実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

「どのようにすれば幸せになれるのか」及び「幸せであることを大前提として,人間はいかに生きるべきなのか」

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1 どのようにすれば幸せになれるのか

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,幸せであることに気づくことであり,幸せであることに気づくことさえできれば,財産や地位や権力や名声などを手に入れなくても,誰でも幸せになれる。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに,私たちには生まれ付き幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが私たちの「デフォルト(基調)」なのに(例えるなら,どんなに天気の悪い日でも雲の上では太陽が輝き,青空が広がっているのに),そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,「山のあなたの空遠く」に幸せを探し求めるまでもなく,誰でも幸せになれるのだと。幸せになるために,特別な才能は必要なく,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要もないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという思い込みこそが,それらに対する執着を生じさせ,ひいては,私たちを不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に追い込み,私たちが幸せであることを難しくさせているのではないでしょうか。)。幸せであることに定員などなく,幸せになるために他者を競争相手(仲間や味方ではなく敵)と見なして先を争ったり,席を奪い合ったりする必要などないのだと。自分が手放さない限り,誰も私たちの幸せを奪い取ることはできないのだと。

 

(2)私たちは常に幸せであるべきであり,幸せであることをこそ人生の最優先課題とし,いま幸せであるために,いま何をすべきかということを真剣に考える必要がある。

 きっと死ぬ瞬間には誰もが,ほとんど無欲・無邪気に近い心境になり,様々な執着や不平不満などから解放されるのではないでしょうか。そして,曇のない眼や心の平安を取り戻すことにより,生きているということは,ただ生きているというだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれきたことは,本当に幸せなことだったんだなあと気づき,感謝する気持ちを新たにするのではないでしょうか(感謝することと幸せであることは,切っても切れない密接な関係にあります。実際,幸せである時,私たちの心は感謝する気持ちでいっぱいになりますし,何かに対して感謝する時,私たちの心は幸せな気持ちでいっぱいになります。)。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生は,すなわち,この世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きできたとしても,その人生が苦しくつらいだけで幸せを感じられるものでなかったとしたら,この世の中にせっかく生まれてきた甲斐(かい)がありません。私たちは常に幸せであるべきであり,いま幸せであるために,いま何をすべきかということを真剣に考え,全力で試行錯誤を重ねる必要があるのだと思います。幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐ必要があるのだと思います。この優先順位を間違えれば,一生を台無しにしてしまう危険性さえあるのではないでしょうか。

 

(3)道を踏み外したり,他者に害を与えたりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益無害な人生を送るためにも,幸せである必要がある。

 自分は不幸であると思い込み,失意失望の淵(ふち)に沈む人間は,「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,すぐに自暴自棄になっては自制心を失い,衝動的に道を踏み外してしまいがちです。また,自分と他者を比較しては幸せそうな他者(成功しているように見える他者)を妬んだり,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては勝手に被害感を募らせて他者を恨んだりした挙げ句,他者の足を引っ張ったり,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしてしまいがちです。そして,多くの場合,心ない一言が相手の心(魂)を取り返しがつかないほど深く傷つけ,知らぬ間に自分の心をも深く傷つけてしまう可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して幸せそうな他者を厳しく不寛容に責め立て(自分のことは棚に上げたまま正義を振りかざし,他者に非があると一方的に決め付けては罵詈(ばり)雑言を浴びせ,誹謗(ひぼう)中傷し),見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満や,妬みそねみ,恨みつらみといった感情を多少なりとも晴らそうとします(したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,世の中は不寛容でとげとげしく住みにくい場所になり,犯罪や争い事なども増えていきます。なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらもそれらを乗り越え,幸せな人生を送っている人はたくさんいると思います。)。その結果,自業自得的に自分をますます孤立無援,あるいは,「四面楚歌」に近い不幸な状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまいまうわけですが,たった一度きりの人生なのですから,そのような有害無益な人生ではなく,自分を大切にして正しい道を歩みながら,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益無害な人生を送りたいものです。

 

《なぜ幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲張り続ける限り,いつまでたっても満ち足りるということはなく,不平不満ばかりを募らせては,いま自分の目の前にある幸せに気づくとさえ難しくなってしまう。

 私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。欲望は生の証(あか)しであり,それを満たそうとすることは生物にとって自然なことであると思います。しかし,人間の欲望は苦しみや悲しみの種でもあります。人間の欲望は,必ずしも本能に基づくものではないだけに,放置すれば際限なく肥大化する傾向があります。そして,欲望の肥大化に意識的に歯止めを掛けない限り,満ち足りるということが難しくなってしまいます。たとえどんなに多くの物を持っていたとしても,欲張り続ける限り,私たちはいつまでたっても満足することができません(持っている物が多く,美衣美食の贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ,自分の欲を抑えられないという面もあるかも知れませんが。)。また,持っている物の有り難さも実感できず,心は貧しいままです。挙げ句の果てには,より多くの物を持てば心が満ち足り,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,無い物ねだりをするようになってしまいがちです。そして,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送る中で,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思い(人間は,どのような状況にもすぐに慣れますが,そのような適応能力の高さゆえに,どのような恵まれた状況にもすぐに慣れ,より恵まれた状況を求めるようになってしまいます。),自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れてしまったり,欲望を充足させることを人生の最優先事項とし,その他のことをないがしろにするようになってしまったり(欲に目が暗み,本当に大切なものを見失ってしまったり)しがちです。また,普通の平凡な人生では満足することができず,そのような人生を無価値な人生と見なすようなおごったものの見方をするようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着しては他者と敵対するようになってしまったり(私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,目の色を変えて財産などを手に入れようとするのでしょうが,財産などを手に入れるためには,必死になって他者と競い合う必要があり,必然的に他者を競争相手(敵)と見なすようになってしまいます。なお,規律や秩序を保ちつつ安全で安心な世の中を築き,維持していく上において権力は欠かせませんが,権力者が,その権力を自分の欲望を満たすために乱用すれば,かえって規律や秩序は乱れ,世の中はどんどん危険で不安に満ちた場になってしまいます。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に)ままならない人生に対する不平不満ばかりを募らせては被害的になり,人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにしては他者を恨み,他者を不寛容に責め立て,運命を呪い,不運を嘆き悲しむようになってしまったりしまいがちです。その結果として,私たちは,自分は不幸であると思い込むようになるとともに,心の平安を乱し,心の目を曇らせて世の中の肯定的な側面が見えなくなってしまうことにより,いま自分の目の前にある幸せ(その多くは「ささやかな幸せ」と形容したくなるようなものですが。)に気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。なお,経済成長というものが,人間の欲望を肥大化させること抜きには達成できないものであるとしたら,私たちは経済成長のために自分の幸せを犠牲にしていることになります。

 

(5)恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまったことなどから,幸せであることに気づけなくなっている人たちもいる。

 世の中には,恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,その後の人生においても,そのつらさや悲しさを誰かにしっかり受け止めてもらったり,生きていてよかった,生まれてきてよかったと実感できるような体験を味わったりすることができないまま,他者を憎んでは他者に対して心を閉ざし,人生を憎んでは人生を悲観し,自分自身を憎んでは自分自身をないがしろにするようになってしまったために,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れるとともに,幸せであることに気づけなくなってしまっている人たちもいます。

 

《どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲張ることをやめれば,満ち足りるということが可能になり,感謝する気持ちを思い出すとともに生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになる。

 私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。たとえ少しの物しか持っていなくても,欲張ることをやめれば,私たちは満足することができます(持っている物が少なく,粗衣粗食のつましい生活に慣れているからこそ自分の欲を抑えやすいという面もあるかも知れませんが。)。また,持っている物の有り難さも実感でき(「空きっ腹にまずい物なし」という諺(ことわざ)もあります。),心はかえって豊かになります。したがって,私たちは,より多くの物を持てば心が満たされ,幸せになれるという勘違いを正した上で,小欲知足(痩せ我慢をして大きな満足を諦めるということではなく,新たに多くの物を手に入れなくても,自分が持っている物だけで,自分に与えられている物だけで何ら不満を感じることなく十分に満足できるということ)を心がけ,必要最小限の物で満足できるように欲望の肥大化を自分の意思で自制できるようになる必要があるのではないでしょうか(質素で無欲・小欲な生活は,他者に強制されればただの貧しく惨めな生活かも知れませんが,ミニマリストのように,足るを知り,自分で選択した場合には,心豊かで魅力的なシンプルライフになり得ます。)。そのためにも,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送りながらも,多くの物事が自分の思い通りになることを当たり前と思うことなく(そのような生活を節度を持って享受しつつ),自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを深く心に刻む必要があるのではないでしょうか。そして,何を人生の最優先事項とすべきかということを真剣に考える必要があるのではないでしょうか。また,普通の平凡な人生の有り難さに気づき,そのような人生を無価値な人生と見なすようなおごったものの見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになったり,不平不満や被害感を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,人生はままならないものであるという事実を謙虚に受け入れられるように(あまり欲張らずに現状で満足できるように)なったりする必要があるのではないでしょうか。その結果として,私たちは,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,心の平安や曇りのない眼を取り戻して世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになることで,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのだと思います。「生きてるだけで丸儲(もう)け」と思っている人間は,どのような逆境にあっても,どのような不運・悲運に見舞われても,きっと生きる喜びに満ちた幸せな人生を送り続けることができます。私たちは,自分が持っていない物を欲しがり(失ってしまった物を取り返そうと望み),自分がそれらを持っていないことに不満を募らせるのではなく(それらを失ってしまったことを嘆き悲しむのではなく),自分が持っている物の多さに気づき(失わずに持っている物で満足し),自分がそれらを持っていることに心から感謝できるようになる(それらを失わずに持っていることを素直に喜べるようになる)必要があるのではないでしょうか。

 

(7)幸不幸は心の持ち方次第であり,どのような境遇にあっても幸せであり続けられるように,自分の心持ちを改めることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,人が羨むような成功を手に入れなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,たとえままならない人生に苦しさや悲しさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,場合によっては圧倒されるくらいの幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇にあっても,常に満ち足りた気持ちで明るく上機嫌に暮らしている人もいれば,常に不満を抱えながら暗い気持ちで不機嫌に暮らしている人もいるように(なお,上機嫌な人が周囲をも上機嫌にさせる傾向があるように,不機嫌な人は,不機嫌であることによって周囲から疎んじられやすいだけではなく,周囲をも不機嫌にさせがちであり,その意味で,不機嫌であるということは一種の迷惑行為,社会人としてのマナー違反と言えます。),物事の受け止め方次第で,すなわち,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝し続ける習慣を身に付けるなどして自分の心の持ち方(心構えや心がけ)を改め,そのことによって幸せを感じ取る感度を研ぎ澄まし,日々怠ることなく磨き続けることさえできれば(これは自分の意志次第で十分に可能なことです。),生まれ育った境遇や,現在自分が身を置いている境遇とは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては普通の平凡な人生にさえ「ささやかな幸せ」を無限に見いだせるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。ただ呼吸をしたり,水を飲んだり,歩いたりというささいなことにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化は自然に抑えられるのではないでしょうか。また,どのような逆境にあっても,その逆境を試練として受け止め(「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」,「おだやかな海は上手(じょうず)な船乗りを作らぬ」と前向きに捉え),乗り越えていけるのではないでしょうか。もちろん,境遇が私たちに与える影響は決して小さくありませんが,どのような境遇にあろうとも,自分は幸せであると感じているなら,その人は幸せなのですから,私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇を私たちがいかに受け止めるかということなのではないでしょうか。物事の受け止め方が変わらない限り,境遇がいくら変わっても不幸な状況からなかなか抜け出せないという例はよく見かけます。そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど不可能なのですから,私たちは,どのような境遇にあろうとも,感謝する気持ちを忘れることなく,常に自足し,生きていることそれ自体に幸せを感じられるように,自分の心持ちを改めることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。境遇を自分の思い通りに変えることに大切な時間やエネルギーを浪費すればするだけ,結局は不平不満や被害感や他罰的(他責的)な傾向ばかりを強める結果になってしまうと思うからです。

 

(8)今この瞬間を疎(おろそ)かにせず,常に心を込めて今を生き,今を楽しみ,今を味わい尽くせるようになるということも,幸せであるための重要なポイントである。

 過去(記憶)や未来(想像)に心を奪われたり,他者との勝負や世間の評価に気を散らしたり,内面の物足りなさや憂さを紛らわせようとして過剰な刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事に忙殺されたり,雑多な情報に心を惑わされたりして上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づくことは難しいのではないでしょうか。人生にまれに訪れる大きな(派手で目立つけれども意外に底の浅い)幸せには気づけたとしても,人生に隠されている無限とも言える小さな(地味で目立たないけれども意外に底の深い)幸せには,なかなか気づけないのではないでしょうか。したがって,いま自分の目の前にある幸せを見逃すことなく,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,様々な呪縛や雑念から解放され,心静かにゆったりと,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや生きている実感を十分に噛(か)み締めながら,常に心を込めてマインドフルに今を生き,今を楽しみ,細部に至るまで丁寧に(「神は細部に宿る」と言います。)今を味わい尽くせるようになる必要があると思います。そして,そのためにも,世の中が無常であることや(世の中に変化しないものは何もありませんが,これは一つの希望でもあります。),人生が短く(「光陰矢の如(ごと)し」,「歳月人を待たず」),命がはかないものであることを常に念頭に置きながら生活する必要があると思います(とはいえ,無常であることを嘆いたり,死を恐れてじたばたしたりする必要などなく,生きている間は思い残すことがないように人生を大いに楽しみながら真に人間らしい実り多い人生を送り,死に臨んでは,それを泰然自若と受け止め,この世の中に生まれてこれたことや,これまで生きてこれたことを感謝しながら人生を閉じればよいだけのことであるとは思いますが。)。また,呼吸や飲食や歩行などの行動のみならず,欲望や感情や思考なども含め,今この瞬間に自分が体験していることに対して常に心を開き,関心を払い,自覚的である必要があると思います(あるがままの自分を注意深く観察したり,自分の心の声にじっと耳を傾けたりすることを通じて,私たちは自分というものを,ひいては,人間というものを深く知ることができます。また,自分の欲望や感情や思考に振り回されることなく,それらから適度に距離を置き,どのような状況においても心の目を曇らせることなく,心の平安を保つことも可能になります。)。私たちは現在にしか生きられないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから,人生を長い目で見つつも,今この瞬間を決して疎(おろそ)かにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントなのではないでしょうか。もちろん,将来を見越し,過去の反省を踏まえて現在やるべきことをやるということは大事なことですが,取り越し苦労や後悔ばかりして,心ここに在らずという状態で現在やるべきことが手に付かなくなってしまうというのでは,本末転倒であると思います。

 

(9)幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の肯定的な側面にも広く目を向け,他者や人生や自分自身を肯定できるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育ち,現在も恵まれない境遇に身を置くなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人たちが幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面けではなく,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要があります(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあるのではないでしょうか。例えば,人間の致死率は100パーセントですが,死があるからこそ生きる喜びもあり,生きる喜びがあるからこそ自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちも自然に湧いてくるのではないでしょうか。)。そして,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになる必要があります。これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかも知れませんが,本来,私たちの心には自然治癒的にバランスを回復させようとする力が備わっているのではないでしょうか。「誰も信じられない。」と言っている人の心の中にも,信じることのできる他者に巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって良いことなんか何もない。」と言っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちがきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と言っている人の心の中にも,自分自身をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。要は,そのような気持ちをいかに呼び覚まし(そのようなかすかな声をいかに聞き分け),いかに強化するかということであると思います。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも言うように,人間が大きく変化することは,文字どおり大変なことであると思います。しかし,できないと思って諦めてしまえば,どんな簡単なこともできません。諦めてしまえば,努力する必要がなくなり,その意味では楽になりますが,それでは何も変わりません。決して諦めないという覚悟を固め,本気で取り組めば,「案ずるより産むが易(やす)し」,「窮すれば通ず」という具合に道が開かれてくることも多いのではないでしょうか(なお,他者の支援や協力が必要な場合もあるかも知れませんが,人生を切り開いていくのはあくまでも本人であり,誰かが本人の代わりにその人の人生を切り開くことはできません。他者に下駄を預けることはできないのです。)。そもそも,生まれ付き不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に身を置けば必ず不幸になるという境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうのなら,多くの人間にとって幸せであることは儚(はかな)い夢であり,いま不幸な人間は死ぬまで不幸ということになってしまいます。幸不幸を決めるのは,最終的には本人次第なのであり,強い意志と勇気を持って自分を変えることさえできれば(人間は何歳になっても変わることができます。世の中は無常であり,変わらないもは何一つないのですから。),幸せになることは誰にでも可能なことであると私は信じています。人生はままならないものであり,「一難去ってまた一難」といった具合に人生に困難や苦労は付き物ですが,「明けない夜」や「やまない雨」はありませんし,「心頭滅却すれば火もまた涼し」という諺(ことわざ)もあります。人生に絶望してはいけないのだと思います。宇宙規模で考えれば,私たちの人生など一瞬の出来事であり,私たちの悩みなど砂つぶほどの重量も有していない場末の些事(さじ),あるいは,「コップの中の嵐」なのですから,何事も深刻に受け止め過ぎない方がいいのではないでしょうか。たった一度きりの人生です。どのような逆境にあろうと,幸せになることを諦めることなく,すなわち,決してやけを起こすことなく,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく(改めて言うまでもなく,人間を信頼するということは,他者のみならず,自分自身をも信頼するということです。),他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,自分がこの世の中に生まれてきたことや自分が今ここでこうして生きていることを肯定し,心から感謝できるようになるための前向きな努力を,「一念(一心)岩をも通す」という気持ちで辛抱強く続けていく必要があるのだと思います。私たちは,人間や人生を否定するためにではなく,人間や人生を肯定するためにこそこの世の中に生まれてきたのであり,生きているのですから。

 

2 幸せであることを大前提として,人間はいかに生きるべきなのか

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の願いであると同時に,有益無害な人生を送ることを願う人間にとっての義務であり,人生の大前提であると言える。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。幸せであることは,すべての人間の願いです。年齢も性別も職業も暮らしている国や時代も関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,(3)でも述べたように,自分は不幸であると思い込み,失意失望の淵(ふち)に沈む人間は,すぐに自暴自棄になっては道を踏み外しやすい上に,他者を妬んだり恨んだりしては,他者の足を引っ張ったり他者をも不幸な状況に巻き込もうとしたりしがちです。しかし,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。そのように考えるなら,幸せであることは,有益無害な人生を送ることを願う人間(特に,対人援助・対人サービスの仕事に従事している人間)にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

《幸せであることを大前提として,人間はいかに生きるべきなのか》

 

(11)自分を人間的に成長・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,人間として自然でまっとうな生き方である。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。結論を先に言えば,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けながら,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを手に入れることが何かを失うことであるとしても(何かを得るということは,何かを失うということです。自分は何を手に入れるために何を失おうとしているのか,ということだけは常に自覚していたいものです。),自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を人間的に成長・向上させ続け,思い残すことのない充実した人生を送りたい(できることなら,そのことを通じて多少なりとも他者の役に立ちたい,社会に貢献したい)と願うのは,人間として自然なことであり,まっとうなことであると思うからです(思い残すことのない充実した人生を送ることができれば,死をも安らかな気持ちで迎えることができるのではないでしょうか。)。また,宇宙や生物や人類が,もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば(だからこそ,一つのことを徹底的に掘り下げて深く知ることが,全世界を知り,全存在を知ることにつながっていくのではないでしょうか。),私たちは宇宙全体の,生物全体の,人類全体の一部分なのであり(宇宙,生物,人類というシステムの一部分なのであり),すなわち,私たちと世の中,私たちと他者は一体なのであり(互いに密接な関係を持ち,互いに支え合っているのであり),私たちは他者から切り離されて,他者と無関係に生きていくことはできません。人類は言わば運命共同体の関係にあるのですから,幸せであることを本気で願うのであれば,自分(自分たち)の幸せのみならず,他者の幸せをも本気で願い,自分の幸せを他者と分かち合うような生き方をこそ心がける必要があります。豊かで安全で便利な社会で生活していると,独り(孤立無援の状況)では生きていけないという事実をつい忘れてしまいがちですし,恵まれない境遇に生まれ育った人は,自分はこれまで誰にも頼らずに独りで生きてきたとの思いが強いかも知れませんが,実際には目に見える直接的なものも目に見えない間接的なものも含め,数知れぬ他者の支援や協力があればこそ私たちは生きていられるのです(他者を信じ,他者を頼ることができなければ,人間は決して生きていくことができません。生きるとは,すなわち,他者を信頼するということです。)。それらのことを正しく認識しさえすれば,他者を敵視して他者の足を引っ張ったり,他者を蹴落とすことに血道を上げるのではなく,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れることなく(そのことを通じて自分が幸せであることを常に実感しつつ),他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きるのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施す勿(なか)れ」という心構えで生きるのが(できる限り他者に害を与えないように生きるのが),人間として自然でまっとうな生き方であると思うからです。

 

《どのようにすれば自分を人間的に成長・向上させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,何歳になっても自分の成長・向上の可能性を信じ続けるとともに,初心を忘れずに謙虚さを保ち続けることが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることができるのでしょうか。重要なのは,自分で自分を見限ることなく,何歳になっても自分の成長・向上の可能性を信じ続けることであると思います。そして,決して慢心することなく,何歳になっても初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることだと思います(「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」という諺(ことわざ)もありますが,人間は本来,成長・向上するにつれてますます謙虚になっていくべきなのではないでしょうか。)。自分の成長・向上の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長・向上させ続けるためのエネルギーは湧いてきません。また,慢心すれば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分の無知や未熟を自覚しての真摯に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度(立ち止まって自分の経験を振り返り,失敗や過ちを素直に認めた上で,それらから学ぶべきことを十分に学び(経験を認識にまで高めて十分に消化し),それらを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,独り善がりになるとともに(独り善がりな善意・熱意ほど怖いものはありません。),そこで成長・向上は止まってしまいます。そして,成長や向上が止まってしまえば,現状を維持することさえ難しく,次第に退歩し(未熟な状態に逆戻りし),堕落するしか無くなってしまいます(「自慢高慢馬鹿のうち」,「自慢は知恵の行き止まり」とも言うように,自慢しない人の評価が上がりがちであるのに対し,自慢する人間の評価が下がりがちなのは,慢心した人間は柔軟性や向上心を失い,それ以上の成長・向上が望めないだけではなく,退歩・堕落していく可能性が高いとみんなが知っているからなのではないでしょうか。)。「知る者は言わず,言う者は知らず」と言うように,人間は,物事を深く知れば知るほど,それに伴って分からないことも増えてくるため,無口になりがちです。逆に,物事を浅くしか知らない人間は,生半可な知識を得て何でも分かったつもりになっては黙っていることが難しくなり,とかく自己顕示的に知ったか振りをしてしまいがちです(有名人が知ったか振りをすれば,その発言によって世論が誤った方向に導かれてしまう危険性がありますので,影響力のある人が,少なくとも自分が専門とし,得意とする分野以外について発言する際には,自分の発言が間違っている可能性を十分に踏まえた上で,できる限り控えめに発言する必要があると思います。)。また,何でも分かったつもりになってしまうと,分かっていることなど本当は高が知れているのに(大量の知識・情報を頭に詰め込みながら,自分が幸せに,人間らしく生きていくために必要な知識・情報はほとんど身に付けていない,ということもよくある話です。),それ以上分かろうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった退屈なものになってしまいがちです。加えて,人間は自惚(うぬぼ)れやすく(自分の短所や欠点や弱点にはなかなか目が向きにくく),すぐに油断しがちですが,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する(「策士策に溺れる」,「泳ぎ上手は川で死ぬ」という諺(ことわざ)もあります。),安心している時にこそ怪我(けが)をする(「油断大敵」,「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」と言われる理由はここにあります。),災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,などとも言います。人間が生きていくためには,特に若い人が自信を持って前向きに生きていくためには(劣等感に押し潰されないようにするためには),多少の自惚れは必要なのかも知れませんが,いい気になれば,ろくなことはありません(「自己評価(自分に対する自分の評価)」と「他者評価(自分に対する他者からの評価)」のズレは社会不適応のサインであるとも言われています。)。致命的な失敗を避けるためにも,せめて人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは常に持っていたいものです。短所や欠点や弱点は,それを根本的に改善することは難しくても,自覚することは比較的容易であり,自覚することによって短所や欠点や弱点に足をすくわれる危険性は格段に低下すると思うからです。なお,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分の狭い経験からだけではなく,他者の経験からも広く学ぶことが欠かせません。特に,人類の経験や英知の精髄とも言える古典的書物を愛読・精読・熟読することは,自分を人間的に成長・向上させ,人生をより善く生きる上でのヒントを得るための,非常に大切な機会になり得ると思います。真理に古いも新しいもなく,むしろ,時の試練に耐え続けるものこそが真理なのですから,「温故知新」という精神を忘れないようにしたいものです。

 

(13)自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,好きなことを見つけ,そこに理想を見いだし,その理想に近づくための努力を楽しめるということが重要である。

 「好きこそものの上手なれ」と言いますが,私たちは,好きなこと(多くの場合,自分の人生を切り開いていく上において何らかの必然性が感じられること)だからこそ,困難や苦労にも耐え,努力し続けることができるのではないでしょうか。そして,長年努力し続ければこそ,上達もし,人間的に成長(成熟)・向上することもできるのではないでしょうか。そのように考えるなら,自分を人間的に成長・向上させ続けるためには,自分が本当にやりたい好きなことを見つけ,あるいは,自分がやっていることを本当に好きになり,そこに自分なりの理想を見いだし,その理想に近づくための努力を心から楽しいと思えるということが重要であることが分かります(努力することを楽しいと思えるようになるためには,そのように努力できることの有り難さに気づけるようになり,感謝する気持ちを忘れないということも重要であると思います。何事も嫌々やったところで得られるものは何もなく,不満や疲れがたまるだけですので,少なくとも,やらなければならないことについては,嫌々やるのではなく,それに全身全霊で取り組むことによって何らかの楽しさや喜びを見いだし,少しでも好きになれるように努力・工夫する必要があるのではないでしょうか。努力や工夫をさらに極めることで,それが自分が本当にやりたいと思う好きなる可能性は高いと思います。)。なお,その際に掲げる理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません。むしろ,簡単に到達できてしまうようなものでは,人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,「少年よ大志を抱け」という言葉どおり,理想は高ければ高いほど,遠いものであればあるほどよいとさえ言えます。自分が本当にやりたいことや理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのがより一般的であるとは思います。しかし,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,行き当たりばったりになりやすく,困難や苦労に耐えて常に前進し続けるということは難しいのではないでしょうか。また,自分が信じることのできる理想がなければ,自分が目指すべき方向性が定まらず(目的地を定めずに散策することにも,息抜きとしての意味はあるのでしょうが。),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,自分の可能性を十分に花開かせることができないまま人生に悔いを残してしまう可能性が高いので,理想を持つことは重要であると思いますが,自らが掲げた理想に縛られて身動きが取れなくなり,かえって成長・向上が止まってしまうというのでは本末転倒です。したがって,理想は成長・向上に伴う変化に応じてある程度柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思います。人間が考えることに完璧ということはありません。理想についても,いったん掲げた理想にこだわり,固執するのではなく,常に開かれた心で謙虚に見直し,より善いものに修正していくべきであると思いますし,必ずしも理想を一つに限定する必要はないのではないかとも思います。

 

(14)自分が信じる理想に向かって前進し続けることこそが重要なのであり,他者との勝負や世間の評価などを気にして大切な時間やエネルギーを浪費すべきではない。

 人間的に成長(成熟)・向上するというのは,自足しつつも謙虚さや向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる理想に向かって(より善い,より人間らしい生き方を目指して)一歩一歩着実に前進するということです(自足してしまったら,そこで人間の成長は止まってしまうと考える人もいるようですが,常に満ち足りた気持ちでいながら,何歳になっても自分が信じる理想に向かって前進し続けるということは可能なのではないでしょうか。)。他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,世間から評価されようとして右往左往したりする必要などまったくありません(世間の評価や大多数の意見や多数決の結果がいつでも正しいとは限りません。また,声高な意見には世間の注目が集まりがちですが,声の大きさに惑わされないようにしたいものです。)。「十人十色」と言うように,人間には人それぞれの生き方があります。自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を得たりすることよりも(それらは,自分がやりたいことに打ち込み,最善を尽くした結果として,後から付いてくるものであり,人生の目標や目的とすべきものではないと思います。実際,それらを手に入れたからといって人生がより善いものになるとは限りませんし,それらを手に入れることによって失うものも決して少なくないと思います。),自分自身に打ち克ち,自分が信じる理想に一歩でも近づくことの方が重要なのではないでしょうか。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,人生の目標や目的は他者と競い合って大きな成功を手に入れることではありません。改めて言うまでもなく,経済的な豊かさと人生の豊かさはまったく別のことです(経済的な勝者が人生の勝者であるとは限らないにもかかわらず,貧乏であることをことさら悲惨なものとして捉え,忌避する傾向は,いったい何に由来するのでしょうか。)。そもそも,生きているということは,それ自体に大きな値打ちがあるのであり(生きているということは一つの奇跡です。この世の中に,生命現象以上の奇跡があるでしょうか。),他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません(生きていることそれ自体に幸せを感じ,心から感謝できるようになるなら,このことは実感としてよく理解できるのではないでしょうか。)。他者との勝負など,所詮は「団栗(どんぐり)の背比べ」,「五十歩百歩」に過ぎません。私たちと他者は一体なのですから,本来勝ちも負けもないはずです。また,世間は私たちが思っているほどには私たちに関心や期待を持っていませんし,私たちのことを正しく理解していません。したがって,毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂する必要などまったくありません。他者から悪口を言われたからといって(あるいは,評価されないからといって)落ち込んだり,他者から褒められたからといって有頂天になったりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか。特に,他者の短所や欠点や弱みを指摘して平気で悪口を言えるということは,自分の短所や欠点や弱みが見えていないということ,すなわち,心の目が曇っていてあるがままの現実を見ることができていないことを示しているのですから,そのような人間の言葉を真に受ける必要などまったくないと思います。世間から評価されればうれしくなるのが人情ですし,日本人は世間の評価を過度に気にしやすい国民とも言われていますが,評価において重要なことは,評価してくれる人の数ではなく質です(なお,称賛されたり,脚光を浴びたりすることが多くなれば,誹謗(ひぼう)中傷されたり,罵詈(ばり)雑言を浴びせられたり,足を引っ張られたりすることも多くなるのがこの世の常ですし,調子に乗れば後で必ず痛い目を見ることになりますので,世間から評価されるような状況に至ってしまった場合には,一段と気を引き締める必要があると思います。)。「負けるが勝ち」,「大賢は大愚に似たり」などとも言うように,人生において他者との勝ち負けや世間の評価など,取るに足りないことです。もちろん,人間が生きていく上において世の中に適応することは欠かせないことですし,私たちが好きなことに打ち込み,自分の可能性を十分に花開かせることができるのも,その他のことを数知れぬ他者が負担し,分担してくれているおかげなのですから,世の中に対する関心や他者に対する感謝の気持ちを失ってはいけませんし,他者に対する支援や協力は進んで行うべきであると思います。また,自分を過信し,独善に陥らないようにするためにも,内外に対して常に心を開き,自分の心の声や他者の言葉(特に耳が痛いと感じられる言葉)に謙虚に耳を傾ける姿勢を保ち続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負にこだわる余り自分が信じる理想に向かって前進することを後回しにしてしまったり,無責任で気まぐれな世間の評価に振り回された挙げ句,自分自身や自分が進むべき道を見失ってしまったり,自分の信念をねじ曲げるようになってしまったりしたのでは(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け続けた末に自分自身が本当にやりたいことが分からなくなってしまったり,いつしか自分自身が信じられなくなり,自分を嫌い,自分を憎み,自分をないがしろにするようになってしまったりしかねません。),元も子もありません。たった一度きりの人生なのですから,心の目を曇らせることなく,心の平安を保ち続けるためにも,他者との勝ち負けや世間の評価などはあまり気にせず(「君子危うきに近寄らず」,「三十六計逃げるに如(し)かず」という諺(ことわざ)もあります。),自分がやるべきことにこそ心を集中し,自分が本当に納得できる生き方を貫くことや,自分が進むべき道を邁進(まいしん)することにこそ大切な時間やエネルギーを費やすべきであると思います。

 

(15)人生が行き詰まった際には,その原因や責任は自分にあると考え,自分にできることに最善を尽くすことによって行き詰まりを打開しようとするのが賢明である。

 人生が行き詰まった際に,それを他者や運命のせいにしてに恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても人生の行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,他者や運命を自分の思い通りにすることなどで絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかも知れませんし,自分で努力するよりは他者を恨んで他者を不寛容に責め立てたり,運命を呪って不運を嘆き悲しんだりしている方が楽かも知れません。しかし,人生の主人公はあくまでも自分なのであり,人生の主導権(自分の人生をどのように生きるかを選択する権利)は絶対に手放すべきではないと思います。「天は自ら助くる者を助く」という諺(ことわざ)もあります。人生の行き詰まりを本気で打開したいと望むのであれば,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(自分にもある)と考え方を改め(人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にはないと考えている限り,その行き詰まりを自分の努力で打開しようとはなかなか思えないものです。),とにかく自分にできること(自分の考え方や生き方を変えることも含め。)に最善を尽くし,自分にできることを一つ一つ全力でこなしていくことで人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,他者任せ,運命任せにするのではなく,自分の人生を自分の努力によって主体的に切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。なお,私たちと世の中は一体なのですから,世の中の一部分である私たち一人一人がより善い方向に変わっていくことによって,世の中がより善い方向に変わっていく可能性は十分にあると思います(逆の見方をすれば,世の中に問題があるのは,私たち一人一人が問題を抱えているからなのかも知れません。)。

 

《どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのか》

 

(16)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にすることなどに加え,まずは自分自身が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことができるのでしょうか。そもそも,私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分を信じて自分に対して心を開けるからこそ他者を信じて他者に対して心を開けるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分と折り合えるからこそ他者と折り合えるのであり,自分自身が幸せであるからこそ,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分を大切にし,自分を信じて自分に対して心を開き(心のバランスを保つためにも,自分に嘘(うそ)をつくことなく自分の心の声にきちんと耳を傾けることが大切です。),自分を理解し,自分と折り合うとともに,まずは自分自身が幸せであるということが重要であると思います。なお,世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者の幸せのために何かをしたいという人がいるかも知れませんが,自己犠牲的な行動の背景には,何らかの見返りを求める気持ちが無意識的に存在しているものですし,そもそも,自分を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にすることができるでしょうか。たとえ,その自己犠牲的な行動が何ら見返りを求めないものであったとしても(例えば,子供に対する親の自己犠牲的行動のように),他者の幸せを犠牲することによって幸せになれた人は,そのことを心の底から喜ぶことができるでしょうか。自分が幸せであることと利己的であることとは(自分の幸せを犠牲にすることと利他的であることとは),まったく別のことです。幸せであることに定員などなく,心の持ち方次第で誰もが幸せになれるのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが幸せを犠牲にする必要などまったくなく,他者の幸せを本気で願うのであれば,他者の幸せのために自分の幸せを犠牲にすべきではないと思います。

 

(17)対人関係においては,できる限り寛容になるとともに,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がけるべきである。

 誰の心の中にも例外なく善人と悪人が同居しています(長所と短所,美点と欠点,強みと弱み,肯定的な側面と否定的な側面が共存しています。)。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします(傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,他者によって癒される機会もなくなってしまいます。)。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。この世の中に,完全な善人,完全な悪人などというものは存在しません(なお,善人の真似をし,善人の振りをし続けるなら,その人は善人と呼ばれ,悪人の真似をし,悪人の振りをし続けるなら,その人は悪人と呼ばれます。)。どんな善人の心の中にも悪人は住んでいますし,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいます。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,その他者は悪人としてしか私たちの目の前に立ち現れることができません(「疑心暗鬼を生ず」という諺(ことわざ)もあります。)。他方,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向け,その善人を呼び覚ますことができれば,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。他者は,私たちの対応次第で善人にも悪人にもなり得ます。「子供好きは子供が知る」という諺(ことわざ)もありますが,そもそも,こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれるため,互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるため,対話することさえ不可能になってしまう(口論や多くの議論が不毛な理由は,ここにあります。),というのが普通の人間関係なのではないでしょうか。極端な話,相手との間に深い信頼関係が築かれていれば,何も話さなくても「以心伝心」で分かってもらえますが,相手との間に信頼関係が築かれていなければ,どんなに話をしても分かってもらうことはできません(分かる人は他者から言われなくても分かるし,分からない人は他者から言われても分からないということもあるのでしょうが。)。したがって,対人関係においては,相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(いったん嫌いになって距離を取るようになってしまうと,関係を修復する機会がなくなり,あとから好きになることはほぼ不可能になってしまいます。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになるように心がけることが,相手にとっても私たちにとっても望ましいことであると思います。善人がなかなか見当たらない場合でも,将来善人になる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて粘り強く,共感的に向き合い続けることが大切なのではないかと思います。私たちはみな同じ人間(人類の一員)なのであり,また,私たちと他者は一体なのですから,他者を敵と見なして互いに意地悪く足を引っ張り合って生きていくのではなく,他者を仲間と見なして互いに仲良く助け合いながら生きていきたいものです。なお,人間が犯す失敗や過ちは,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。たとえ他者に非があったとしても,見下したり,嘲笑したり,鬼の首でも取ったように正義を振りかざして声高に責め立てたりするべきではなく,できる限り寛容になり,「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(吉野弘の「祝婚歌」)という姿勢で対応したいものです。他者を軽んじたり,非難したりするのは,自分が偉くなったようで気分が良いかもしれませんが,愛情に裏打ちされていない言葉は相手の心に届かず,相手の成長や更生につながりませんし,厳しく不寛容に責め立てるだけでは,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,相手の成長や更生をかえって困難にさせてしまう危険性が高いと思うからです。もちろん,自分の意見を表明するのは自由ですが,その自由の中に他者に害を与える自由など含まれていないはずです。また,自分の意見が通らないからといって,他者を恨んだり,他者の足を引っ張ろうとしたり,他者に危害を加えようとしたり(損害を与えようとしたり)するのは,まったくのお門違い,見当違いであると思います。

 

(18)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生に満足するとともに,自分が進むべき道が明確化されているということも重要である。

 私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,あるいは,自分が進むべき道が明確化されていないからこそ,自分と他者を比較しては他者との勝負にこだわり,他者を競争相手(敵)と見なして張り合ってしまうのではないでしょうか。そして,挙げ句の果てには,他者を妬んでは他者の足を引っ張ったり,自分を不幸であると哀れんでは卑屈になったり(私たちは,「隣の芝生は青い」,「隣の花は赤い」,自分の荷物が一番重いと思いがちです。),自分が不幸であることを他者のせいにしては他者を恨んで不寛容に責め立てたり,逆に,他者を見下しては他者を軽んじたり,おごり高ぶっては居丈高になったり(自分の卑屈さを打ち消すかのように),自分の成功を自分だけの手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任(本人だけの責任)であると決め付けて他者を切り捨てたりしてしまうのではないでしょうか。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うためには,自分の人生が数知れぬ他者の支援や協力によってこそ成り立っているという事実を正しく認識した上で(もちろん,自分が他者の人生の支えになり得ている可能性も十分にあるとは思いますが。),常に満ち足りた気持ちで生活できるように自分の心の持ち方を改め,育て上げることや,人生の指針を明確化すべく自分が信じることのできる理想を見いだし,見失わないでいることなども重要であると思います。自分の人生に自足できている人や,自分なりの理想に向かって邁進(まいしん)している人にとっては,自分と他者を比較することや,他者との勝負に勝つことなどどうでもいいことであるに違いないと思うからです。

 

(19)不幸な状況にある他者が幸せになるための支援や協力をすることは,数知れぬ他者の支援や協力があってこそ生きていられる私たち人間にとっての最低限の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分自身をないがしろにするようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せなくなってしまっている人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,彼らや彼女らが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるように,そして,そのことを通じ,感謝する気持ちを思い出すとともに自分が幸せであることに気づき,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるように,彼らや彼女らの苦しさや悲しさを共感的に理解することに努めるなど,慎み深く自分にできる限りの支援や協力をしたいものです。「情けは人の為(ため)ならず」とも言いますし(私たちと他者は一蓮托生(いちれんたくしょう)の運命にあるわけですから,他者を大切にし,他者を益する行動は,回り回って自分を大切にし,自分を益することにつながりますし,他者を粗末に扱い,他者を害する行動は,回り回って自分を粗末に扱い,自分を害することにつながるのではないでしょうか。),不幸な状況にある他者が幸せになるための支援や協力をすることは,数知れぬ他者の支援や協力があってこそ生きていられる私たち人間にとっての,あるいは,たまたま恵まれた境遇に生まれ育った幸運な人間にとっての最低限の務め(優越感を味わいながら行うようなことではなく,当然のこととして,あるいは,自分が幸運に恵まれていることの負い目を感じながら行うべきこと)であると思うからです。

 

(20)より人間らしい生き方を模索・探究しつつ,自分の生き様を通して善い生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の第一の務めである。

 「子供に勝る宝なし」,「子供は親の背中を見て育つ」,「子供は大人の鏡」などと言いますが,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく(子供たちには,失敗する権利,すなわち,失敗や過ちから様々なことを学ぶ権利がありますが,自分の失敗や過ちから学べるのは,それらが自分の意志や責任においてなされた場合に限ります。),自分の生き様を通して善い生き方の手本を示すことこそが,大人としての第一の務めであると思います(自分が気持ち良いだけの建前的な説教よりも,どうしても本音がにじみ出てしまいがちな自分の生き様にこそ,説得力や重みがあると思います。)。大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝する気持ちを忘れることなく足るを知ることや,自分が信じる理想に向かって前進し続けることや,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合うことなどよりも,経済成長を優先し,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れることを高く評価している現状のままでは,子供たちが曇りのない眼や心の平安を保ちつつ,真に人間らしく実り多い,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)なのではないでしょうか。まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,「どのようにすれば幸せになれるのか(私たちはどのようにすれば生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることができるのか)」,「人間はいかに生きるべきなのか(真に人間らしく実り多い人生を送るために私たちはいかに生きるべきなのか)」といったことを真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない,回りくどく無意味な作業に感じられるかも知れませんが。),その上で拝金主義等の偏った価値観を改め(改めて言うまでもなく,お金は人生の手段であるに過ぎず,目的ではありません。生きていくのにお金は不可欠ですが,私たちは生きるためにお金を稼いでいるのであり,お金を稼ぐために生きているのではありません。「地獄の沙汰も金次第」とは言いますが,拝金主義に染まってしまえば,物事はすべて金銭的価値によって評価されるようになり,私たちは金の亡者になってしまいます。たった一度きりの人生を金儲(もう)けに費やしてしまって,本当に後悔しないでしょうか。),より善い,より人間らしい生き方を模索し,探究する必要があると思います。

 

 

2020年10月3日更新