遠いほどよいとさえ言えます。もちろん,自らが掲げた目標や理想に縛られて身動きが取れなくなり,かえって成長・向上が止まってしまうというのでは本末転倒ですので,目標や理想は成長・向上に伴ってある程度柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思います。人間が考えることに完璧ということはありません。「過ちを改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」と言いますが,目標や理想についても,いったん掲げた目標や理想にこだわり,固執するのではなく,常に開かれた心で謙虚に見直し,より善いものに修正していくべきであると思いますし,必ずしも目標や理想を一つに限定する必要もないと思います。

 

(14)自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や世間の評判などを気にして大切な時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 人間的に成長(成熟)・向上し続けるというのは,自足しつつも謙虚さや向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる目標や理想に向かって(より善い,より人間らしい生き方を目指して)自分の歩幅で一歩ずつ前進し続けるということです(自足してしまったら,そこで人間の成長は止まってしまうと考える人もいるようですが,常に満ち足りた気持ちで暮らしながら,何歳になっても自分が信じる目標や理想に向かって前進し続ける人はいくらでもいるのではないでしょうか。)。他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,世間から評価されようとして右往左往したりする必要などまったくありません。世間の評判や多数者の意見(多数決の結果も含め。)がいつでも正しいとは限りません。また,否定的な意見は声高に表明されることが多く(対照的に,肯定的な意見は普通の声音で表明されることが多く,あえて表明されないことさえ多いのではないでしょうか。),声高に表明された意見には世間の注目が集まりがちですが(特に,その表明者が大きな影響力を持っている場合には,一時的には多数の賛同者を得ることもありますが),大切なのは意見内容の正しさや真っ当さであり,声の大きさではありません。判断や行動を誤らないようにするためにも,くれぐれも声の大きさや意見表明者の影響力の大きさなどに惑わされたり,踊らされたりしないようにしたいものです。

 「十人十色」と言うように,人間には人それぞれの生き方があります。自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を手に入れたりすることよりも(それらは本来,自分が本当にやりたいと思う好きなことに全力で打ち込み,最善を尽くした結果として,後から付いてくるものであり,人生の目標や理想とすべきものではないと思います。実際,それらを手に入れたからといって人生がより善い,より人間らしいものになる保証はどこにもありませんし,それらを手に入れることによって失うものも決して少なくないと思います。),自分の欲望に打ち克ち,財産や地位や権力や名声などに対する執着から解放されることや,自分が進むべき道を見失うことなく,自分が信じる目標や理想に一歩でも近づくことの方が重要なのではないでしょうか。

 勝ち組・負け組などという言葉もありますが,人生の目的は他者と競い合って大きな社会的成功を手に入れることではありません。また,改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと人生の豊かさはまったく別のことです(経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,貧乏であることをことさら悲惨なものとして捉え,忌避する傾向は,いったい何に由来するのでしょうか。)。そもそも,生きているということは,それ自体に大きな値打ちがあるのであり(生きているということは一つの奇跡です。この世の中にこれ以上の奇跡があるでしょうか。),他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません。生きていることそれ自体に幸せを感じ,心から感謝できるようになるなら,このことは実感としてよく理解できるはずです。

 他者との勝負など,所詮は「団栗(どんぐり)の背比べ」,「五十歩百歩」に過ぎませんし,私たちと他者はそもそも一体なのですから(私たちと他者は,互いに支え合い,助け合って生きているのですから),本来勝ちも負けもないはずです。また,世間は私たちが思っているほどには私たちに関心や期待を持っていませんし,私たちのことを理解してもいませんので,毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要などまったくありません。そのような世間に評価されないからといって落ち込んだり,評価されたからといって有頂天になったりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか。特に,他者の短所や欠点や弱みを指摘して平気で悪口を言えるということは,自分の短所や欠点や弱みが見えていないということ,すなわち,心の目が曇っていてあるがままの現実を見ることができていないことの証左なのですから,そのような他者の言葉を真に受ける必要などまったくないと思います。世間から高く評価されればうれしくなるのが人情ですし,日本人は世間の評判を過度に気にしやすい国民とも言われていますが,評価において重要なことは,評価してくれる人の数ではなく質です。なお,「出る杭(くい)は打たれる」,「大木は風に折られる」と言うように,称賛されたり,脚光を浴びたりすることが多くなればなるほど,誹謗(ひぼう)中傷されたり,罵詈(ばり)雑言を浴びせられたり,足を引っ張られたりすることも多くなるのが世の常ですし,調子に乗れば後で必ず痛い目を見ることになりますので,なるべく目立たないように慎み深く生きるのが賢明な生き方なのかも知れません。それでもなお,世間から評価されるような状況に至ってしまった場合には,一段と気を引き締める必要があるのではないかと思います。

 「負けるが勝ち」,「大賢は大愚に似たり」,「人は見かけによらぬもの」などとも言いますが,人生において他者との勝ち負けや世間の評判など,取るに足りないことです。もちろん,人間が生きていく上において世の中に適応することは欠かせないことですし,私たちが好きなことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせることができるのも,その他のことを数知れぬ他者が負担し,分担してくれているおかげなのですから,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失ってはいけませんし,他者に対する支援や協力は進んで行うべきであると思います。また,自分を過信して独善に陥らないようにするためにも,自分の内外に対して常に心を開き,自分の心の声や他者の言葉(特に耳が痛いと感じられる言葉)に謙虚に耳を傾ける姿勢を保ち続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負にこだわる余り自分が信じる目標や理想に向かって前進することを後回しにしてしまったり,無責任で気まぐれな世間の評判に振り回された挙げ句,自分が進むべき道を見失ってしまったり,自分の信念をねじ曲げるようになってしまったりしたのでは(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け続けた末に自分が本当にやりたいことが分からなくなってしまったり,いつしか自分自身が信じられなくなり,自分を嫌い,自分を憎み,自分をないがしろにするようになってしまったりしかねません。),元も子もありません。

 たった一度きりの人生なのですから,心の目を曇らせることなく,心の平安を保ち続けるためにも,他者との勝ち負けや世間の評判などはあまり気にせず(「逃げるが勝ち」,「君子危うきに近寄らず」,「三十六計逃げるに如(し)かず」,「人の噂(うわさ)も七十五日」,「和して同ぜず」などとも言います。),自分がやるべきことにこそ気持ちを集中し,全身全霊で打ち込み,自分自身に恥じることのない(自分が本当に納得できる)生き方を貫き通すことや,自分が進むべき道を邁進(まいしん)することにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。

 

(15)人生が行き詰まった際には,その原因や責任は自分にあると考え,自分にできることに最善を尽くすことによって行き詰まりを打開しようとするのが賢明である。

 人生が行き詰まった際に,それを他者や運命のせいにして恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても人生の行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,他者や運命を自分の思い通りにすることなど絶対にできないからです。

 確かに,人生の行き詰まりには,他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかも知れませんし,行き詰まりを打開すべく懸命に努力するよりは,他者を恨んだり,不運を嘆き悲しんだりしている方が楽かも知れません。しかし,人生はままならないものであるとは言え,人生の主人公はあくまでも自分なのですから,人生の主導権(自分の人生を自分の努力によって主体的に切り開いていこうとする姿勢や,自分の人生をどのような心構えや心がけで生きていくかを選択する権利など)だけは決して手放すべきではないと思います。

 「天は自ら助くる者を助く」と言います。人生の行き詰まりを本気で打開したいと願うのであれば,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(少なくとも,自分にもある)と考えを改め(人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にはないと考えている限り,その行き詰まりを自分の努力によって打開しようとはなかなか思えないものです。),とにかく自分にできること(自分の考え方や生き方や心の持ち方を変えることなども含め。)を一つ一つ全力でこなし,自分にできることに最善を尽くすことによって人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,他者任せ,運命任せにするのではなく,自分の人生を自分の努力によって主体的に切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。

 なお,私たちは世の中を構成している一部分なのであり,私たちと世の中は切っても切れない密接な関係にあるわけですから,構成員である私たち一人一人がより善い方向に変わっていくことによって,世の中がより善い方向に変わっていく可能性は十分にあると思います。逆の見方をすれば,世の中に問題があるのは,私たち一人一人が問題を抱えているからとも言えます。

 

《どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのか》

 

(16)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にすることなどに加え,まずは自分自身が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのでしょうか。

 そもそも,私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じられるからこそ他者を信じられるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分と折り合えるからこそ他者と折り合えるのであり,自分自身が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にし,自分を信じ,自分を理解し,自分と折り合うとともに,まずは自分自身が幸せであるということが重要であると思います。

 なお,世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者を幸せにしたいと願っている人がいるかも知れませんが,自己犠牲的な行動の背景には,何らかの見返りを求める気持ちが無意識的に存在している可能性が高いですし,そもそも,自分を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にすることができるでしょうか。その自己犠牲的な行動がたとえ何ら見返りを求めないものであったとしても(例えば,子供に対する親の自己犠牲的な行動のように),他者(親)の幸せを犠牲することによって幸せになれた人(子供)は,そのことを心の底から喜ぶことができるでしょうか。

 自分が幸せであることと利己的であることは(自分の幸せを犠牲にすることと利他的であることは),まったく別のことです。幸せであることに定員などなく,心の持ち方次第で誰でも幸せになれるのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが自分の幸せを犠牲にする必要などまったくなく,他者の幸せを本気で願うのであれば,他者の幸せのために自分の幸せを犠牲にすべきではないと思います。

 

(17)対人関係においては,同じ人間同士として,相手の心の中に住む悪人にではなく,善人にこそ積極的に目を向け,できる限り相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも例外なく善人と悪人が同居しています。長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています(そして,多くの場合,その両者はコインの裏表のような関係にあります。)。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。この世の中に,完全な善人,完全な悪人などというものは存在しません。どんな善人の心の中にも悪人は住んでいますし,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいます。さらに言えば,生まれ付きの善人,生まれ付きの悪人などというものも存在しません。善人の真似をし,善人として振る舞い続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をし,悪人として振る舞い続けるなら,その人は悪人と呼ばれます。

 しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にばかり目を向ければ,「疑心暗鬼を生ず」とも言うように,その他者は悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れてくることができません。善人として立ち現れてくる切っ掛けが得られません。私たちもきっと,周りの人たちからそのような目を向けられ続ければ,善人として振る舞い続けることは難しいのではないでしょうか。他方,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向け,その善人を呼び覚ますことができるなら,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。他者は,私たちの対応次第で善人にも悪人にもなり得るということです。

 「子供好きは子供が知る」とも言うように,そもそも,こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれるため,互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるため,意味のある対話をすることさえ不可能になってしまう(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。),というのが普通の人間関係なのではないでしょうか(極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,どんなに話をしても分かってもらうことはできません。分かる人は他者から言われなくても分かるし,分からない人は他者から言われても分からないという側面もあるのでしょうが。)。人間関係はお互い様です。片方だけが悪い,片方だけが善い,ということは滅多にありません。

 したがって,悪人ばかりの世の中で暮らしたくないと願うのであれば,また,この世の中で善人として暮らしたいと願うのであれば,私たちはお互いに,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまうと,関係を修復する機会がなくなり,あとから好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がける必要があるのではないでしょうか。相手の心の中に善人がなかなか見つからない場合でも,将来見つかるようになる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く,共感的に向き合い続けることが大切なのではないでしょうか。相手のためにも,自分のためにも。私たちはみな同じ人間同士(人類の一員)なのであり,そもそも私たちと他者は一体なのですから,他者を敵と見なして競い合い,足を引っ張り合いながら生きていくのではなく,他者を仲間と見なして助け合い,幸せを分かち合いながら生きていきたいものです。

 なお,人間が犯す失敗や過ちは,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。たとえ他者が失敗や過ちを犯したとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったように声高に批判したり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりするべきではなく,できる限り寛容になり(良い意味で,「清濁併せ呑(の)み」),「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(吉野弘の「祝婚歌」)という姿勢で対応したいものです。他者を軽んじたり,批判・非難したりするのは,自分が偉くなったようで気分が良いかもしれませんが,愛情に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし,厳しく批判・非難するだけでは,相手の成長や更生にはつながらず,むしろ,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,相手の成長や更生をかえって困難にさせてしまう危険性が高いと思うからです。もちろん,私たちには自分の意見を自由に表明する権利があるわけですが(「口は災いの元」,「沈黙は金」とも言いますが。),その権利の中に他者に害を与える権利は含まれていないはずですし,不正確な情報に基づいて他者を否定したり,批判したり,非難したりすることは,極力控えるべきであると思います。また,自分の意見が通らないからといって,他者を恨んだり,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に危害を加えようとしたり(損害を与えようとしたり)するのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。

 

(18)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生に満足できていることとともに,自分が進むべき道が定まっているということも重要である。

 私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,あるいは,自分が進むべき道が定まっていないからこそ,自分と他者を比較しては他者との勝負にこだわり,他者を競争相手(敵)と見なして張り合ってしまうのではないでしょうか。そして,挙げ句の果てには,他者を妬んでは他者の足を引っ張ったり,自分を不幸であると哀れんでは卑屈になったり(人間は,「隣の芝生は青い」,「隣の花は赤い」,「隣の飯は旨(うま)い」,自分の荷物が一番重い,と感じがちな生き物です。),自分が不幸であることを他者のせいにしては他者を恨んだり,逆に,他者を見下しては他者を軽んじたり,おごり高ぶっては居丈高になったり(自分の卑屈さを打ち消すかのように),自分の成功を自分だけの手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任(本人だけの責任)であると決め付けたりしてしまうのではないでしょうか。

 したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生が数知れぬ他者の支えや助けによってこそ成り立っているという事実を正しく認識した上で(もちろん,自分が他者の人生の支えや助けになっている可能性もあります。),常に満ち足りた気持ちで暮らせるように自分の心の持ち方を改めること(幸せに対する感度を高め,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになること)とともに,人生の指針を明確化すべく自分が信じることのできる目標や理想を見いだし,それらを見失わないように心がけることが重要であると思います。足るを知り,自分の人生に自足できている人や,自分が信じる目標や理想に向かって邁進(まいしん)している人にとっては,自分と他者を比較することや,他者との勝負に勝つことなどどうでもいいことであるに違いないと思うからです。

 

(19)不幸な状況にある他者が幸せになるための手助けをすることは,数知れぬ他者の支えや助けがあってこそ生きていられる私たち人間にとっての当然の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分自身をないがしろにするようになってしまった挙げ句,自分は不幸であると思い込むようになり,そのような状況からなかなか抜け出せなくなってしまっている人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,彼らや彼女らが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて自分が幸せであることに気づけるように,彼らや彼女らのつらさや悲しさを共感的に理解することに努めるなど,慎み深く自分にできる限りの手助けをしたいものです。

 他者の不幸は決して「対岸の火事」ではありません。私たちは数知れぬ他者の支えや助けがなければ生きていけず,私たちと他者は一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係にあるのですから,不幸な状況にある他者が幸せになるための手助けをすることは,たまたま幸運に恵まれるなどして,一足先に幸せな人生を送ることができている人間にとっての,当然の務めであると思います。それは決して,感謝されることを期待して優越感を味わいながら行うようなことではなく,当たり前のこととして,あるいは,自分が幸運に恵まれていることでの負い目を感じながら行うべきことであると思います。「情けは人の為(ため)ならず」と言うように,他者を大切にし,他者を益する行動は,必ず回り回って自分を大切にし,自分を益することにつながってくるはずです(同様に,「人を呪わば穴二つ」と言うように,他者を粗末に扱い,他者を害する行動は,必ず回り回って自分を粗末に扱い,自分を害することにつながってきます。)。

 

(20)自分の生き様を通して,幸せな生き方や,人間らしく実り多い生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の第一の務めである。

 「子供に勝る宝なし」,「子供は親の背中を見て育つ」,「子供は大人の鏡」などと言います。未来を担う子供たちに対しては,大人たちの思い通りに支配・管理しようとするのではなく(子供たちには,失敗する権利,すなわち,失敗や過ちから学ぶ権利がありますが,失敗や過ちから様々なことを学べるのは,それらが自分の自由意志や責任に基づいてなされた場合に限ります。他者によって強制された行動によって失敗や過ちを犯したところで,それらを自分の失敗や過ちと受け止めることはできないでしょうし,集団行動による失敗や過ちは,たとえその集団に自分が所属していたとしても,必ずしも自分の自由意志に基づく行動であるとは限らず,また,責任の所在があいまいであるため,十分な学びの機会にはなり得ません。),自分の生き様を通して,幸せな生き方や,人間らしく実り多い生き方の手本を示すことこそが,大人としての第一の務めであると思います(当人が気持ち良いだけの建前的な説教よりも,本音がにじみ出る生き様にこそ,より大きな説得力や重みがあると思います。)。

 大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝する気持ちを忘れることなく足るを知ることや,自分が信じる目標や理想に向かって前進し続けることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことなどよりも,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが曇りのない眼や心の平安を保ちつつ,真に人間らしく実り多い,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるように思います。子供たちが実り多い幸せな人生を送ることを本気で願うのであれば,まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,「どのようにすれば幸せになれるのか(私たちはどのようにすれば生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることができるのか)」,「人間はいかに生きるべきなのか(真に人間らしく実り多い人生を送るために私たちはいかに生きるべきなのか)」といったことを真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない効率の悪い無意味な作業と思われてしまうかも知れませんが。),拝金主義等の偏った価値観を改めた上で(改めて言うまでもなく,お金は人生の手段であるに過ぎず,目的ではありません。生きていくのにお金は欠かせませんが,私たちは生きるためにお金を稼いでいるのであり,お金を稼ぐために生きているのではありません。「地獄の沙汰も金次第」とは言いますが,拝金主義に染まれば,物事はすべて金銭的価値によって評価されるようになってしまいます。お金を手に入れることが人生の目的になり,私たちは金の亡者になってしまいます。そして,金銭以外の価値を見失えば,普通のつましい暮らしに生きる喜びや幸せを見いだしたり,生きていることそれ自体に価値を見いだしたりすることは困難になってしまいます。たった一度きりの人生を金儲(もう)けに費やしてしまって,本当に後悔しないでしょうか。),より幸せな生き方や,より人間らしく実り多い生き方を本気で模索し,探究する必要があるのではないでしょうか。

 

 

2021年3月6日更新