実り多い幸せな人生を送るために

真に人間らしく実り多い,生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送るために

 自戒の念を込め,どのようにすれば真に人間らしく(自分にとってのみならず他者や社会にとっても有益な),生きる喜びや希望に満ちた幸せな人生を送れるのかということについて,あるいは,実り多い幸せな人生を送ることは誰にでも可能であるということについて,様々な名言などをヒントにしつつ(それらに含まれている人生の真理を私なりに理解しつつ),できる限り分かりやすく筋道立てて説明していきたいと思います。皆様が実り多い幸せな人生を送る上において,多少なりともお役に立てれば幸いです。               皆様の人生が,実り多い幸せなものでありますように!

【実り多い幸せな人生に関する名言等 356】

「聖者はこのような人であると知れ。かれは何ものをも所有せず,欲望の生存に執著していない。(ブッダ)」(『原始仏典』,中村元筑摩書房

 

○人間の欲望は,必ずしも本能に基づくものではないだけに切りがなく,欲望(欲望の充足)に執着する限り,いつまでたっても満ち足りるということはありません。どれだけ多くの物を持っていたとしても,心は満足せず,常に不満を抱えたまま,より多くの物を求め続ける結果になってしまいます。そして,挙げ句の果てには,不平不満,妬みそねみ,恨みつらみ,失意失望,自暴自棄といった心理状態に自分を追い込み,自分は不幸であると思い込むようになってしまいます(自分は不幸であると思い込むようになるということは,不幸になるということと同じことです。)。私たちは,本当は生きているというだけですでに十分に幸せなのに(生きているということは一つの奇跡であり,心から感謝すべきことなのではないでしょうか。),心の目を曇らせることによって,そのことが分からなくなってしまいます。曇りのない眼を取り戻し,自分が幸せであることに気づき,自分は幸せであると感じられるようになるためには,強い意志を持って欲望に対する執着を捨て,自分が持っている物だけで(たとえそれが必要最小限の物であったとしても)満足できるようになる必要があるのではないでしょうか。(2021年2月19日)(1)(4)(6)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 355】

「感謝しさえすれば,高価な美食でなくても普通の食事で充分満足だ。」(『ぼくたちに,もうモノは必要ない。増補版』,佐々木典士,筑摩書房

 

○粗食は,他者に強制されれば,ただの粗末で惨めな食事かも知れませんが,物を食べられることの有り難さに深く思いを致し,心から感謝しつつ,自分の自由意志で食べるなら,どのような美食にも勝るとも劣らない,味わい深い心豊かな食事になり得るのではないでしょうか。同様に,普通の平凡な人生に生きる喜びや幸せを感じられるようになるためには,自分が今ここでこうして生きていられることの有り難さに常に深く思いを致し,心から感謝する習慣を,自分の意志で身に付ける必要があるのではないでしょうか。私たちは,どれだけ恵まれた境遇にもすぐに慣れ,それを当たり前と思って飽き足らなくなり,感謝する気持ちを忘れてしまいがちですが,それでは,どれだけ境遇に恵まれたところで満ち足りた幸せな人生を送ることは困難です。逆に,感謝する気持ちを忘れさえしなければ,私たちは,それほど境遇に恵まれなくても,満ち足りた幸せな生活を送ることは十分に可能です。常に満ち足りた気持ちで幸せな人生を送りたいと願うのであれば,恵まれた境遇を手に入れることにではなく,足るを知り,感謝する気持ちを忘れないことにこそ関心を払い,力を注ぐべきであると思います。(2021年2月18日)(4)(6)(7)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 354】

歴史学者が過去を研究するのは,過去を繰り返すためではなく,過去から解放されるためなのだ。」(『ホモ・デウス』,ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之訳,河出書房新社

 

○私たちが,折に触れて立ち止まり,自分自身を振り返るのは,自分が犯した失敗や過ちを素直に認め,反省することによって,同じような失敗や過ちを繰り返さないようにするためです。反省しない人間は,経験を消化して認識にまで高めることができず,失敗や過ちを糧として自分を人間的に成長(成熟)・向上させることができません。そして,結局は,同じような失敗や過ちを何度も繰り返す結果になってしまいます。自分を人間的に成長・向上させ続けることによって自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送りたいと願うのであれば,折に触れて(できることなら日々)立ち止まり,反省する習慣を身に付けるべきであり,そのためにも,決して慢心したり,独善に陥ったりすることなく,何歳になっても謙虚さを保ち続け,自分が未熟であることの自覚を忘れないようにしたいものです。(2021年2月17日)(12)(20)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 353】

「真理は美しいだけでなく,シンプルでもあるはずだ。(ジェームズ・デューイ・ワトソン)」(『教養としての世界の名言365』,佐藤優,宝島社)

 

○私たちは常識のような比較的単純で分かりやすいものを軽んじがちですが,真理というものは本来,簡単明瞭なものなのではないでしょうか。真理はいつでも私たちの目の前に,例えば,諺(ことわざ)や格言や名言といった形で簡潔に明示されていながら,その簡単明瞭さや「金言耳に逆らう」性質(傾向)や私たちの目の曇りゆえに,その重要性になかなか気づくことができないというだけのことなのかも知れません。もちろん,真理が簡単明瞭であるからといって,その深意を正しく理解したり,体得して実践したりすることが容易であるとは限りませんし,真理は実生活に取り入れられ,役立てられてこそ意味があるのでしょうが,まずは,自分の目の前に明示されている真理に気づけるということが重要なのだと思います。生半可な知識を得て,何でも知っているつもりになってしまったり,独り善がりになり,他者の言葉に謙虚に耳を傾けられなくなってしまったりしないよう,自分が無知である(自分はほとんど無知に等しい)という自覚を何歳になっても失うことなく,どのような知識をも大切にし,どのような知識にも素直な気持ちで真剣に向き合えるようになりたいものです。(2021年2月16日)(前書き)(12)(14)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 352】

「生き残る種とは,もっとも強いものではない。もっとも知的なものでもない。それは,変化にもっともよく適応したものである。(チャールズ・ロバート・ダーウィン)」(『教養としての世界の名言365』,佐藤優,宝島社)

 

○慢心すれば,自分が無知であり,未熟であるという自覚を失うとともに,真摯に学び,努力する姿勢や,素直に反省する態度を失い,そこで成長は止まってしまいます。そして,独り善がりな傾向ばかりを強めるとともに,世の中に柔軟に適応することも難しくなり,あとは退化(退歩)し,堕落する一方となってしまいがちです。この世の中において自分の可能性を十分に花開かせ,思い残すことのない充実した人生を送りたい(そのことを通じて,他者や社会の役にも立ちたい)と願うのであれば,世の中に適応しつつ,自分を人間的に成長(成熟)・向上させ続けることが欠かせず,何歳になっても慢心することなく,謙虚さを保ち続けられるようになる必要があるのではないでしょうか。人間は自惚(うぬぼ)れやすく,慢心しやすい生き物ですが,慢心して得になることなど何もありません。劣等感に押し潰されることなく前向きに生きていくためには,多少の自惚れは必要なのかもしれませんが,慢心した挙げ句,独善に陥り,退化・堕落する一方となってしまわないためにも,人間は自惚れやすく,慢心しやすい生き物であるという自覚だけは,常に忘れないようにしたいものです。(2021年2月15日)(11)(12)(14)(後書き)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 351】

「人々の力になること,これは人類の共通の義務なのです。(マリ・キュリー)」(『教養としての世界の名言365』,佐藤優,宝島社)

 

○私たちは,他者の支えや助けがなければ生きていけません(私たちが自分のやりたいことに打ち込めるのも,その他のことを他者が負担し,分担してくれているからです。)。豊かで安全で便利な社会で生活していると,ついつい忘れてしまいがちですが,私たちは独りでは生きていけないのです。この事実を正しく認識しさえすれば,他者を敵と見なして競い合い,足を引っ張り合うような生き方ではなく,他者を仲間と見なして助け合い,幸せを分かち合うような生き方こそが,人間にとって自然で真っ当な生き方であるということがよく分かるはずです。特に,恵まれない境遇に生まれ育つなどした結果,自分は不幸であると思い込むようになり,そのような状況から抜け出せなくなっている人が幸せになるための支援や協力を行うことは,人間,特に,幸運にも恵まれた境遇に生まれ育つことができた人間にとっての,当然の務めであると思います。それは決して,感謝されることを期待して優越感を味わいながら行うべきことではなく,当たり前のこととして,あるいは,自分が幸運に恵まれていることでの負い目を感じながら行うべきことであると思います。(2021年2月14日)(11)(14)(17)(19)関連

【実り多い幸せな人生に関する名言等 350】

「人間というのはつくづくダブル・スタンダードな生き物だと思う。」(『君がいないと小説は書けない』,白石一文,新潮社)

 

○人間が犯す失敗や過ちは,誰もが犯す可能性のあるものばかりです。それなのに,私たちは,他者が失敗や過ちを犯すと,自分のことは棚に上げたまま,不寛容に責め立てたり,場合によっては罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたりしてしまいがちです。そのようなことによって得られることなど何もないのに(あるとしても,一時的に優越感を味わったり,憂さ晴らしをしたりすることができるといった程度のことです。),なぜ私たちは他者の失敗や過ちを我が事として考えることができないのでしょうか。「情けは人の為(ため)ならず」とも言いますが,私たちと他者は本来一体なのですから,他者を大切にし,他者を益することは,必ず回り回って自分を大切にし,自分を益することにつながってきますし,他者をないがしろにし,他者を害することは,必ず回り回って自分をないがしろにし,自分を害することにつながってきます。自分を大切にし,自分を益することを願うのであれば,他者に対してもう少し寛容に,優しく,同じ人間同士として共感的に対応できるようになる必要があるのではないでしょうか。私たちは他者の支えや助けがなければ生きていくことができず,私たちと他者は一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係にあるという事実を,改めて心に深く刻みたいものです。(2021年2月13日)(3)(11)(14)(17)(19)関連