実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

(4)欲張り続ける限り,いつまでたっても満足することはできず,不平不満ばかりを募らせては,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまうのが落ちである。

 私たちは,なぜ自分が幸せであることになかなか気づけないのでしょうか。

 欲望は生の証(あかし)であり,欲望を満たそうとすることは,生き物にとって自然なことですが,人間の欲望は苦しみや悲しみの種でもあります。「欲に頂(いただき)なし」,「欲に底なし」,「思う事一つ叶(かな)えばまた一つ」,「千石取れば万石望む」,「持てば持つほど欲が出る」などとも言うように,人間の欲望は,必ずしも本能(自然)に基づくものではないだけに,限りがなく,放って置けば,とどまる所を知らず,どこまでも肥大化していくからです。肥大化を奨励したり,そそのかしたりするような働き掛けがあれば,なおさらです。

 したがって,私たちは,自分の欲望に強い意志を持って意識的にブレーキを掛けない限り,いつまでたっても満足することができません(一時的には満足できたとしても。)。喉の渇きが水を飲むことによって簡単に癒せるのとは異なり,欲張り続ける限り(自分の欲望に執着し続ける限り),たとえどれだけ多くの物を手に入れたとしても,欲しい物は次から次へと現れるため,心が満ち足りるということはなく,自分がそれらの物を持っていることの有り難さにもなかなか気づくことができません(持っている物が多く,美衣美食の華美で贅沢(ぜいたく)な生活に慣れてしまっているからこそ,自分の欲望を抑えられないという面もあるかも知れませんが。)。常に不満を抱えたまま,死ぬ瞬間まで,自分の欲望に追い立てられ,振り回される形で,また,他者(あるいは,他国)と競い合い,パイを奪い合う形で,より多くの物(必要以上の物まで)を必死になって追い求め続けることになってしまい,心は貧しいままです(常に無い物ねだりをしながら,より多くの物を手に入れるだけのために自分の人生のほとんどを費やしてしまったとしたら,私たちはきっと,たった一度きりの人生に大きな悔い(死んでも死に切れないほどの思い)を残すことになるはずです。また,私たちが,より多くの物を必死になって追い求め続けることで,結果的には,自然環境に取り返しがつかないほどの大きな負荷をかけることにもなってしまいます。)。

 挙げ句の果てには,暖衣飽食の豊かで安全で便利な生活を送る中で,物事が自分の思い通りになることを当たり前と思って感謝する気持ちを忘れ,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに深く思いを致すことができなくなってしまったり,自分の欲望を充足させることを人生の最優先事項とし,その他のことをないがしろにするようになってしまったり,欲に目が暗み,本当に大切なものが見えなくなってしまったり,場合によっては,欲に目を暗ませるがままに道を踏み外すようになってしまったりさえします。

 また,普通の平凡な人生では満足することができず,そのような人生を,無価値な,あるいは,価値の低い人生と見下すようになってしまったり,財産や地位や権力や名声などに執着しては他者と対立・敵対するようになってしまったり(私たちは,自分の人生に満足できないからこそ,目の色を変えて財産や地位や権力や名声などを手に入れようとするのでしょうが,それらを手に入れるためには,必死になって他者と競い合う必要があり,必然的に,他者(あるいは,他国)を協力相手(味方・仲間)ではなく,競争相手(敵)と見なすようになってしまいます。そして,他者の肯定的な側面ではなく,他者の否定的な側面にばかり目を向けては,他者を嫌い,他者を憎み,他者に対して心を閉ざし,他者と対立・敵対するようになってしまいます。なお,権力は,規律や秩序を保ちつつ安全で平和な世の中を築き,維持していく上において欠かせないものですが,権力は欲望と結び付きやすいだけに腐敗しやすく,権力者が,その権力を私物化し,自分の欲望を満たすために乱用すれば,規律や秩序はかえって乱れ,危険で争い事の絶えない世の中になってしまいます。したがって,権力を託す人間を選ぶに際しては,権力を私物化する危険性のない人間を選ぶようにしたいものです。当然のことながら,私たちが私利私欲で権力者を選べば,選ばれた権力者が,その権力を自分を選んでくれた人たちの欲望を満たすために乱用するようになってしまう危険性は高まります。),人生は自分の思い通りになると思い上がった末に(人生を自分の思い通りにしたいと欲張った末に),結局は,ままならない人生に対する不平不満ばかりを募らせるようになってしまったり(人生は本来ままならないものであるという事実をあるがままに受け入れられない限り,人生は,期待を何度も裏切られては失望するだけのものになってしまう危険性があります。),人生が自分の思い通りにならないことを他者や社会,あるいは,境遇や運命のせいにしては,他者や社会を恨んだり,責め立てたり,恵まれない境遇や不運を呪ったり,嘆き悲しんだりするような,被害者意識ばかりの強い他罰的(他責的)な人間になってしまったりさえします。

 私たちは,自分の欲望にブレーキを掛けることなく,自分の欲望の肥大化を放置したまま欲張り続けるからこそ,常に不満を抱えたまま,いつしか,自分は不幸であるなどと思い込むようになってしまい,自分が幸せであることに気づけなくなってしまうのではないでしょうか。そして,心の目を曇らせ,心の平安を失うがままに,いま自分の目の前にある幸せに気づくことさえ難しくなってしまうのではないでしょうか。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 819】

「人に優(まさ)るところがあるのはむしろ失うことが多い。・・・よくよく自制して,驕(おご)る心を振り捨てなければならない。人がしなくてもよい愚行を犯し,わざわざ評判を下げ,思わぬ禍(わざわい)を招くのはひとえにこの慢心のゆえである。」(『徒然草(日本文学全集07所収)』,内田樹訳,河出書房新社

 

○人間は自惚(うぬぼ)れやすい生き物であり,私たちは,ついつい自分を過大評価し,実際以上に見積もってしまいがちです。例えば,生半可な知識を得て何でも知っているつもりになっては,その知識をひけらかしたり,何事にも口を差し挟んだりしてしまいがちです。しかし,「出る杭(くい)は打たれる」とも言います。心の平安を乱されることなく,自分が好きなことに打ち込むためにも(そのことを通じて,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせるとともに,他者や社会の役に立つためにも),決して慢心することなく(謙虚さを失うことなく),できる限り目立たないように慎み深く控え目に(「縁の下の力持ち」として,人知れず黙々と努力しながら,しかもその努力を楽しみながら)生きるのが賢明なのではないでしょうか。なお,自分の自惚れやすさに足をすくわれないようにするためにも,人間は自惚れやすい生き物であるという自覚だけは,常に持っていたいものです。(11)(12)(14)関連

(3)道を踏み外したり,他害的な行動に出たりすることなく,自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,私たちは幸せである必要がある。

 不平不満を募らせ,あるいは,失意失望の淵(ふち)に沈み,自分は不幸であると思い込んでいる人間は(自分が幸せであることに気づけない人間は),「道を踏み外しても失う物は何もない」と勘違いしていることもあり,すぐに自暴自棄になっては,自制心を失い,衝動的に道を踏み外してしまいがちです。また,自分と他者を比較しては,他者,特に,自分より幸せそうに見える他者(社会的(世俗的)に成功しているように見える他者など)を妬んだり,自分が不幸であることの原因や責任を他者に求めては,勝手に被害感を募らせて他者を恨んだりした挙げ句,他者をも自分と同じような不幸な状況に巻き込もうとしてしまいがちです(当然のことながら,他者との間に友好的かつ協調的な関係を築くことは難しく,孤立無援の状態に陥ってしまいがちです。)。具体的には,内面に鬱積されている不平不満,妬みそねみ,恨みつらみといった感情の捌(は)け口を求めるようにして,陰に回って気に食わない他者の足を引っ張ったり,同類と徒党を組んで,あるいは,同類と心理的に結託して気に食わない他者を不寛容に責め立てたり(自分のことは棚に上げたまま,相手に非があると一方的に決め付けては,あるいは,相手の短所や欠点や弱みといった否定的な側面にばかり目を向けては,めくじらを立て,誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)したり,罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたり),場合によっては,気に食わない他者に直接的な危害を加えたりしてしまいがちです。

 したがって,自分は不幸であると思い込んでる人間が増えれば増えるほど,世の中は不寛容でとげとげしく殺伐とした暮らしにくい(生きづらい)ものになり,犯罪や争い事なども増えていきます。なお,加害行動の背景に被害体験が存在している場合もありますが,被害体験が加害行動に直結するわけではなく,様々な被害体験を有しながらも,それらを乗り越えて有益無害な人生を送っている人は,たくさんいます。

 以上に述べたように,自分は不幸であると思い込んでいる人間は,自暴自棄になって道を踏み外してしまったり,他者をも自分と同じような不幸な状況に巻き込もうとして他害的な行動に出てしまったりしやすく,その結果,自分をますます不幸な状況に追い込んでしまいがちですが,そのような有害無益な人生を送ることに,いったいどのような意味があるのでしょうか。人の道に外れた悪行を繰り返していれば,自分を肯定し続けることが難しくなり,いつしかきっと,自分に嘘(うそ)をつくようになってしまったり,自分を憎み,自分を粗末に扱うようになってしまったりします。そのような人生ではなく,常に自分を大切にし,正しい道を歩み続けながら(正しい道に踏みとどまり続けながら),自分の幸せのみならず,他者の幸せをも願い,喜び(他者の不幸を悲しみ),自分の幸せを他者と分かち合うような有益無害な人生を送るためにも,また,世の中を寛容で和気藹々(わきあいあい)とした温かみや潤いのある暮らしやすいものにするためにも,私たちは幸せである必要があるのではないでしょうか。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 818】

「鞭(むち)を持つ人は多いが,教訓をさとる者はほとんどいない。(プラトン)」(『世界ことわざ名言辞典』,モーリス・マルー編,田辺貞之助監修,島津智編訳,講談社

 

○たとえ相手に非があったとしても,愛情や真心に裏打ちされていない言葉は相手の心に届きませんし,厳しく非難したり罰したりするだけでは,相手の反省や成長・更生を促すことはできません。むしろ,厳しく非難したり罰したりすればするほど,相手を意固地にさせ,素直に反省することを難しくさせてしまったり,相手を他罰的(他責的)・悲観的・自棄的にさせ,人間的に成長したり,更生したりすることを困難にさせてしまったりする危険性は高まります。相手を素直に反省させ,人間的な成長や更生を促すことによって同じような失敗や過ちを繰り返させないようにしたいと本気で願うのであれば,「罪を憎んで人を憎まず」という精神を忘れることなく,罪は罪としてその償いをさせ,責任をとらせながらも,相手の人間的な成長や更生を信じて粘り強く,同じ人間同士としてできる限り共感的に向き合い続けることをこそ心がけるべきなのではないでしょうか。なお,人間の犯す失敗や過ちは,そのほとんどは,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。失敗や過ちを犯した相手を不寛容に責め立てるということは,いつか自分も他者から不寛容に責め立てられると言うことに他なりません。(17)関連

(2)私たちは幸せであるべきなのであり,幸せであることを人生の最優先課題とし,どのようにすれば幸せになれるのかということをこそ,真剣に考え,実践すべきである。

 死ぬ瞬間には,きっと誰もが,様々な執着や不平不満などから解放され,無欲恬淡(むよくてんたん)・春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という境地に達するのではないでしょうか。そして,曇りのない眼や心の平安を取り戻し,生きているということは,ただ生きているというだけで十分に価値のある幸せなことだったのだなあと気づき,ここまで生きてこれたことや,この世の中に生まれてこれたことに対する感謝の気持ちを新たにするのではないでしょうか。ちなみに,幸せであることと感謝することは,切っても切れない密接な関係にあります。実際,私たちの心は,幸せな時には感謝する気持ちでいっぱいになりますし,何かに対して感謝している時には幸せな気持ちでいっぱいになります。したがって,常に幸せでありたいと願うのであれば,常に何かに対して感謝していればいいということになります。逆に言えば,感謝する気持ちを忘れてしまった人は,幸せになることが難しいということでもあります。

 しかし,死ぬ瞬間に気づくのでは遅すぎます。人生は,すなわち,私たちがこの世の中で生きることのできるチャンスは,たった一度きりです。その人生が生きる喜びや希望に満ちた幸せなものでなかったとしたら,私たちはいったい何のために生きているのでしょうか。私たちはいったい何のためにこの世の中に生まれてきたのでしょうか。人生がただ苦しくてつらいだけでのものであったとしたら,たとえどれだけ長生きしたとしても,たとえどれだけ大きな社会的(世俗的)成功を収めたとしても,生きている甲斐(かい)がありませんし,わざわざこの世の中に生まれてきた甲斐がありません。

 私たちは幸せであるべきなのであり,幸せとは何かということを正しく見極めた上で(この作業を疎(おろそ)かにし,幸せとは何かということを見誤れば,すべての努力が徒労に終わってしまいます。),どのようにすれば幸せになり,幸せであり続けることができるのかということをこそ,真剣に考え,実践すべきであると思います。幸せであることを人生の最優先課題とし,社会的な成功を収めることなどに気を散らすことなく,幸せになり,幸せであり続けることにこそ,最大限の関心を払い,最大限の力を注ぐべきであると思います。この優先順位を間違えれば,たった一度きりの人生に大きな悔いを残してしまったり,一生を台無しにしてしまったりする危険性さえあるのではないでしょうか。

【実り多い幸せな人生に関する名言等 817】

「経験があるからといって,そこに驕(おご)ってはいけない。傲慢になってはいけない。・・・そうでなければ,経験はその成長をストップさせてしまう。」(『人生の教養が身につく名言集』,出口治明三笠書房

 

○「自慢は知恵の行き止まり」とも言うように,慢心し,自分が無知であることの自覚や自分が未熟であることの自覚を失えば,謙虚に学び,努力する姿勢や素直に反省する態度なども同時に失うことになり,そこで人間的な成長や向上は止まってしまいます。むしろ,独善に陥るとともに,あとは退歩・退行し,堕落する一方になってしまいます。したがって,自分を人間的に成長・向上させ続けることによって,自分の可能性を十分に花開かせ,実を結ばせたい,そのことを通じて,他者や社会の役にも立ちたいと願うのであれば,たとえ何歳になったとしても,たとえどれだけ多くの経験を積んだとしても,たとえどれだけ大きな社会的成功を収めたとしても,決して初心を忘れることなく,謙虚さを失わないように心がける必要があるのではないでしょうか。「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とも言うように,人間的に成長・向上すればするほど,ますます謙虚になっていくというのが,人間の本来あるべき姿なのではないでしょうか。(11)(12)関連

(1)幸せとは,自分がすでに十分に幸せであることに気づくことであり,それさえできれば,他者が羨むような社会的成功など収めなくても,誰でも幸せになれる。

 そもそも,幸せとは何なのでしょうか。

 幸せとは,自分が幸せであることに気づくことである,と言います。私たちは本来,生きているというだけですでに十分に幸せなのに(生きているということは,よくよく考えてみれば一つの奇跡です。私たちは,自分が今ここでこうして生きていられることに対し,心から感謝すべきなのではないでしょうか。),私たちの人生には幸せがぎっしり詰まっているのに(人生は本来ままならないものなのであり,人生に困難や苦労は付き物です。誰の人生であっても,例外はありません。しかし,欲望(不満や憎しみなどの感情も含め。)やデマに基づく迷信や偏狭な物の見方・考え方などによって心の目を曇らせることなく,幸せに対する感度を高めることさえできるなら,私たちはきっと,困難や苦労を補って余りあるほどの,ほぼ無限と言ってもいいほどの生きる喜びや幸せを自分の人生に見いだすことができるはずです。そもそも,「(楽は苦の種)苦は楽の種」,「苦を知らぬ者は楽を知らぬ」,「汗を流さずには喜びはない」(トマス・フラー)などとも言うように,困難や苦労があるからこそ生きている実感や手応えも得られるのでしょうし,困難や苦労を乗り越えることでこそ達成感や充実感といったものも味わえるのではないでしょうか。),私たちには生まれ付き幸せであるための条件がすべて備わっているのに(たとえどのような逆境にあろうとも,たとえどのような不運に見舞われようとも,自分は幸せであると心の底から思えるなら,その人は確かに幸せなのですから,人間の幸不幸は,最終的には心の持ち方次第ということになります。そして,境遇(過去の経験や遺伝や環境など)や幸運などに恵まれなくても,私たちは,心の持ち方次第で幸せになり,幸せであり続けることができるのですから,その意味で,私たちは誰もが,生まれ付き幸せであるための条件をすべて備えているということになります。),幸せであることこそが私たちのデフォルト(基調)なのに(比喩的に言えば,どんなに天気の悪い日でも,雲の上ではいつでも太陽が輝き,青空が広がっているのに),そのことになかなか気づくことができません。しかし,そのことに気づき,感謝する気持ちを忘れさえしなければ,他者が羨むような社会的(世俗的)成功など収めなくても(むしろ,他者と競い合って財産や地位や権力や名声などを手に入れなければ幸せになれないという勘違いこそが,それらに対する執着となって私たちの心の目を曇らせ,私たちの心の平安を乱し,ひいては,私たちを,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に追い込み,私たちが幸せになることを難しくさせているのではないでしょうか。),わざわざ「山のあなたの空遠く」に「幸い」を探しに行ったり,目の色を変えて「青い鳥」を探し求めたりしなくても,私たちは誰もが,幸せになり,幸せであり続けることができるのではないでしょうか。

 なお,生きていること(自分が今ここでこうして生きていられること)それ自体が幸せなことなのであり,また,人間の幸不幸は心の持ち方次第なのですから,幸せになり,幸せであり続けるために,他者と競い合ったり,パイを奪い合ったりする必要など,まったくありませんし,自分から手放さない限り,私たちの幸せを奪い取ることは誰にもできません。