実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 人生は,すなわち,この世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。せっかくなら,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送りたいものです。そして,できることなら,幸せなだけでなく,真に人間らしく実り多い,自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な人生を送りたいものです。私たちの土台を築いているのは過去の経験,さらに言えば遺伝であり,また,私たちが環境から受ける影響もけっして小さくはありませんが,それらによってすべてが決定されてしまうわけではありません。私たちは過去の経験や遺伝や環境の奴隷ではありません。私たちには自由意志というものがあるのであり,過去を変えることはできませんが,現在や未来は自分の意志によって変えることが可能であり,また,環境を自分の思い通りに変えることはできませんが,自分を変えることは自分の意志次第で可能です。どのような過去を持とうが,どのような環境に置かれようが,人生を自分の努力によって切り開いていこうとする強い意志さえあるなら,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であると私は信じています。皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように! *なお,このブログの内容のほとんどは,電子書籍(Kindle版『実り多い幸せな人生を送るために』)の形で御覧になることもできます。

「私たちはどのようにすれば幸せであることができるのか」及び「幸せであることを大前提として私たちはいかに生きるべきなのか」

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1 私たちはどのようにすれば幸せであることができるの

 

 

《幸せとは》

 

(1)幸せとは,幸せであることに気づくことである。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。幸せとは,幸せであることに気づくことである,と言います。私たちはすでに十分すぎるほど幸せなのに,私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに,私たちには生まれつき幸せであるための条件がすべて備わっているのに,幸せであることが私たちの「デフォルト(基調)」なのに(例えるなら,どんなに天気の悪い日でも雲の上には青空が広がっているのに),そのことに気づいていないだけなのだと。そのことに気づくことさえできれば,「山のあなたの空遠く」に幸せを探し求めたり,追い求めたりするまでもなく,私たちは誰でも幸せであることができるのだと。幸せであるために,財産や地位や権力や名声などを手に入れる必要などないのだと(むしろ,財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという思い込みこそが,それらに対する執着を生じさせ,ひいては私たちを不平不満・自暴自棄・妬みそねみ・恨みつらみ・失意失望といった心理状態に追い込み,私たちが幸せであることを難しくさせているのではないでしょうか。)。幸せに定員などなく,幸せであるために他者を競争相手(敵)と見なして先を争ったり,席を奪い合ったりする必要などないのだと。

 

(2)幸せであることに,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎる。

 きっと誰もが,死ぬ瞬間には,ほとんど無欲(無邪気)に近い状態になり,様々な執着や不平不満などから解放され,曇のない眼であるがままの現実を正しく見られるようになることもあり,生きているということは,ただそれだけで十分に幸せなことだったんだなあ,この世の中に生まれてきたことは,本当に幸せなことだったんだなあ,と気づき,感謝の気持ちを新たにするのではないでしょうか。しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生はたった一度きりです。その人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。どんなに長生きしたとしても,その人生が幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありません。私たちは,幸せであるべきであり,幸せであることにこそ最大限の関心を払い,幸せであることをこそ人生の最優先課題とすべきであると思います。

 

(3)道を踏み外すことなく,有益な人生を送るためにも,幸せである必要がある。

 自分は不幸であると錯覚している人間は,「道を踏み外しても失うものは何もない」と勘違いしていることもあり,やけを起こしては自制心を失い,衝動的に道を踏み外しやすい上に,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちです(なお,被害経験が加害行動の背景に存在している場合もありますが,被害経験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害経験を有しながらもそれらを乗り越え,幸せな人生を送っている人はたくさんいると思います。)。そして,多くの場合,銃弾で与えるよりも深刻な,取り返しのつかない傷を相手に与える可能性があることさえ想像せずに,同類と徒党を組んで幸せそうな他者を不寛容に(自分のことは棚に上げて)声高に責め立て,見下し,軽んじることによって,場合によっては,直接的な危害を加え,損害を与えることによって,内面に鬱積されている不平不満や恨みつらみの感情などを多少なりとも晴らそうとします(したがって,自分は不幸であると錯覚している人間が増えれば増えるほど,犯罪や非行が増えるとともに,世の中は不寛容でとげとげしいものになり,争い事なども増えていきます。)。その結果,自分をますます不幸で惨めな孤立した状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまうわけですが,せっかくなら,そのような無益で有害な人生ではなく,自分を大切にしながら正しい道を歩めるような,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合えるような有益な人生を送りたいものです。

 

 

《私たちはなぜ幸せであることになかなか気づけないのか》

 

(4)欲望を際限なく肥大化させるとともに感謝の気持ちを忘れるなら,いま自分の目の前にある幸せに気づくとさえ難しくなってしまう。

 私たちは,なぜ幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。欲望には切りがなく,欲望の肥大化を自制しない限り,満ち足りるということはありません。たとえどんなに多くのものを持っていたとしても,欲望の肥大化に歯止めをかけることができなければ,私たちは満足することができず,また,多くのものを持つことによって幸せを感じ取る感度が鈍ってしまうため,持っているものの有り難さも実感できず,心は貧しいままです(持っているものが多く,豪華で贅沢(ぜいたく)な生活に慣れているからこそ,欲望の肥大化を自制することができないという面もあるかもしれませんが)。にもかかわらず,私たちは,より多くのものを持てば満たされ,幸せになれると勘違いし,ますます貪欲になり,欲望を際限なく肥大化させてしまいがちです。そして,この過度に豊かで便利な暖衣飽食の生活を当たり前と思い(人間はどのような状況にも慣れると言いますが,どのように恵まれた状況にもすぐに慣れてしまいます。),今ここでこうして生きていられることの有り難さ(まさに奇跡)や他者に対する感謝の気持ちを忘れてしまいがちです。さらには,普通の平凡な人生を無価値と見なすようなおごったものの見方をするようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着して他者と敵対するようになってしまったり(財産などを手に入れるためには,他者と競い合う必要があり,必然的に他者を競争相手(敵)と見なすようになってしまうのではないでしょうか。),思い上がった末に人生は何でも自分の思い通りになるはずだと勘違いして人生に対する不平不満ばかりを募らせては被害的になり,人生が自分の思い通りにならないことを他者や運命のせいにして他者を恨み,他者を責め立て,不運を嘆き,運命を呪うようになってしまったりしまいがちです。その結果として,私たちは,自分は不幸であると思い込むようになるとともに,心の眼を曇らせ(心の平安を失い),いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 

(5)いま自分の目の前にある幸せに気づけないのは,世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまったためかもしれない。

 あるいは,恵まれない境遇に生まれ育ち,現在もそのような境遇に置かれるなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,そのような偏った物事の捉え方を修正する機会を持つことができないまま他者を憎んで他者に対して心を閉ざし,人生を憎んで人生を悲観し,自分自身を憎んで自分自身をないがしろにするようになってしまったために,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちを忘れるとともに,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまっているのではないでしょうか。

 

 

《私たちはどのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのか》

 

(6)欲望の肥大化を適度に自制するとともに感謝の気持ちを思い出し,足るを知ることができるなら,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになる。

 私たちは,どのようにすれば幸せであることに気づけるようになるのでしょうか。たとえ少しのものしか持っていなくても,欲望の肥大化に歯止めをかけることができるなら,私たちは満足することができ,また,持っているものが少ない分,幸せを感じ取る感度が鋭くなるため,持っているものの有り難さも実感でき,心豊かに生活することができます(持っているものが少なく,簡素で清貧な生活に慣れているからこそ,欲望の肥大化を自制できるという面もあるかもしれませんが)。したがって,私たちは,より多くのものを持てば満たされ,幸せになれるという勘違いを正し(どのようにすれば幸せであることができるのかということを真剣に考え直し),欲望の肥大化を適度に自制できるようになる必要があるのではないでしょうか(簡素で清貧な生活は,強制されればただの貧しい生活かもしれませんが,自分の自由意志に基づいて選択した場合には,最も豊かな生活(シンプルライフ)になり得ます。)。そして,この過度に豊かで便利な暖衣飽食の生活を当たり前と思うことなく,今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ち(「ありがとう」という感謝の言葉の真意)を胸いっぱいに思い出す必要があるのではないでしょうか。さらには,足るを知る(欲張らずに現状に満足できるようになる)ことで,普通の平凡な人生を無価値と見なすようなおごったものの見方を改めたり,財産や地位や権力や名声などに対する執着を捨てて他者と仲良く助け合えるようになったり,不平不満や被害感を募らせたり恨みつらみの感情をこじらせたりすることなく,人生はままならないものであるということを謙虚に受け入れられるようになったりする必要があるのではないでしょうか。その結果として,私たちは,自分は不幸であるという思い込みから目を覚ますとともに,曇りのない眼(心の平安)を取り戻し,いま自分の目の前にある幸せに気づけるようになり,ひいては,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのだと思います。

 

(7)幸不幸を最終的に決めるのは私たちの心持ちであり,心持ちを変え,幸せを感じ取る感度を上げることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきである。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,大きな成功を手に入れなくても),いつもと変わらないありふれた毎日を送っていても,あるいは,困難や苦労が付き物のままならない人生に悲しさやつらさを味わっていたとしても,ふとした瞬間にしみじみと幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。同じような境遇に置かれていても,不平不満を募らせることなく,楽しそうに機嫌よく生きている人もいれば,不平不満に凝り固まり,つまらなそうに不機嫌に生きている人もいるように(なお,不機嫌な人は周囲をも不機嫌にしがちであり,機嫌が悪いというのは一種の迷惑行為,極端に言えば犯罪行為と言えるのではないでしょうか。),物事の受け止め方を変えることさえできれば,すなわち,強い意志と勇気を持って自分の心持ち(心構えや心がけ)を変えることによって幸せを感じ取る感度を上げることさえできれば(これは自分の意志次第で十分に可能なことです。),自分が置かれている境遇とは関係なく,幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,普通の平凡な人生にさえ無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになり,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか(ただ水を飲んだり,息を吸ったりというささいなことにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,どのような逆境にあっても,それに押し潰されることはなく,むしろ,それを試練として受け止め,前向きに乗り越えていけるようになるのではないでしょうか。)。もちろん,境遇が私たちに与える影響はけっして小さくはありませんが,私たちの幸不幸を決めるのは,最終的には境遇ではなく,その境遇をいかに受け止めるかということなのではないでしょうか。そもそも,境遇を自分の思い通りに変えることなど絶対に不可能なのですから,私たちは,どのような境遇に置かれても常に自足し,幸せであり続けられるように,自分の心持ちを変えることにこそ大切な時間やエネルギーを使うべきであると思います。

 

(8)上の空で生きるのではなく,心を込めて今この瞬間を生き,楽しみ,味わい尽くせるようになるということも,幸せであるための重要なポイントである。

 なお,過去(記憶)や未来(予想)に心を奪われたり,他者との勝ち負けや世間の評価に気を散らしたり,目先の刺激や興奮やスリルに我を忘れたり,雑事に追い立てられたりして上の空で生きている人間が,いま自分の目の前にある幸せに気づき,生きていることそれ自体に幸せを感じるということは難しいのではないでしょうか。人生にまれに訪れる派手で目立つ大きな(意外に底の浅い)幸せには気づけたとしても,人生に隠されている無限の地味で目立たない小さな(意外に底の深い)幸せには,なかなか気づけないのではないでしょうか。したがって,いま自分の目の前にある幸せを見逃すことなく,ありきたりな日常生活や普通の平凡な人生にさえ無限の生きる喜びや幸せを見いだせるようになり,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるためには,様々な雑念から解放され,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや生きている実感を心静かに噛(か)み締めながら,心を込めて(マインドフルに)今この瞬間を生き,今この瞬間を楽しみ,細部に至るまで丁寧に今この瞬間を味わい尽くせるようになる必要があると思います(「神は細部に宿る」と言います。)。そして,そのためにも,世の中が無常であることや,人生が短く,命がはかないものであることを常に念頭に置きながら生活する必要があると思いますし(とはいえ,無常であることを嘆き,あるいは,死を恐れてじたばたする必要はなく,生きている間は悔いが残らないように一瞬一瞬を大切にしながら人生を思う存分に味わい尽くし,死が訪れた際には従容と死を受け入れ,感謝しながら人生を閉じればよいだけのことだとは思いますが),呼吸をはじめ,今この瞬間に自分が体験していることに対して常に自覚的であり,心が開かれている必要があると思います。私たちは現在にしか生きられないのであり,幸せであるというのは現在が幸せであるということなのですから,生きている今この瞬間をけっしておろそかにしない,ということも,幸せであるための重要なポイントなのではないでしょうか。

 

 

(9)幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面のみならず,肯定的な側面にも広く目を向けられるようになる必要がある。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになってしまった人たちが幸せであることに気づけるようになるためには,世の中の否定的な側面のみならず,世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり(老いることや死ぬことにさえ肯定的な側面はあるのではないでしょうか。例えば,人間の致死率は100パーセントですが,死があるからこそ生きる喜びもあり,生きる喜びがあるからこそ自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さや他者に対する感謝の気持ちも自然に湧いてくるのではないでしょうか。),他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになる必要がある思います(私たちの心にはバランスを回復させようとする自己治癒的な力が自然に備わっており,「他人なんか誰も信じられない。」と言っている人の心の中にも,信じることのできる他者と巡り会いたいという気持ちはきっと残されていると思いますし,「生きていたって何も良いことなんかない。」と言っている人の心の中にも,人生に対する希望を完全には失いたくないという気持ちがきっと残されていると思いますし,「自分なんかどうなったって構わない。」と言っている人の心の中にも,自分自身をこれ以上粗末に扱いたくないという気持ちはきっと残されていると思います。)。これは「言うは易(やす)く行うは難し」であるかもしれませんが,できないと思って諦めてしまえば,どんなに簡単なこともできませんし,逆に,できると思って本気で取り組めば,「案ずるより産むが易(やす)し」という結果になることもあるのではないでしょうか。そもそも,生まれつき不幸な人間などいませんし,このような境遇に生まれ育てば,あるいは,このような境遇に置かれれば必ず不幸になるという境遇などありません。境遇によって私たちの幸不幸が決まってしまうのなら,多くの場合,幸せであることはかない夢であり,不幸な人間は死ぬまで不幸のままということになってしまいます。幸不幸を決めるのは,最終的には本人次第であり,自分を変えることさえできれば(他者の支援や協力が必要な場合もあるかもしれませんが,人間は何歳になってもきっと変わることができます。),幸せになることは誰にでも可能なことであると私は信じています。人生はままならないものであり,人生に困難や苦労は付き物ですが,人生に絶望してはいけないのだと思います。たった一度きりの人生です。どのような逆境にあろうと,幸せになることを諦めることなく,すなわち,けっしてやけを起こすことなく,人間に対する信頼や人生に対する希望を見失うことなく,他者や人生や自分自身を肯定できるようになるための,自分がこの世の中に生まれてきたことを肯定し,感謝できるようになるための前向きな努力を,「一念(一心)岩をも通す」という気持ちで忍耐強く続けていく必要があるのだと思います。

 

 

2 幸せであることを大前提として私たちはいかに生きるべきなのか

 

 

《なぜ幸せであることが人生の大前提なのか》

 

(10)幸せであることは,すべての人間の究極的な願いであると同時に,有益な人生を送ることを願う人間にとっての義務である。

 なぜ幸せであることが人生の大前提なのでしょうか。幸せであることは,すべての人間の究極的な願いです。性別も職業も暮らしている国や時代もまったく関係ありません。誰もが幸せであることを願っています。一見そのように見えない人でも,心の底では幸せであることを願っているのだと思います。人生が生きる喜びに満ちた幸せなものでなかったとしたら,この世の中に生まれてきた甲斐(かい)がありませんし,上述したように,自分は不幸であると錯覚している人間は,やけを起こしては道を踏み外しやすい上に,理不尽にも他者の幸せを妬み,他者をも不幸な状況に巻き込もうとしがちですが,そのような無益で有害な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。私たちは,自分が幸せであるからこそ,「道を踏み外すことによって今の幸せを失いたくない」という思いもあり,自分を大切にしながら正しい道を歩むことができるのであり,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのですから,幸せであることは,有益な人生を送ることを願う人間にとっての義務であるとさえ言えるのではないでしょうか(対人援助・対人サービスの仕事に従事している人間にとっては,まさに義務と言えます。)。幸せであることを人生の目標やゴールではなく,人生の大前提であるとする理由は,以上のとおりです。

 

 

《幸せであることを大前提として私たちはいかに生きるべきなのか》

 

(11)私たちは,自分を人間的に成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合って生きるべきである。

 私たちは,幸せであることを大前提として,いかに生きるべきなのでしょうか。結論を先に言えば,自分を人間的に成長させ続けながら,自分の幸せを慎み深く(自分が幸せであることの負い目を感じつつ)他者と分かち合って生きるべきである,ということになるのではないかと私は思っています。せっかくこの世の中に生まれてきたからには,たとえ何かを得ることが何かを失うことだとしても(何を得るために何を失おうとしているのかという自覚は必要であると思いますが),自分の可能性を十分に花開かせるべく自分を人間的に成長させ続け,思い残すことのない充実した人生を送りたいと望むのは,人間として自然なことだと思うからです(思い残すことのない充実した人生を送ることができれば,安らかな気持ちで死を迎えることができるのではないでしょうか。)。また,宇宙や生物や人類が,もとをただせば一つのものから分化・発展したものであることを考えるならば,私たちは宇宙全体,生物全体,人類全体の一部分なのであり,すなわち,私たちと他者は一体なのであり,私たちは他者と無関係に独りで生きていくことはできません。安全で豊かな社会で生活していると,私たちは独りでは生きていけない,という事実をつい忘れてしまいがちですし,恵まれない境遇に生まれ育った人は,自分は誰にも頼らずに独りで生きてきたとの思いが強いかもしれませんが,実際には,私たちは数知れぬ他者の協力や支援があってこそ今ここでこうして生きていられるのです(なお,人間にとっては,自分のことを大切に思い理解してくれる他者がそばにいてくれることほど有り難く,心強いことはないのではないでしょうか。)。そのことを正しく認識しさえすれば,他者を恨むのではなく他者に感謝し,他者と敵対するのではなく他者と仲良く助け合い,他者の幸せを妬み,他者を不幸な状況に追い込もうとするのではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うような有益な人生を送りたいと願うのが,少なくとも「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という無害な人生を送りたいと願うのが,人間として自然なことであると思うからです。

 

 

《私たちはどのようにすれば自分を人間的に成長させ続けることができるのか》

 

(12)自分を人間的に成長させ続けるためには,自分の成長の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心しないということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分を人間的に成長(成熟)させ続けることができるのでしょうか。重要なのは,自分で自分を見限ることなく,自分の成長の可能性を信じ続けるとともに,けっして慢心することなく,初心を忘れずに謙虚さ(謙遜とは異なる真の謙虚さ)を保ち続けることであると思います。自分の成長の可能性を信じ続けることができなければ,今日を精一杯生きるための,自分を人間的に成長させ続けるためのエネルギーは湧いてきませんし,慢心すれば,生き生きとした好奇心やみずみずしい感受性,自分の無知さや未熟さを自覚しての真摯に学ぶ姿勢や自省する態度(いったん立ち止まり,日々の体験をしっかり振り返り,失敗(過ち)を失敗として素直に認めた上で,失敗などから学ぶべきことを学び(体験を認識にまで高めて十分に消化し),それらを忘れまいとする姿勢)といったものを失い,独り善がりになるとともに,そこで成長は止まってしまうと思うからです。人間は,何でも分かったつもりになってしまうと,本当は分かっていることなど高が知れているのに,それ以上学ぼうとする熱意を失いやすく,それに伴い人生は,年とともに謎が深まり神秘さを増す,というのとは逆に,分かりきった退屈で深みのないものになってしまいがちです。加えて,人間は自惚(うぬぼ)れやすく,すぐに危機感を失ってしまいがちですが,人間は自分が得意な分野でこそ失敗する,安心している時にこそ怪我(けが)をする,災は,天災だけではなく人災も忘れた頃にやってくる,などとも言います。致命的な失敗を避けるためにも,せめて人間は自惚れやすいという自覚だけは常に持っていたいものです(弱点や欠点は,それを根本的に改善することは困難ですが,自覚することは比較的容易であり,自覚することによって弱点や欠点に足をすくわれる危険性は格段に低下すると思うからです。)。

 

(13)自分を人間的に成長させ続けるためには,好きなことに出会い,そこに理想を見いだし,その理想に近づくための努力を楽しめるということも重要である。

 また,私たちは,好きなこと(自分にとって必要性や実用性が感じられること)だからこそ困難や苦労に耐え,怠ることなく励み努めることができるのであり,怠ることなく励み努めればこそ上達もし,人間的に成長することもできるわけですから,自分が本当にやりたい好きなことに巡り合い,そこに自分が信じることのできる理想を見いだし,その理想に近づくための努力を心から楽しいと思えるということも重要であると思います。なお,その際に掲げる理想は,人生の指針を明確化し,自分が進むべき道を明らかにするためのものなのですから,到達不可能なものであっても一向に構いません。むしろ,簡単に到達できてしまうようなものでは,人生の指針にはなり得ませんし,人生の途中で自分が進むべき道を見失ってしまうことにもなりかねませんので,理想は高ければ高いほどよいとさえ言えます(理想がいまだ漠然としている段階においては,やる気を喚起し,維持していく上において,当面の努力目標を到達可能な範囲に設定することも有効であると思いますし,当面の必要に迫られて行動するというのがより一般的であるとは思いますが,当面の努力目標に到達するために,あるいは,当面の必要に迫られて行動するだけでは,行き当たりばったりになりやすく,常に前進し続けるのは難しいのではないでしょうか。)。自分が信じることのできる理想がなければ,自分が進むべき方向性が定まらず(目的地を定めずに散策することにも,息抜きとしての大切な意味はあるのでしょうが),行き当たりばったりに彷徨(さまよ)い続けた挙げ句,自分の可能性を十分に花開かせることができないまま人生をむなしく終えることになってしまう可能性が高いので,理想を持つことは重要であると思いますが,自らが掲げた理想に縛られて身動きが取れなくなり,成長が止まってしまうというのでは意味がありませんので,理想は成長に応じてある程度柔軟に修正可能なものであることが望ましいと思いますし,必ずしも理想を一つに限定する必要はないのではないかとも思います。

 

(14)人間的に成長するというのは,自分が信じる理想に向かって前進するということであり,他者との勝負や世間の評価にこだわる必要などまったくない。

 なお,人間的に成長するというのは,自足しつつも向上心を失うことなく,常に自分の可能性に挑戦しながら,自分が信じる理想に向かって一歩一歩着実に前進するということであり,他者に勝とうとして無理な背伸びをしたり,大切な時間やエネルギーを浪費したり,世間から良い評価を得ようとして自分の信念をねじ曲げたり,自分に嘘(うそ)をついたりする必要などまったくありません(自分に嘘(うそ)をつけば,自分に対して合わせる顔がなくなり,自分との対面を避け続けた末に自分が本当にやりたいことが分からなくなってしまったり,いつしか逆恨み的に自分自身を憎み,自分自身を蔑み,自分自身をないがしろにするようになってしまったりしかねません。)。そもそも人間は十人十色であり,人それぞれの生き方があるのであり,自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送るためには,他者に勝ち,他者より多くの財産や高い地位や大きな権力を手に入れたり,世間から評価され,名声を得たるすることよりも(それらは,あくまでも後からついてくる結果であるにすぎません。),強い自制心を持って自分自身に打ち克ち,自分が信じる理想に一歩でも近づくことの方がよっぽど重要なのではないでしょうか。勝ち組・負け組などという言葉もありますが,経済格差はあくまでも経済格差であり,人生の豊かさや幸せの格差ではありません。生きているということは,それ自体に値打ちがあるのであり,他者に勝とうが負けようが,世間から評価されようがされまいが,その値打ちに何ら変わりはありません(生きていることそれ自体に幸せを感じられるならば,このことは実感として理解できるのではないでしょうか。)。他者との勝負など,しょせんは「団栗(どんぐり)の背比べ」であるにすぎませんし,世間は私たちが自惚(うぬぼ)れているほどには私たちに関心や期待を持っていませんので,毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂したり,右往左往したりする必要などまったくなく,世間から評価されないからといって落ち込んだり,世間から評価されたからといって自惚(うぬぼ)れたりすることほど馬鹿馬鹿しいことはないのではないでしょうか(世間から評価されればうれしくなるのが人情ですが,褒められることが多くなれば,けなされることも多くなるのが世の常ですし,褒められて調子に乗れば,必ず後で痛い目に合うことになりますので,おだてに乗らないよう細心の注意を払う必要があると思います。)。「負けるが勝ち」,「大賢は大愚に似たり」などとも言うように,人生において他者との勝負や世間の評価など取るに足りないことです。もちろん,社会に適応するということは重要なことですし,私たちが自分が信じる道を歩み続けることができるのは,他者の支援や協力があってこそであり,他者に対する感謝の気持ちや世の中に対する関心を失ってはいけませんし,他者に対する支援や協力は進んで行うべきであるとは思います。また,独善に陥らないようにするためにも心を常に内外に対して開き,自分の心の声や他者の言葉に謙虚に耳を傾ける姿勢を維持し続けることは大切なことであると思います。しかし,他者との勝負にかまけて理想に向かって前進することを怠ったり,世間の評価に振り回されて自分が進むべき道を見失ってしまったりしたのでは,元も子もありません。

 

(15)人生が行き詰まった際には,その原因や責任は自分にあると考え,自分を変えることによって人生の行き詰まりを打開しようとするのが賢明な生き方である。

 また,人生が行き詰まった際に,その原因や責任を他者や運命に押し付けて恨み言や泣き言を言っているだけでは,いつまでたっても人生の行き詰まりを打開することはできません。なぜなら,他者や運命を自分の思い通りに変えることなどで絶対にできないからです。確かに,人生の行き詰まりには他者に原因や責任がある場合や不運な場合があるかもしれませんし,自分で努力するよりは他者を恨んだり,不運を嘆いたりしている方が楽かもしれませんが,人生の行き詰まりを本気で打開したいと望むのであれば,人生はままならないものであるということを正しく認識しつつ,人生が行き詰まったことの原因や責任は自分にある(自分にもある)と考え方を改め,自分を変えることによって人生の行き詰まりを打開しようとする方が,すなわち,人生を自分の力で主体的に切り開いていこうとする方が,よほど建設的であり,実現可能性の高い賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。人生の主人公(責任の主体)はあくまでも自分なのであり,その主導権(責任)は絶対に手放すべきではないと思います。

 

 

《私たちはどのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのか》

 

(16)自分の幸せを他者と分かち合うためには,まずは自分を大切にし,自分に対して心を開き,自分を理解し,自分が幸せであるということが重要である。

 私たちは,どのようにすれば自分の幸せを慎み深く他者と分かち合うことができるのでしょうか。そもそも私たちは,自分を大切にできるからこそ他者を大切にできるのであり,自分に対して心を開けるからこそ他者に対して心を開けるのであり,自分を理解(内省)できるからこそ他者を理解(共感)できるのであり,自分が幸せであるからこそ自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うことができるのだと思います。したがって,自分の幸せを他者と分かち合うためには,まずは自分を大切にし,自分に対して心を開き(自分の心のバランスを保つためにも,自分に嘘(うそ)をつくことなく自分の心の声にきちんと耳を傾けるということが大切です。),自分を理解するとともに,自分が幸せであるということが重要であると思います。なお,世の中には,自分の幸せを犠牲にしてでも他者の幸せのために何かしたいという人がいるかもしれませんが,自己犠牲的な行動は強い利己心の裏返しである場合が多く(自己犠牲的な行動を取る人間は,無意識的に他者からの大きな見返りを求めている場合が多く),そもそも自分を大切にできない人が,本当の意味で他者を大切にするということができるのでしょうか。たとえ,その自己犠牲的な行動が見返りを求めないものであったとしても,他者を犠牲することによって幸せになれた人は,そのことを心の底から喜ぶことができるでしょうか。幸せに定員などないのですから,誰かが幸せになるために他の誰かが犠牲になる必要などまったくなく,他者の幸せを本気で願うのであれば,他者の幸せのために自分の幸せを犠牲にすべきではないと思います。

 

(17)対人関係においては,できる限り相手を信じて寛大になり,相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向け,相手を好きになれるように心がけるべきである。

 また,誰の心の中にも例外なく善人(肯定的な側面)と悪人(否定的な側面)が同居しています。実際,私たちは他者によって傷つけられもしますが,同じ他者によって癒されもします。それは,私たちが,他者を傷つけたり,癒したりするのとまったく同じです。傷つくことを恐れて他者との関係を断ち切ってしまえば,癒される機会もなくなってしまいます。この世の中に,完全な善人,完全な悪人などというものは存在せず,どんな善人の心の中にも悪人は住んでいますし,どんな悪人の心の中にも善人は住んでいます。しかし,私たちが他者の心の中に住む悪人にしか目を向けなければ,その他者は私たちの目の前に悪人としてしか立ち現れることができません。他方,私たちが他者の心の中に住む善人に目を向ければ,その他者は善人として私たちの前に立ち現れてくることが可能になります。他者は,私たちの対応次第で善人にも悪人にもなり得るのであり,そもそも,こちらが心を開いて友好的に接すれば,相手も心を開いて友好的に接してきてくれ,互いに心を通い合わせることが可能になりますが,こちらが心を閉ざしたまま敵対的に接すれば,相手も心を閉ざしたまま敵対的に接してくるため,対話することさえ不可能になってしまう,というのが普通の人間関係なのではないでしょうか。したがって,対人関係においては,できる限り相手を信じて寛大になり(人間が犯す罪は,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。たとえ他者を非難することがあったとしても,「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちだけは忘れないようにしたいものです。),相手の心の中に住む悪人にばかり目を向けて相手をすぐに嫌ってしまうのではなく(多くの場合,いったん嫌いになってしまえば,あとから好きになることはほぼ不可能なのではないでしょうか。),相手の心の中に住む善人にこそ積極的に目を向けて相手を好きになれるように心がけることが重要であり,善人がなかなか見当たらない場合でも,将来善人になる可能性(潜在的な肯定的側面)を信じて相手を長い目で見るということが重要であると思います。私たちはみんな同じ人間なのであり,せっかくなら,他者に対して心を閉ざし,他者と敵対して孤独に生きていくよりは,他者に対して心を開き,他者と仲良く助け合いながら生きていきたいものです。

 

(18)他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていくためには,足るを知るとともに,他者に対する感謝の気持ちを忘れないということが重要である。

 さらに,私たちは,他者に対する感謝の気持ちを忘れ,他者を競争相手(敵)と見なして競い合おうとするからこそ,常に自分と他者を比較し,挙げ句の果てには,他者を妬んで足を引っ張ろうとしたり,自分を哀れんで卑屈になったり,自分の不幸を他者のせいにしては他者を恨んでしつこく責め立てたり(総じて私たちは,隣の芝生を青いと思いがちであり,自分の荷物が一番重いと思いがちです。),逆に,他者を見下して軽んじたり,おごり高ぶって居丈高になったり,自分の幸せを自分の手柄であると勘違いしては他者の不幸を自己責任であると決めつけたりしてしまうのではないでしょうか。したがって,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていくためには,自分の人生や自分の幸せが数知れぬ他者の支援や協力によってこそ成り立っていることを正しく認識し(安全で豊かな社会で生活していると,つい忘れてしまいがちですが,私たちは独りで生きていくことはできません。),他者に対する感謝の気持ちを忘れないということが重要であると思います。そもそも私たちは,自分の人生に満足できないからこそ他者の人生が羨ましくなり,妬ましくなるのであって,足るを知り,自足している人間は,自分と他者を比較しようとはしないのではないでしょうか。

 

(19)不幸な状況に置かれている他者が幸せになるための支援や協力をすることは,すでに幸せを手に入れている人間の最低限の務めである。

 恵まれない境遇に生まれ育つなどして世の中全般を過度に否定的に捉えるようになり,他者に対して心を閉ざし,人生を悲観し,自分自身をないがしろにするようになってしまった挙げ句,不幸な状況からなかなか抜け出せないという人たちがいます。特に,そのような人たちに対しては,彼ら,彼女らが世の中の肯定的な側面にも広く目を向けられるようになり,他者に対して心を開き,人生に明るい展望を持ち,自分自身を大切にできるようになることを通じて感謝の気持ちを思い出すとともに,いま目の前にある幸せに気づけるようになり,そして,他者と仲良く助け合い,幸せを分かち合って生きていけるように,慎み深く自分にできる限りの支援や協力をしたいものです。「情けは人の為(ため)ならず」とも言いますし,不幸な状況に置かれている他者が幸せになるための支援や協力をすることは,数しれぬ他者の支援や協力によってすでに幸せを手に入れている人間の,あるいは,恵まれた境遇に生まれ育った人間の最低限の務めであると思うからです。

 

(20)自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,未来を担う子供たちに対する大人の務めである。

 なお,未来を担う子供たちに対しては,大人たちの都合に合わせて一方的に支配・管理しようとするのではなく,自分の生き方を通して善(よ)き生き方の手本を示すことこそが,大人としての務めであると思います。しかし,大人たちが,幸せや人生について真剣に考えようとせず,感謝して足るを知ることや,自分が信じる理想に向かって前進し続けることや,他者と仲良く助け合って生きることなどよりも,他者を競争相手(敵)と見なし,他者と競い合ってより多くの財産などを手に入れることを高く評価し続ける限り,子供たちが心の平安を保ちつつ,真に実り多い,生きる喜びに満ちた幸せな人生を送ることは,とても険しい道程(みちのり)であるような気がします。まずは,大人たち,特に,政治家をはじめとする大人の代表者が,「私たちはどのようにすれば幸せであることができるのか」,「私たちはいかに生きるべきなのか」といったことを真剣に考え(現代の風潮においては,即効性のない,回りくどく無意味な作業に感じられるかもしれませんが),その上で自分の価値観や生き方をより健全なものに改める必要があるのではないでしょうか。

 

 

2020年3月28日更新