実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

人間の幸不幸を最終的に決めるのは,境遇や運命ではなく,心の持ち方である。 

 境遇や運命が私たちに与える影響は小さくありませんが,たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,自分は幸せであると心の底から思えるなら,その人は,他者の目にどのように映ろうとも確かに幸せなのですから(逆に,たとえどのような順境にあろうとも,たとえどのような幸運に恵まれようとも,自分は幸せであると思えないなら(自分は不幸であると思うなら),その人は,他者の目にどのように映ろうとも確かに幸せではないのですから),私たちの幸不幸を最終的に決めるのは,境遇や運命ではなく,心の持ち方,すなわち,その境遇や運命をどのように受け止めるのか,その境遇や運命をどのような心構えや心がけで生きていくのか,ということなのではないでしょうか。実際,心の持ち方が変わらない限り,境遇や運命がいくら改善・好転しても,不幸な状況(自分は不幸であるという思い込み)からは,なかなか抜け出せないものです。

 

 

【実り多い幸せな人生に関する名言等 907】

「多勢を恃(たの)んで一人を馬鹿にする勿れ。・・・かくの如き者は人間の糟(かす)なり。」(「愚見数則」(『学生諸君!』所収),夏目漱石,光文社)

 

○自分の人生に満足することができず,自分は不幸であると思い込んでいる人間は(自分が幸せであることに気づけない人間は),他者の幸せを妬みやすく,また,自分が不幸であることを他者のせいにしては他者を恨みやすく,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して,他者をも自分と同じような不幸な状況に巻き込もうとして他害的な行動(誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)したり,罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたり,直接的な危害を加えたり,損害を与えたりといった)に出てしまいがちです。そして,結局は,自分をますます不幸な状況に追い込み,そこから抜け出せなくなってしまいます。しかし,そのような,他者の不幸を願い,喜ぶような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。そのような有害無益な人生ではなく,自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,私たちは,自分が幸せであることに気づき,自分の人生に満足できるようになる必要があるのではないでしょうか。(3)(10)関連

 

 

人間の幸不幸を最終的に決めるのは,境遇ではなく,心の持ち方である。

 「物は考えよう」,「心は持ちよう」,「地獄極楽は心にあり」,「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などとも言いますが,人間の幸不幸を最終的に決めるのは,境遇ではなく,心の持ち方なのではないでしょうか。自分が生まれ育った境遇や,自分が身を置く境遇とは関係なく,心の持ち方次第で人生はまったく別のものになってしまうということです。実際,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を身に付けるなどして,足るを知るとともに,幸せに対する感度を研ぎ澄まし,日々怠ることなく磨き続けることさえできれば(これは自分の意志や努力次第で十分に可能なことです。),たとえどのような逆境にあろうとも,日々の生活の中で幸せを感じる瞬間はどんどん増えていき,やがては,ままならない人生にさえ生きる喜びや幸せを無限に見いだせるようになり,ついには,生きていることそれ自体に幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。そして,ただ普通に呼吸をしたり,歩いたり,景色を眺めたり,誰かと笑顔を交わしたり,食事をしたり,お風呂に入ったり,スーパーで買い物をしたり,本を読んだり,音楽を聴いたりすることなどにさえ深い幸せを感じられるようになるなら,欲望の肥大化は自然に抑えられるでしょうし,「仁者は憂えず」とも言うように,たとえどのような不運に見舞われようとも,それを試練として受け止め,すなわち,「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」,「おだやかな海は上手(じょうず)な船乗りを作らぬ」,「若い時の苦労は買ってもせよ」などと前向きに受け止め,乗り越えていくことが可能になるのではないでしょうか。

 

 

【実り多い幸せな人生に関する名言等 906】

「ただわかったばかりで実地に応用せねば,凡(すべ)ての学問は徒労なり。昼寝をしている方がよし。」(「愚見数則」(『学生諸君!』所収),夏目漱石,光文社)

 

○この世の中には膨大な知識が蓄えられており,しかも,そのほとんどが,万人に対して常に開かれています。私たちは,そのような知的には非常に恵まれた世の中で生活しているわけですが,たくさんの知識を頭に詰め込んだり,クラウドに溜(た)め込んだりするだけでは意味がありません。知識は,実生活に取り入れられ,日々の生活に役立てられてこそ意味があります。真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るためにも,たくさんの知識を行き当たりばったりに(何の目的意識もないままに)頭に詰め込むことにではなく,膨大な知識の中から自分にとって本当に必要な知識を見極め,取捨選択し,その知識を「生活の知恵」としてしっかり身に付けることにこそ,限りある大切な時間やエネルギーを使いたいものです。(前書き)(12)(後書き)関連

 

 

幸せを感じたり,自分の人生に満足したりすることと境遇は,それほど関係がない。

 私たちは,何も特別なことがなくても(例えば,他者が羨むような社会的(世俗的)成功を収めなくても),いつもと変わらない毎日を送っていても,たとえ,ままならない人生に苦しさやつらさを味わっていたとしても,ふとした瞬間に,しみじみと幸せを感じ,場合によっては,圧倒されるくらいの幸せを感じ,胸が熱くなることがあります。また,同じような境遇に生まれ育ち,同じような境遇に身を置きながら,自分の人生に満足し,感謝する気持ちを忘れることなく,常に満ち足りた気持ちで心安らかに機嫌よく笑顔で暮らしている人もいれば,自分の人生に満足できず,感謝する気持ちを忘れ,常に不満を抱えながら,いらいらと不機嫌に仏頂面で暮らしている人もいます。なお,機嫌のよい人が,周囲の人たちから親しまれやすいだけでなく,周囲の人たちをも機嫌よくさせる傾向があるのとは反対に,不機嫌な人は,周囲の人たちから疎んじられやすいだけでなく,周囲の人たちをも不機嫌にさせる傾向があります。その意味で,不機嫌であるということは,一種の迷惑行為,社会人としてのマナー違反であると言えます。真っ当な社会人であることを望むのであれば,他者や社会の役に立ち,他者や社会に益をもたらすことをこそ心がけるべきであり,少なくとも,他者や社会に迷惑を掛けたり,害をもたらしたりするようなことは,できる限り控えるべきなのではないでしょうか。

 

 

【実り多い幸せな人生に関する名言等 905】

「人を裁くな,そうすれば裁きを受けることはない。(「マタイによる福音書」)」(『世界ことわざ名言辞典』,モーリス・マルー編,田辺貞之助監修,島津智編訳,講談社

 

○失敗や過ちを犯さない人間はいませんし,人間が犯す失敗や過ちのほとんどは,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。したがって,失敗や過ちを犯した人間を見下したり,嘲笑したり,正義を振りかざして不寛容に責め立てたりするということは,いつか自分も他者から見下されたり,嘲笑されたり,正義を振りかざして不寛容に責め立てられたりするということに他なりません。この世の中をと殺伐とした暮らしにくいものにしないためにも,この世の中を和気藹々(わきあいあい)とした暮らしやすいものにするためにも,私たちは他者に対して寛容であるべきなのではないでしょうか。同じ(同じような失敗や過ちを犯す可能性のある)人間同士なのですから,どのような状況にあっても,「罪を憎んで人を憎まず」,「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」(吉野弘)という精神・姿勢を忘れないようにしたいものです。(3)(17)関連

 

 

質素でつましい生活を送ることは望ましいが,そのことにこだわり過ぎてはいけない。

 自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは(自分の生活をできる限り質素でつましいものにしてみることは),自分が持っている物の豊かさや有り難さに気づいたり(「すき腹にまずい物なし」と言います。),自分が生きていくのに本当に必要な物を見極めたり(不必要な物に対する執着を捨て去ったり),欲求不満に対する耐性を養ったりする上において,非常に意味のあることであると思います。また,質素でつましい生活は,その価値を得心できないまま他者に強制されれば,ただの貧しくて惨めな生活かも知れませんが,足るを知る人が,その価値を十分に納得した上で自分の意志で選択するなら,心豊かで味わい深いシンプルライフになり得ます。しかし,自分が持っている物をできる限り減らして生活してみることは,あくまでも,感謝する気持ちを思い起こしたり,必要以上の物欲にブレーキを掛けられるようになったりすることにこそ大きな意味があるのであり,自分が持っている物を減らすこと(自分の生活を質素でつましいものにすること)自体が目的なのではありません。したがって,手段が目的化しないように留意する必要がありますし,感謝する気持ちを思い起こして足るを知り,必要以上に欲張ることなく,たとえそれが必要最小限の物であったとしても,自分が持っている物だけで満足できるようになった暁には,自分が持っている物を減らすことに,それほどこだわる必要はないのかも知れません。不必要な物に執着し,それらの虜(とりこ)になってしまわないように用心をする必要はありますが,それらに執着しないでいられるなら,それらを親の敵のように忌み嫌う必要まではないということです。むしろ,自分が持っている物の豊かさや有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝しつつ,それらを無駄遣いすることなく,他者や社会のためにも役立つように,できる限り有効活用することをこそ心がけるべきなのではないでしょうか。